【一五八《蔓延(はびこ)るか鳴り響くか》】:三
「だから、まずは変えやすい周りの意識を変えようと思ったの。それで、凡人くんの心が壊れるリスクを減らして、そこから凡人くんを変えようと思った。だからあの日、全員をあの公園に揃えて言ったの」
「じゃあ、みんなを公園に呼んだのは……」
「私だよ。凡人くんと八戸さんが一緒に居るのを見て、今だって思ったから」
おかしいとは思った。一旦別れたはずのみんなが、あのタイミングで公園に居合わせるなんて。やっぱり、真弥さんがみんなを呼んだんだ。
「でも、そのお陰でみんなは考えてくれたよ。ちゃんとどうすれば良いか自分で答えを見付けた子も居るし、まだ迷っている子も居た。でも、みんななら、きっと自分なりの答えを出して凡人くんに向き合ってくれる。みんなは、そういう強い関係だから」
「真弥さん……」
リゾットを食べ始めた真弥さんから目を離し、俺もドリアを食べるのを再開する。
壊すためではなかった。ただ、変えるためではあった。
今日、昼間来た栄次も瀬名も変わっていたし変わろうとしていた。でも二人は、俺のことを真剣に考えてくれていた。俺ともっと友達に、親友になろうと真剣に考えてくれていた。
俺自体は、まだ俺自身のことに危機感は持っていないし、変わる必要もないと思っている。でも、みんなが俺のことを真剣に考えてくれるのは嬉しかった。
「あの……凛恋は、なんて言ってましたか?」
「ん? 詳しい話は八戸さん本人から聞いた方が良いけど、女子会に来た時にはもう決まってたみたいだよ」
「そうですか」
「でも、八戸さんなら自分が変わって凡人くんには変わることを望まないんじゃないかな」
「真弥さんは、凛恋のことをよく分かってるんですね」
「八戸さんは凡人くんより見てる期間が長いからね。それに、同じ女性だから分かることもあるよ。それに、多分……」
「多分?」
言い掛けた言葉をしぼませた真弥さんに俺は聞き返す。しかし、真弥さんは空になったシャンパングラスを手の中で揺らしながら首を振って笑った。
「ううん。何でもないよ」
何でもないわけではないのは分かる。でも突っ込むべきことではないのも分かる。
いくら真弥さんが友達として接してほしいと言ったとしても、真弥さんは目上の人だ。そうじゃなくても、人が話したがらないことに踏み込むのはマナー違反だというのに、目上の人に突っ込んで話すなんてもっての外だ。でも、気にならないわけではなかった。
その後は、真弥さんがピザでもう一杯シャンパンを飲んで、俺と真弥さんは店を出た。
店を出る頃にはすっかり日が沈み切っていて、茜色に染まっていた空も、橙色に染められていた雲も、空は青黒く雲は薄灰に暗くなっていた。でも真っ暗になっているわけではなく、空に浮かんだ月明かりのお陰で夜道を安心して歩けるだけの明るさはあった。
真弥さんとの話は、俺についての話だった。真弥さんが俺に対して抱いている心配と不安の話。そして、その心配と不安から起こした行動のこと。だけど、真弥さんの全てを理解というか納得することは出来ない。
壊されなかったし終わらされもしなかった。でも、確かに俺達の関係には変化があった。いや、まだ変化の途中でもある。その変化が俺達にとって良いことになるのか悪いことになるのか、それが今の時点ではどうも言えなかった。だから、その危うい賭けのようなことをしたことを、俺は理解も納得も出来ない。
ただ、それが真弥さんが俺のことを思ってしてくれたことだから否定も出来なかった。だから、理解もしないし納得もしなければ否定もしない。今は、起きた事実と起こした意図を聞いて飲み込むことしか出来ない。
「凡人くん、もう大学生だしもう少し付き合ってもらえるよね?」
「えっ? 俺は良いですけど、真弥さんは大丈夫ですか?」
「大丈夫大丈夫。それに、まだ凡人くんと話さないといけないことは沢山あるから」
隣を歩く真弥さんはお酒のせいか少し赤くした顔で微笑む。
俺は夏休みだから良い。でも、真弥さんは明日仕事があるはずだ。だから、あまり遅くなるのは良くない。だけど、真弥さん本人が良いと言うのなら良いのだろう。
真弥さんは俺よりも年上で社会人としてちゃんと働いている。仕事とプライベートを考えて自分の生活をコントロールするのは、俺なんかよりも長けているに決まっている。その真弥さんがもう少し大丈夫と言うのだから大丈夫なのだ。
真弥さんは店から駅とは反対方向へ歩き出し、月明かりに照らされた閑静な住宅街を歩く。
「この前の夏フェス楽しかったね」
「そうですね。ステラとジュードの演奏も良かったんですけど、自分の聴いたことがないジャンルの音楽を聴くのも楽しかったです。それに、周りが俺よりもハイテンションで盛り上がってるせいか、俺が少しハイテンションになっても恥ずかしくなかったですし」
「みんなで一緒に手を挙げてピョンピョン跳ねながら音楽に乗ったよね。あれ、一体感があって凄く楽しかった」
後ろに手を組んで声を弾ませて言う真弥さんの笑顔は、大人っぽい穏やかな笑顔ではなく、子供っぽい無邪気な笑顔だった。
真弥さんはなだらかな坂道を上っていき、閑静な住宅街からも離れて郊外に出る。そして、なだらかな坂の先にある公園に入った。
「うわぁ~」
目の前に広がる景色を見て、俺はそう声を漏らしていた。
公園の奥にある芝生が敷かれた小さな丘の上に上ると、そこから綺麗な夜景が見えた。
ビルや街灯、それから道路を走る車のヘッドライトの明かり。眩く華やかなわけじゃないけれど、凄く落ち着く穏やかな夜景だった。
「凡人くん、座ろう」
丘の上にあった木製のベンチに座った真弥さんが、自分の隣を軽く叩いて俺に言う。
俺が真弥さんの隣に座ると、真弥さんは夜景を見ながら話し始めた。
「凡人くんに、私が初めて凡人くんに会った時の話をしたよね?」
「はい。俺が一年の時にコンビニで見掛けた話ですよね」
「うん」
俺は真弥さんから卒業の日にその話を聞いて、凄い偶然があるものだと思った。
たった一度しか行かなかったコンビニで、その後に自分の担任になってくれて、しかも人生を大きく変えてくれる恩人になってくれた真弥さんと出会っていたなんて、本当にビックリした。
「でもね、あの時に私は凡人くんに言わなかったことがあるの」
「言わなかったこと、ですか?」
「そう。……ううん、言わなかったんじゃなくて、言えなかったことかな」
真弥さんは夜景から目を背けず言う。
「私ね、凡人くんと初めて会った、凡人くんを初めて見掛けたコンビニに、あの後何度も行ったの」
「えっ?」
「でも、その後一度も凡人くんはあのコンビニに居なかった」
「あのコンビニはたまたまあの日に行っただけで、その後はいつも使うコンビニの方に行ってたので」
「そっか。通りで会わなかったわけだね」
そう言ってから、真弥さんは言葉を発さずにずっと夜景を見続ける。俺は何か言葉を続けようと思った。そして「真弥さんはあのコンビニ行き着けだったんですか?」というどうでも良いような話をしようとした時だった。
「私は、凡人くんにもう一度会いたくて何日も通ったの。その時は凡人くんじゃなくて、店員さんを助けた格好良い男の人だったけど」
「真弥……さん?」
「日頃行かないコンビニで、店員さんを助ける格好良い男の人だよ? 運命を感じちゃっても仕方なかったの」
視界の端で、腿の上で重ねた手を真弥さんが握るのが見えた。
「どうしても連絡先を交換したかった。連絡先を交換して、何度かデートに行って、それから相手の趣味とかどんな仕事をしてるのかとか聞いて、それから仲良くなって、好きですって告白して……付き合えたら良いなって思った」
真弥さんは握った手の甲を片手でつねった。
「それなのに……高校生なんて酷いよね、神様は」
涙を流しながら笑った真弥さんに、俺は何も言えなかった。
真弥さんは手の甲をつねっていた手を外し、スカートの裾を掴んで震わせる。
「でも私は狡いから、そういう神様の現実を見なさいって言ってることを、見て見ない振りをした。高校生でも、諦めないって思ったよ」
何を言われているのか分かっている。
俺は真弥さんに告白されているのだ。あの、コンビニで真弥さんが俺を初めて見た時から好きだったと。
それに対する俺の答えは決まっている。聞く前から決まっている。
ごめんなさい。俺は、凛恋が好きだから。
その答えしかない。俺の中には、誰から告白されても、その答えしか持ち合わせていない。だから、俺にはすぐに真弥さんへ出せる答えがあった。
でも、言えない……言わせてもらえない。言える雰囲気を作らせてくれない。
雰囲気を全部、真弥さんに支配されている。
だから……俺は何も言えなかった。
「凡人くんが転学して来て、ずっと気に掛けてた。でも、それから程なくして凡人くんが八戸さんと付き合っていることを知ったの。だけどね……私は狡いから、それも見ないようにした。ううん、見たけど考慮に入れなかった」
その真弥さんの目にはもう涙はなかった。ただ、笑顔も顔からなくなっていた。
「だって仕方がないよ。私が一目惚れして一度高校生だからって挫けて、それでもやっぱり諦めないって思えた人は、ただ優しくて格好良い人じゃなかった」
ベンチから立ち上がった真弥さんは、ベンチから数歩離れて夜景に向かって立つ。そして、振り返った真弥さんは笑っていた。
無邪気さと切なさと色っぽさと小悪魔っぽさと……腹黒さと…………。
月明かりが雲で陰った丘の上で、俺は真弥さんの笑顔を見て固まる。初めて見た笑顔だった。
表情が読めない笑顔。今、真弥さんが何を考えているのかが全く分からない笑顔が、視線の先にあった。
「身長が高くてスタイルも良くて、顔も大人っぽくて視線が鋭くてしっかりしてて。でも、それは怖いとか刺々しいわけじゃないの。見てることがみんなと違うの。同年代の男の子とも、大人の男の人とも違うの。誰もが当たり前だって見逃すことを、誰もが見向きもしないことを真剣に考えて真剣に見詰めているから鋭いの。考え方だって、少し行き過ぎるところもあるけどしっかりしてる。だけど、心は凄く純粋で感受性が豊かで、本人は無頓着とか無関心を装ってるけど、全然そんなことなくって。それがすっごく可愛くって……。それで、それでね……その人はとても危ういの」
丘を流れる風が、真弥さんの髪とスカートの裾をなびかせる。そして、雲に陰った月が再び顔を出して、町中を、丘の上を、真弥さんの笑顔を照らした。
月明かりに照らされた真弥さんの笑顔は明るかった。月明かりさえも消し去るくらい明るくて、キラキラと輝いていた。
「誰にも任せたくない。凡人くんの格好良いところも可愛いところも危ういところも、もう誰にも任せられない。私は断言出来るよ、私なら自然な凡人くんで居させられるって。一番、凡人くんが魅力的で居られる恋人で居られるって。凡人くんが無理をして、凡人くんの魅力を陰らせないって」
「真弥さん、俺は――」
何も言えなかった俺は、やっと立ち上がって言葉を発しようとした。でも、また言えなかった。だけど今度は雰囲気で止められたわけじゃない。
物理的に、行動で止められた。
フワリと微かに甘いシャンプーの香りが花に香り、両肩にそっと手が置かれるのを感じる。そして、唇には柔らかく温かく……そして優艶な感触を受けた。
目の前にある目を優しく閉じた真弥さんの顔が歪む。その瞬間、柔らかく温かく優艶な感触が一気に、強く荒く強引で……淫らになった。
体を押されてベンチの上に押し戻されても、俺は息をすることも許されず、目の前から迫る真弥さんに追い込まれて心を飲み込まれそうになる。
この感覚をどこかで感じた。……そうだ、あの時、ステラがインターナショナルミュージックコンクールで演奏した、エルンストの魔王を聴いた時に似ている。
あの時は、真っ黒い恐怖に追われて、大切なものを奪われるような感覚がした。だけど、今回は違う。
奪われる側なのは変わらない。でも……奪われるのは他の何かではなく俺自身。
ベンチに座らされた俺の膝の上に腰を下ろした真弥さんは、押し付けた唇を離すことなく俺の首に手を回して腕で俺の首を引き寄せる。そして、更に唇を押し付ける。
首に回された腕から熱を感じ、その熱よりも熱く濃密で分厚い熱を唇から感じる。
何も言えなかった俺は何も出来なかった。何も出来なかった俺は、ただサンドバッグのように真正面から、真弥さんの熱を強く鈍く全身にぶつけられるのを無抵抗で受けるしかなかった。
ゆっくり唇を離した真弥さんは、俺の顔の数センチ先でニッコリ微笑む。その笑顔は天使のようで悪魔のようで、また読めない笑顔だった……。
「返事はさせない。この恋を誰にも終わらせない。私以外の他の誰にも終わらせなんてしない。それが、凡人くん自身だとしても」
濡れた唇が艶やかに動いて、小さく笑みを浮かべる。
「今日からは私を、凡人くんのことが好きな一人の女として見て」
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