【二〇五《凡人(ぼんじん)の庭園鑑賞法》】:三

 フランスを嫌いだという日本人は滅多に居ないと思う。だけど、もし仮にフランス嫌いの日本人が「フランスは嫌いだ」と声を大にして発言し、それを世界中に発信しようものなら、絶対にフランスに住む人達は嫌な思いをする。そして、その人達の中から日本を嫌いになる人が現れる。そうなると困るのは、萌夏さんのような留学生だ。


 留学生のほとんどが、自分で留学先を決める。萌夏さんの場合は専門学校の留学先がパリしかなかったが、萌夏さんは本場パリでお菓子作りを学びたいと思ってパリ留学があるコースを選んだ。そこには、パリに対する嫌悪感なんてない。


 他国に嫌悪感を示して、それを発信することは個人の自由なのかもしれない。でも、それでその国を好きな人達が肩身の狭い思いをし、辛い思いをするかもしれないということを、嫌悪を示す人達は何も分かっていないと俺は思う。


 ただ、嫌いなら嫌いで良いと思う。嫌いなものを好きになることは難しいことだと俺も分かっている。でも、嫌いを言葉にしたら最後なのだ。そして、その最後は自分にとっての最後にならない。個人だけではなく、その最後の言葉を口にした国の国民全体の最後になってしまう。


 俺個人がこんなことを思っても仕方ないと思う。だけど、俺は穏やかなベルサイユ市の街並みを見て思う。

 みんなが穏やかに無難に暮らせれば良いのにと。


「私が好きな凡人の顔だ」

「え?」

「今の凡人、チョー優しい顔してる」


 隣に座っている凛恋が、握っていた手を強く握りながらそう言ってはにかむ。すると、希さん、萌夏さん、空条さんがクスッと同時に笑った。

「凡人くんは本当に優しくて良い人だからね。いつもは恥ずかしがってそんなことないって言うけど」

「そうそう。無愛想の殻で優しい自分を隠してるのよね」


 希さんの言葉に萌夏さんが同調して、俺にニヤリとした笑みを向ける。この流れは知っている。…………俺が、盛大にからかわれる流れだ。


「大学でも、多野くんってバリア張ってるよね。私も最初は話し掛けづらくて。大学の食事会に来るって聞いた時は結構意外でびっくりした」

「あれは飾磨がどうしてもって言うから、仕方なく行ったんだよ」

「でも来てくれて良かった。そのお陰で多野くん達とも友達になれたし」

「まあ、飾磨が居なかったらパリで空条さんにも会えなかったしな~」


 そう呟きながら、日本に居るであろう飾磨のことを思い出す。多分、飾磨のことだから夏休みも相も変わらず女性のお尻でも追い掛けているのだろう。


「もうすぐ着くよ」


 窓の外の風景を見た空条さんがそう言うと、リムジンがゆっくりと速度を落として駐車場に入っていく。

 リムジンが停車すると、俺達はリムジンを降りて外に出る。そして、降りた瞬間、俺は視線の先をジッと見詰める。


 視界には、俺達と同じようにベルサイユ宮殿を見物に来た観光客が沢山居る。その人達が歩く先には、白い壁にグレーの屋根をした上品な建物が見える。ただ、金色に輝く装飾も施され地味という感じは全くない。


 宮殿の前にある黄金の柵と門とも相まって、宮殿の存在感が圧倒的に大きい。宮殿と冠しているだけあって、入り口からその高級感が伝わってきた。

 ゆっくりベルサイユ宮殿の門を抜けると、目の前にある宮殿の建物を見上げてつい感嘆の息を漏らしてしまう。


 色んなファンタジーゲームでゲーム内に登場する建物にされてきたヴェルサイユ宮殿。俺は実際にヴェルサイユ宮殿が実物として出て来るゲームをしているから「本物だ」という言葉が浮かんだ。


「凡人! 凡人が前やってたアクションゲームに出てきた建物じゃん!」

「凛恋も覚えてたのか」

「当たり前じゃん! それに気付いたら、何か感動が増したかも!」


 ゲーマーらしいことを言う凛恋と話しながら、俺は宮殿の中に足を踏み入れる。

 モノクロのタイルが綺麗な模様を作り出した長い廊下に入ると、壁際にはいくつもの彫刻が並んでいる。

 開いた黄金の扉を抜けると、天井に綺麗な天井画が描かれた広い空間に入った。


「ここは王室礼拝堂。ミサとか結婚式が行われる場所だったらしいよ」


 萌夏さんの説明を聞きながら礼拝堂を見渡していると、凛恋が俺に耳打ちをした。


「素敵なところだね」

「ああ。凄く神聖で清らかな空気があるな」


 凛恋に言葉を返しながら、俺はどうしても『結婚式』という単語を意識してしまう。

 純白のウェディングドレスを着た凛恋。想像しただけでも、凛恋の魅力に中(あ)てられてのぼせてしまいそうだ。


 フランス王国国王のルイ一四世が、ルイ一三世の建てた城館を増築して宮殿にしたのがベルサイユ宮殿。――なのだが、国王の居城としてルイ一六世の時代まで国王が代わる度に増築が繰り返された結果、ベルサイユ宮殿は現在のように優雅で豪華な宮殿になったと言われているらしい。

 そういう理由もあってか、ベルサイユ宮殿は細部に至るまで妥協の感じられない細かな装飾が施されていたり美術品が飾られていたりする。

 きっと、ベルサイユ宮殿に住んでいた歴代のフランス王国国王達は思ったのだろう。『一国を束ねる王の住む場所は、絢爛豪華(けんらんごうか)でなくてはならない』と。


 豪華な宮殿を建てることが出来るというのは、その国の豊かさも表すだろうが、豪華な宮殿を建てることが出来るという力の誇示にも繋がる。

 多分、歴代のフランス王国国王は「俺はこんなに豪華な宮殿を建てることが出来る力がある」と、国民達にベルサイユ宮殿を持つことで示していたのかもしれない。


 実際、ルイ一四世はヴェルサイユ宮殿の建物と庭園に入ることを民衆に許可して、庭園の見方をまとめたガイドブックみたいなものも配っていたらしい。それだけ聞けば、自慢したがりの嫌な王様にしか見えないが、宮殿の建物と庭園を使って自分の王としての力を誇示し、民意を掴みに来ていたと考えても不思議じゃない。でも俺は、礼拝堂よりも凛恋に心を掴まれて礼拝堂の豪華さが弱く感じた。


「次はベルサイユ宮殿で一番有名な鏡の間よ」

「鏡の間?」


 人の流れに乗って歩いていた俺達が広間に入ると、凛恋が首を傾げる。そして、広間の壁を見て小さく声を漏らした。


「壁に鏡がいっぱいだから鏡の間って言うのね」

「鏡の間は鏡の回廊とも呼ばれてるらしい。鏡の間が作られたのは一六六八年で、その時にフランスがガラス鏡の国産化出来るまで、ヨーロッパのガラス鏡市場はドイツとベネチアの二強だったけど、ほぼベネチアの独占市場だったらしいんだ。だから、当時のガラス鏡はかなり高価だったらしい。そんな高価なガラス鏡をこの鏡の間は贅沢に使ってるから、当時から相当お金が掛かってたと思う。鏡以外の装飾品も多いしな」


 壁に施された禁の装飾に広い天井に描かれた天井画。そして、天井から下がった幾つものシャンデリア。


「凡人よく知ってるね!」

「まあ、鏡の間の詳しいことは出発前に調べたんだけどな」


 凛恋に褒められて嬉しくなって、俺は鏡の間を見渡しながら再び口を開く。


「鏡の間はベルサイユ宮殿で働く宮廷人とか、宮殿に来る人達の待ち合わせ場所に使われたり、盛大なパーティーとか儀式の会場にも使われたりしてたらしい。ベルサイユ条約の調印もここでやったらしいし」

「ベルサイユ条約ってなんだっけ?」


 凛恋が可愛らしく首を傾げて俺を見ると、凛恋の側に立っていた希さんがクスッと笑った。


「ベルサイユ条約は一九一九年六月二八日に第一次世界大戦を終結させるために当時の連合国とドイツの間で締結された講和条約だよ。でも、ベルサイユ条約締結から一六年後の一九三五年三月一六日にヒトラーが一方的に破棄しちゃうんだけど」

「全く……相変わらず凡人くんも希も頭が良いわね。どうしてそんなややこしい歴史の単語がスラスラ出てくるのよ」


 萌夏さんは感心したというよりも呆れた様子で俺と希さんを見る。


「でも、凡人と希の話を聞いたら、鏡の間がより凄い場所だって思う」

「さ、次に行くわよ。ベルサイユ宮殿はダラダラしてたら一日あっても回りきれないくらい広いんだから」


 また歩き出した萌夏さんの後ろを歩いていると、凛恋が小さく隣ではにかむ。


「どうした?」

「やっぱり、凡人の隣は楽しいなって思ったの」

「俺の隣?」

「うん。初めてベルサイユ宮殿を見てる凡人の顔を間近で見られるし、凡人の隣はいつでも凡人と話が出来る。だから、凡人の隣は楽しいなって改めて思ったの」


 はにかんだ顔のまま俺にピッタリ体を引っ付けた凛恋は、そっと俺の手を両腕で抱く。


「俺も凛恋の隣は楽しくて幸せだよ。凛恋を一番近くでずっと見てられるし」


 寄り添う凛恋に応えるように、俺は凛恋にそう言って凛恋に抱き締めてもらっている腕を引き寄せる。

 凛恋の隣は特等席だ。可愛くて綺麗で魅力的な凛恋を一番近くで見られる場所は、男なら誰だって居たいと思う。その場所に俺が居て、可愛くて綺麗で魅力的な凛恋を見続けられる。それは楽しいだけじゃなくて幸せだ。


「それズルい! 私も凡人の隣で幸せだと思ってるし!」


 明るく笑いながら、凛恋はこれ以上近付けないのにまだ俺に体を寄り添わせる。それに、俺もこれ以上近付けないのにまだ凛恋の体を引き寄せた。

 ベルサイユ宮殿の建物を抜けて外に出ると、一気に視界が開けて明るい太陽の光が降り注ぐ。


「チョー綺麗!」

「うわーっ! 凄い!」


 外に出て目の前の光景を見た凛恋と希さんは、そう明るく弾んだ声を上げる。

 ベルサイユ宮殿の裏に広がる庭園は、フランス式庭園の最高傑作と呼ばれているほど美しい。それに、信じられないくらい広大な庭園になっている。


 天気が良いから遠くまで見通すことが出来るが、俺の目では庭園の端は全く見えない。

 ベルサイユ宮殿を出て幅の広い道を真っ直ぐ歩くと、正面に大きな池が見え中央に存在感抜群の噴水が鎮座している。


 ラトナの泉水。ローマの詩人、プブリウス・オウィディウス・ナソが読んだ変身物語という詩をモチーフに作られているらしい。俺は変身物語という詩は分からないが、俺達に背中を向けるラトナ像の後ろ姿には優しさを感じた。

 ラトナの泉水を抜けて通り道にある庭園を散策した俺達は、貸しボートを借りて運河に漕ぎ出した。


「凡人格好良い!」

「そうか?」


 テレビで見た漕ぎ方の記憶から見様見真似で二本のオールを使って船を漕ぐ俺に、正面に座る凛恋がニコニコ笑って言う。それに、俺は照れを隠しながらはにかむ。

 運河の上をゆったり進むボートの上で、凛恋は後ろを振り返って風でなびいた髪を耳に掛ける。その仕草が色っぽく、広大で優雅な運河に負けない清廉さがあった。


「凡人」

「ん?」

「ベルサイユ宮殿の歴史とか庭園の凄さとか噴水の逸話とか、全然知らなくても凡人と居れば全部楽しかった」

「俺も楽しかった。まあ、この後もまだまだ時間はあるけどな」

「もちろんよ。まだまだ凡人と一緒に行きたいところとか、考え出したら切りが無いくらいあるんだから」


 俺は、大昔から庭園を見てきた人達――いや、今までもこれからもベルサイユ宮殿の庭園を見ていく人達が可哀想だと思った。ルイ一四世が作ったガイドブックも、全世界で売っているベルサイユ宮殿に関する本の全てに、この世で最高に美しいものが載っていないのだ。そして、それを知っているのは俺だけしか居ない。


「凡人? どうしたの?」

「ごめん。綺麗な景色に見とれてた」


 ボーッとしていた俺に首を傾げた凛恋に、俺はそう言って明るい笑顔を返した。

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