【二六一《金と権力は人を変える》】:二

 店を出てからマリアさんに連れられるまま通りを歩く。

 昨日は外で撮影をしたが、街並みをじっくり見る気は起きなかった。それは、マリアさんにがっちり腕を抱かれている今もだが、歴史を感じる建物や通りの雰囲気を感じるくらいは出来た。


「さっきの電話、日本に帰らせた彼からだったわ。出なくて正解だった」

「あの人、何も悪いことはしてなかったんですけど」

「したわ。私の現場から凡人を出した時点で契約違反よ」

「俺はマリアさんの撮影に同行するとしか聞いてないんですけど」

「同行ではなく随伴よ。凡人は常に私に付き従わなければいけないの。私が求めれば撮影現場だけではなくシャワー室やトイレにだって一緒に入らなきゃダメなのよ。昨日、私の部屋に来ることを拒んだのも契約違反。でも、相手が凡人だから許したのよ」


 マリアさんは間違いなく契約内容をわざと誇張して悪用している。ただ、月ノ輪出版側はそれを黙認してでもマリアさんの写真集を出したいらしい。

 昨日もさっきもマリアさんが話したが、金は人を変える。それは間違いなく悪い方にだ。億単位の金のために月ノ輪出版は俺や古跡さんのことを利用した。


 俺はまだしも、古跡さんはレディーナリー編集部の編集長として会社に寄与してきたはずだ。きっと古跡さんが今まで携わって上げてきた仕事の成果を集計したら億単位の利益になると思う。でも、その古跡さんが長年積み重ねて来た利益の何一〇倍、何一〇〇倍の利益を二種類の写真集を出版することで出してしまう。それくらい、マリアさんの評価は高いし月ノ輪出版にとって大事な人物なんだ。


 そのマリアさんの機嫌を損ねてはダメだ。でも、マリアさんの機嫌を取るために、全面的にマリアさんの言う通りに動くことは出来ない。踏み越えられない一線が存在するからだ。


「凡人、着いたわよ」

「ここは?」


 何かおしゃれな店というのは分かるが、外観からではシックな色合いで所々外壁の塗装が剥げレトロな印象を受けることしか分からない。

 ドアベルを鳴らして店の中に足を踏み入れた瞬間、俺はすぐに踵を返そうとする。でも、それをニヤッと笑ったマリアさんに止められた。


「デート中に女性を一人にしちゃダメよ」


 俺がマリアさんに連れて来られた店は、ランジェリーショップだった。

 どの方向を見ても色や形が様々なランジェリーが視界に入る。ただ、どれも大人っぽいセクシーな物ばかりだった。


「ここはドイツでも有名なランジェリーメーカーの直営店なの。全体的に大人っぽく扇情的なデザインの物が多いわ」

「なんでこんなところに俺を」

「凡人に私に似合うランジェリーを一三種類見繕ってほしいの」

「じゅ、じゅうさん……」


 一三種類と言うと、ドイツの残り滞在日数と同じ数だ。つまりこれから帰国までマリアさんが毎日身に着けるランジェリーを選ばされることになる。


「私を凡人の好みに着せ替えてほしいの」


 陳列されているランジェリーから視線を床に落とし、どうすれば良いか考える。ただ、選択肢は悩めるほど多くはない。

 地名も分からない今の場所から一人でホテルの部屋に帰るのは不可能だ。だから、マリアさんを怒らせて置いて行かれたら俺は路頭に迷う。それに、マリアさんの機嫌を損ねたら古跡さんの左遷に関わってくる。


「時間はたっぷりあるわ。適当に一三種類選ぶんじゃなくて、ちゃんと私の体を思い出してランジェリーと合うか想像してから選んで」


 とりあえず目の前にあった一つに手を伸ばしてそれにしようとした俺の腕を掴み、マリアさんは微笑みながら釘を刺した。

 人によっては人気モデルのマリアさんが身に着けるランジェリーを選ぶというのは喜ばしいことなのかもしれない。でも俺にとっては、この上ないくらいの地獄にしか思えなかった。




 時間はたっぷりあるわ。その言葉通り、ランジェリーショップで一三種類のランジェリーを選び終えるまで、マリアさんに店から出してもらえなかった。そして、買ったランジェリーの入った紙袋を載せて、またタクシーで走り出す。ただ、もう空が暗くなっていることもあり向かう先は宿泊しているホテルだ。


「凡人、凄く疲れてるわよ」

「ランジェリーなんて、何で俺に選ばせたんですか……」

「さっきも言ったけど、凡人好みに着せ替えてほしかったの。それと、凡人がどんな性的嗜好を持っているか見るためよ。選んだランジェリーは挑発的な色やデザインの物が少なかったから、凡人は大人しく奥ゆかしい女性が好みなのね。日本の言葉で言うと大和撫子かしら?」


 出会ってからマリアさんの行動がよく分からない。

 俺のことを好きだと言って俺を誘惑しようとしているのは分かる。でも、行動や言葉はその通りなのに、マリアさんから感じる意思と、俺が耳で聞いて目で見るマリアさんがちぐはぐな印象を受ける。そのせいで、未だにマリアさんの言動が全く信じられない。

 マリアさんの言動と感じる意思のちぐはぐさ、それについて考えていると、答えが出ないままホテルに着いてしまった。


「じゃあ俺は部屋に戻るんで」


 やっとマリアさんから開放されてフロントに鍵を取りに行く。幸い、ホテルのフロントでは日本語が通じて、俺の片言な英語を晒す必要はなかった。


「すみません。鍵を預けている一〇八八室の多野です」

「少々お待ちください」


 フロントスタッフの男性が手続きをするのを待っていると、男性スタッフが俺の後ろを見て微笑む。


「ありがとう」


 男性スタッフがカウンターに出した鍵を、俺の後ろから手を出したマリアさんが受け取る。


「凡人がランジェリーを選んでくれてる間に、部屋を一部屋にしてもらったの」

「えっ?」


 鍵を受け取りながら耳元でマリアさんがそう囁く。それに振り返ると、目の前にニヤッと笑うマリアさんの顔があった。


「マリアさん、流石にそれは――」

「でも、外で寝る訳にはいかないでしょ?」

「だったらロビーで寝れば――」

「お客様、ロビーでの宿泊はご遠慮ください」


 俺とマリアさんの会話を聞いていたホテルの男性スタッフが、さっきまで和やかだった目をキッと鋭くして俺を見る。


「凡人、ダメよ。ホテルの人に迷惑を掛けちゃ」


 鍵を持ったマリアさんは、腕を組んで俺を引っ張る。そのマリアさんに抵抗はしたが、マリアさんは俺を無理矢理歩き出させた。

 昨日泊まった部屋とは違う階までエレベーターで上がり、昨日とは違う形のドアの前に立つ。


 解錠してドアを開いたマリアさんは、俺の体を部屋の中に突き飛ばす。その勢いにつんのめりそうになり、たたらを踏んで部屋の中央で立ち止まると、背後からドアの内鍵を掛ける音が聞こえる。


「昨日も焦らされて、今日もなんて耐えられないわ」

「マリアさん……」


 後ろからゆっくり歩いてくるマリアさんは、ニッコリと笑って俺の目を見る。

 マリアさんは俺より小柄で、普通なら力尽くでもこの場から逃げ出すことは出来る。でも、フロントで腕を引っ張られた時に、俺は腕を決められてマリアさんの動きに従うしかなかった。それに、今目の前から近付いてくるマリアさんを無理矢理通れる気がしなかった。マリアさんの雰囲気から隙を全く感じなかった。


「マリアさん、どうしてさっき腕を」

「こういう仕事をしていると護身術の一つくらいは扱えるのよ?」


 確かに、人気モデルとなれば良からぬことを企むやつに狙われることもあるかもしれない。それに、マリアさんはかなり高飛車な性格をしている。だから、その性格から恨みを買うこともあるかもしれない。


「――ッ!?」


 近付いてくるマリアさんから逃げるために、とっさに左へ走り出す。しかし、ドアを開けて閉める前にまた後ろから突き飛ばされた。

 部屋の中に突き飛ばされた俺は、たたらを踏む前に部屋の端に置かれていた大きなベッドの上に倒れる。そして、ベッドに両手を突いて起き上がろうとしたら、体を勢い良くベッドの上に引き倒された。


「そんなに嫌がらなくてもいいじゃない。悪いようにはしないわ」

「マリアさん……離れてください」


 ベッドの上に仰向けで倒れた俺の上に馬乗りになったマリアさんに言うが、マリアさんはクスッと笑って首を傾げた。


「この状況、日本語では据え膳って言うんでしょう? 本来の意味は女性が男性に身を任せる状況だったかしら。でも、立場が逆でも変わらないでしょう?」


「俺には彼女が居るんです」

「関係ないわ。何のために月ノ輪出版に凡人の随伴を条件に出したと思っているの?」


 俺が着ている防寒着のファスナーをゆっくり下ろし前をはだけさせ、シャツを捲り上げて微笑む。


「見た目通り細いのね。でも、私は男性が筋肉質かどうかなんて気にしないから。大事なのは、私が愛し合いたい男性かどうかだから」


 着ていたコートを脱いでベッドの横にあったソファーに放り投げ、マリアさんはシャツを脱ぎ捨てて上半身を下着だけになる。そして、ゆっくり体を倒して俺の目の前で顔を止めて微笑んだ。


「そんなに怯えないで。初めてじゃないんでしょう? 大丈夫よ。罪悪感なんてすぐになくなるわ。すぐに私と熱く愛し合える」

「俺が好きなのは彼女だけです。こんなこと――」


 最後の抵抗のために腕を動かそうとすると、マリアさんはどこから出したか分からないほど素早い動きで手錠を取り出し、俺の両手をベッドの枕側にある柵へ固定した。


「本当は無理矢理したくはないんだけど、拒み続けるなら仕方がないわ。私にもメンツがあるもの。女として、これ以上拒まれるのは――」

「――ッ!? ロニー王子ですか」


 追い詰められた俺はハッとしてその言葉を発する。その直後、マリアさんは一瞬動きを止めた。しかし、すぐにクスッと笑って体を俺に覆い被せながら耳元で囁く。


「ロニー王子って、あの日本に留学してる? どうして、ロニー王子の名前が出てくるの?」

「マリアさん、フォリア王国の人ですよね」

「いえ、私は――」

「フォリア王国では、食事の前にフォークやナイフといった食器を飲み物で洗う習慣があるそうですね。随分前に、ロニー王子が言ってました」

「…………その習慣がどうしたの?」

「昼、喫茶店に行った時、マリアさんは一瞬だけアップルパイを食べるナイフとフォークをコーヒーに浸けようとしてました。途中で止めていましたが」

「私がフォリア王国の出身だったらどうなの? だからって私が凡人を――」

「ついさっき、俺がフォリア王国の出身か尋ねたら否定しようとしたじゃないですか。それが答えです。俺にフォリア王国の出身だって隠して近付いたって理由は、俺の彼女を好きなロニー王子しか思い付きません」


 追い詰められた瞬間に思い出せて良かった。もし、思い出せなかったら、俺は身動きが取れない状況で不本意だとしても凛恋を裏切ってしまいかねなかった。でも、今のマリアさんは明らかに動揺している。


「…………凄く頭が良いとは知っていたけど、まさか観察力もあるなんてビックリね」


 体を起こしたマリアさんは、そう言いながら小さく息を吐く。それで俺はホッと安心したが、マリアさんはベッドの上で立ち上がり、穿いていたレギンスのボタンとファスナーを外して脱ぎ捨てた。


「マリア……さん?」

「でも、私のやることは変わらないわ。私は凡人とセックスしないといけないの。それを望む人が居るのだから」


 俺が他の女の人と一線を越えた。それを理由に凛恋に俺に対する不信感を抱かせる。そういう算段なんだろう。


「……本当に最低だ」


 俺はロニーが巡らせた謀(はかりごと)を察して、心からその言葉が出た。


「ごめんなさい。でも、それが私の仕事なの」

「……女性に、こんなことを強要して自分の好きな女性を手に入れようとするなんて。本当に軽蔑します」


 下着姿のマリアさんが俺にキスしようとして、俺の言葉を聞いて体の動きを止める。そして、俺の目を見た。


「凡人を騙して、今から無理矢理犯そうとしてる私を心配してくれるの?」

「マリアさんも被害者でしょ。金か権力か分からないですけど、仕事だからってこんなことを強要されて」


 俺の言葉を聞いたマリアさんは、一瞬目を丸くして、そして……初めて見る自然な笑みで微笑んだ。


「凡人は今まで出会った中で一番紳士的で素敵な男性よ。もし、こういう出会い方をしていなかったら、本気で愛せたかもしれないわ」

「俺が好きなのは彼女だけです」

「妬けちゃうわ。……でもごめんなさい。私は、私がやるべきことをやらないといけな――」


 マリアさんが俺の頬に手を添えて唇を近付け、あと数ミリで唇が触れるとという距離まで近付いた時、部屋のドアがノックされる。しかし、そのノックは一回だけではなく、不規則なリズムで何度もドアを叩いた。


 そのノックを聞いた瞬間、マリアさんは血相を変えてベッドルームから出て行く。それを見送り、俺は一体何が起こったか分からずベッドに拘束されたまま部屋の出入り口を見続けた。すると、下着姿からバスローブを羽織ったマリアさんが戻って来た。しかし、そのマリアさんの後ろには黒いスーツを着たがたいの良い白人男性が立っている。


「凡人、ごめんなさい。すぐに自由にするわ」

「えっ?」


 さっきとは打って変わって、マリアさんは俺の手を拘束した手錠を外す。そのマリアさんの顔は真っ青になって何か恐れている様子だった。


「多野凡人、マリア・ヘルトロ・フェル、二人とも付いて来い」


 白人男性が仏頂面をしてそう言うと、マリアさんはすぐに脱ぎ捨てた服を着てベッドから起き上がった俺に手を貸す。


「あの……これはいったいどういう?」


 さっきまで俺を襲おうとしていたマリアさんに尋ねるのもどうかと思ったが、俺とマリアさんに付いて来いと言った白人男性は既にベッドルームから出て行って尋ねられなかった。


「今から、陛下が私達と面会されるそうよ」

「陛下? ――ッ!? 陛下って!?」


 マリアさんの『陛下』という言葉を混乱する頭に一瞬飲み込んで、すぐにその言葉の意味に気付いて聞き返す。すると、真っ青な顔のマリアさんはゆっくり頷いた。


「フォリア王国国王、カルロス・バーナビー・ラジャン陛下よ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る