【二六〇《セクシャルバイタリティ》】:二

「羨ましいな~」

「二週間もあれば、俺達にもチャンスあるんじゃないっすかね」


 マリアさんと男性編集が居なくなると、撮影スタッフの男性二人が気の抜けた声でそんな話をする。だけど、俺はその話に交ざらずに撮影スタッフに向かって頭を下げた。


「今日はお疲れさまでした。失礼します」


 撮影スタッフ達に挨拶を済ませて、俺はマリアさん達が使ったエレベーターとは別のエレベーターで自分の部屋のある階へ向かう。

 マリアさんの行動に俺は特に何も思わない。マリアさんが誰を部屋に誘おうが、マリアさんの勝手だ。むしろ、俺の代わりに他の人が誘われて良かったと思った。でも、マリアさんではなく男性編集の行動に俺は心の中に苛立ちを感じた。


 指輪ははめる指によって意味が変わる。右手の薬指には精神の安定とか創造力を高めるとか、そんな意味があるらしい。でも、きっと一般的な日本人男性でそういう意味で右手の薬指に指輪をはめる人は居ないと思う。


 日本では、大抵の場合右手の薬指に指輪がはまっていたら、その人に恋人が居るということを示す。それは、指輪をはめている側も、指輪をはめている人を見る側もきっと同じはずだ。だから、十中八九、マリアさんと一緒にエレベーターに乗った男性編集には恋人が居るんだと思う。でも、男性編集は全く躊躇わず嫌な顔をせず、マリアさんとエレベーターに乗った。むしろ、男性編集の顔は紅潮していて期待感が見えるほど緩んでいた。


 女性に部屋へ誘われる。それで男なら誰だって一つのことを想像してしまう。俺も同じことを想像したから断ったのだ。きっと男性編集だって同じことを想像した。でも、男性編集は俺と違ってマリアさんの部屋へ行った。


 人の生き方は人それぞれだ。だから、マリアさんの生き方にも男性編集の生き方にも俺が何かを言う資格や権利はない。それでも、男性編集の行動は不誠実だと思った。

 酒に酔っていたから、日本から離れた海外だったから、相手が人気モデルで美人だったから、どんな理由を並べてもそれが恋人を裏切る理由にはならない。


 俺は凛恋が好きで大切だ。だからと言って、俺以外の人に俺と同じくらい恋人へ想いを向けるべきだとは言えない。そういう資格も権利も俺にはないからだ。でも……資格がなくても権利がなくても、俺には思想の自由がある。だから、俺が男性編集の不誠実な行動に憤りを感じることはなにも間違っていない。


 部屋に入って、俺はすぐにシャワーを浴びる。そのシャワーの温度はいつも浴びるシャワーよりお湯の温度を熱くした。そうして、シャワー室から出てベッドの上に座ると、スマートフォンで時計を見る。


 ドイツは今深夜だが、日本との時差は八時間ある。だから、今は凛恋も起きている時間だ。

 俺は迷わずスマートフォンで凛恋に電話を掛ける。すると、呼び出し音をほとんど聞かずに電話が繋がった。


『凡人!』

「凛恋、今大丈夫か?」

『うん! そっちは今、夜でしょ?』

「ああ。撮影が終わって今ホテルの部屋に居る」

『お疲れ様! 仕事はどう?』

「仕事って言っても、ボーッと見てるだけだよ。荷物運びくらいしようと思ってもマリアさんに止められる」

『そっか。……モデルにちょっかい出されてない?』

「撮影に引っ張り回されてるだけだよ。結構疲れた」


 マリアさんの今日一日の言動を詳細に報告すると凛恋が心配する。だから、俺は無難な答えを言った。


『今日、萌夏が帰ってきたんだけど、ぶち切れてたよ。せっかく帰ってきたのに凡人に会えないなんてあり得ないって』

「萌夏さんにはネット電話で伝えたんだけどな」

『その時からぶち切れてたじゃん。まあ、ぶち切れてんのは私も同じだけど』

「ごめん」

『違うし。私が切れてんのは、モデルと月ノ輪出版の社長とかよ。でも、古跡さんを守るためだもんね。凡人が凄く古跡さんにお世話になってるの知ってるから私も凡人に協力する』

「ありがとう。本当に凛恋には助けてもらってばかりだ」

『何言ってるのよ。私の方が凡人にチョー助けてもらいまくりだし。だから、私も凡人のためになれるなら頑張れる』


 電話越しでも凛恋の声を聞いただけで、体の中に居座っていた疲れが体の外へ抜け出ていく。そして、凛恋の声に癒やしを感じた。


『今日一日、希達が遊びに連れ出してくれたんだけど、ちょっと気を抜くとすぐ凡人のことを思い出しちゃって寂しくなってた』

「俺も凛恋のことを考えてた。お父さんもお母さんも居るし、みんなも居るから大丈夫だって思うんだけど、それでも凛恋のことが心配で。それで、栄次と希さんは凄いなって思った」


 今の俺と凛恋のような時差八時間、距離は九〇〇〇キロメートルという途方もない距離ではない。でも、栄次も希さんも高校を卒業してから遠距離恋愛を続けてきた。そして、今でも二人は仲良く一緒に居る。俺はたった一日凛恋と離れていただけで、凛恋を心配して凛恋が側に居ないことが心を締め付けるくらい寂しい。そんな思いを二人がもう三年もしていると思うと、二人の絆の強さを尊敬する。


『だよね。希も栄次くんも本当に凄いと思う。でも、私も大丈夫よ。心配は心配だけど、私と凡人の繋がりだって二人に負けてないし。むしろ、私と凡人の方が強いわよ。だって、私達はもう婚約までしてるんだし?』

「そうだな。あっちは婚約はまだだもんな」


 凛恋のからかう笑みが見える声で言うのを聞いて、俺は小さく笑って凛恋の言葉に同意する。

 俺と凛恋は結婚を一つの目標に進んできた。その目標もあと一年で到達出来る距離まで近付いてきた。その距離まで俺と凛恋が歩いて来た時間と距離を考えれば、八時間や九〇〇〇キロなんてたかが知れている。


『凡人、もう夜遅いんだからゆっくり休んで。明日も朝早いんでしょ?』

「ああ。ありがとう。……凛恋、愛してる」

『ありがとっ! 私も世界で一番凡人のこと愛してるっ!』

「じゃあおやすみ」

『うん。おやすみ。……チュッ!』


 電話の向こうから凛恋のキス音が聞こえ、俺は思わず照れ笑いを浮かべてしまう。でも、恥ずかしさよりも全身を包み込む幸せの方が強かった。

 電話の切れたスマートフォンをしばらく見詰め、少し寂しさを感じた瞬間に充電器に繋いでテーブルの上に置く。そして、ベッドの中に入って電気を消して布団の中に潜り込んだ。


 真っ暗になった瞬間に目を閉じて、少し体を丸めて冷たい布団の中が体温で温まるのを待つ。そして、ほんのり布団の中が温まってくると、布団全体に熱を広げるために丸めた体を伸ばす。


 目を閉じていると隣に凛恋の気配を感じる。それが、俺の頭の中で作り上げた妄想であると分かっていても、手を伸ばせばすぐそこにあるその気配に手を伸ばした。

 もちろん、手を伸ばしても凛恋の柔らかく温かい体はない。それでも、俺は手を伸ばして妄想で作り上げた凛恋を腕の中に抱き込む。そして、さっき電話で聞いた凛恋のキス音にほんの少し唇を尖らせて想いを重ねた。




 次の日の朝、部屋で目を覚まし顔を洗って歯磨きを済ませてから、朝食を食べるためにホテルの一回にあるレストランに向かう。

 ビュッフェスタイルのレストランで料理を皿に取って適当な席に座る。


「頂きます」


 両手を合わせてそう挨拶をしてから朝食を食べ始めようとする。その俺の肩が後ろから叩かれた。


「おはよう。隣、良いかしら?」


 話し掛けて来たマリアさんと、マリアさんの後ろで二人分のトレイを持っている男性編集に視線を向ける。すると、マリアさんは後ろを振り返ってトレイを一人分受け取ると軽く頭を下げた。


「ありがとう。もう行って良いわ」

「えっ? ……し、失礼します」


 男性編集は一瞬戸惑った表情をしたが、軽く頭を下げて離れた席に歩いて行く。すると、マリアさんは俺の分のトレイを持ち上げてニッコリ微笑んだ。


「広いテーブルではなく、あっちのテーブルに行きましょ」


 俺の答えを聞かず俺のトレイを持ったまま、マリアさんはレストランの奥にある二人掛けのテーブルへ歩いて行く。そして、テーブルの上に二人分のトレイを置くと、テーブルを挟んで向かい合って置かれた椅子の片方に座った。


「頂きます」


 仕方なく俺が座って食べ始めると、真向かいに座るマリアさんがニッコリと微笑んだ。


「誰が見て居なくても食事前の挨拶をするなんて、日本人が礼儀正しい人達だからかしら? それとも、凡人がとても素敵な人だからかしら?」

「日本人が全て礼儀正しいとは言いませんが、そういう人達が多いのは確かですね」

「そうね。私も凡人の意見と同じよ。礼儀正しい日本人の中にも精練された心を持っていない人も居るわ。さっきの人みたいにね」


 さっきの人というのが月ノ輪出版の男性編集のことを指しているのは分かる。でも、それをマリアさんの口から聞くことに違和感ではないが、釈然としない気持ちになる。


「一度寝たくらいで自分の女だって勘違いしてるのがダメね。そこは一夜限りの恋には不必要な感情よ。一晩過ぎたらそれっきりって割り切らないと。あっ、もちろん凡人とは一晩限りの恋だとは思ってないわ」

「あの人、多分彼女が居ますよ」


 丸く花形のような割れ目のあるパンを千切って食べながら言うと、目の前で俺と同じようにパンを食べるマリアさんはニッコリ微笑んだ。


「幼い頃から知り合いの人らしいわ。来年にはプロポーズするらしいわよ」

「それは、あの編集さんから?」

「ええ。ルームサービスで頼んだワインと軽食を食べながら話をしたの」

「相手に恋人が居ると分かってて、そういうことをするのはどうなんですかね」

「セックスをすることにそのことを私も気にしなかったし彼も気にしなかった。それだけの話だと思うけれど?」


 全く罪悪感の欠片も感じられないマリアさんは、フォークでサラダを食べる。


「彼、セックスは今の恋人以外と経験がなかったらしいわ。それで、私の方が恋人よりも良かったそうよ」


 満足げに微笑んでカップからコーヒーを飲んだマリアさんに、俺はソーセージをかじり黙って視線を返す。それにもマリアさんは笑顔を崩さない。


「女としては優越感があるものよ? たとえ、あまり興味のない相手から言われても」

「あまり興味のない人と一晩過ごしたんですか?」

「仕方なかったのよ、一番興味のある人は私に構ってくれなかったんだから。ショックだったわ、凡人に断られて」

「何を言われても受けられませんから」

「せっかく昨日一日頑張ったのよ。凡人の代わりのせいで今日のモチベーションが低いの」


 モチベーションが低いと言う割りに全くテンションの低さが感じられないマリアさんは、そのまま平然と食事を続ける。

 今日もマリアさんの撮影は一日続く。その撮影に同行するには朝食はしっかり食べておかなくてはいけない。それは身体的にも精神的にも酷く体力を削られるのが分かっているからだ。


「今日は室内撮影がメインだから、昨日ほど凡人に寒い思いをさせることはないと思うわ」

「外は寒いので良かったです」

「日本よりも五度くらい低いから外でじっとしているのは辛いものね。朝、彼にちゃんと凡人に気を遣うように言ったから」


 視線を離れた場所で朝食を取る男性編集に向ける。


「俺のことは気にしないで下さい。編集さん達に迷惑を掛けるのは良くないので」

「何を言ってるの? 昨日も言ったけど、私にとって彼は不必要な人間よ。彼にドイツでやることがあるとすれば、私の指示に逆らわず従うことと……」


 そう言葉を途切れさせたマリアさんは、クスッと笑って俺の目を見ながらソーセージをかじる。


「私を煩わせないことよ」

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