【九一《贋物(がんぶつ)のポリアモリーと本物の愛》】:二
「凛恋は?」
「露木先生が話があるって、どこかへ連れて行った」
「そう…………ありがとう。萌夏ちゃんと露木先生を守ってくれて」
「いや……俺は何も出来なかった」
守ったなんて言えない。萌夏さんも露木先生も心が傷付いている。
それは、お世辞にも守ったなんて胸を張れる状況じゃなかった。
「…………でも、萌夏ちゃんも露木先生も、怪我も何もないんだよね?」
「萌夏さんは何も、でも、露木先生は男に平手打ちされて頬を少し腫らしてる」
「…………きっと、凡人くんが居なかったら、誘拐犯に二人共もっと酷い乱暴されてたかもしれない。そうならなかったのは、凡人くんのおかげだから」
希さんがそう言うと、病室から萌夏さんの両親が出て来る。しかし、二人とも顔を俯かせて暗い表情をしていた。
「あの、萌夏ちゃんは……」
「…………ずっと両手で顔を覆ったまま何も話そうとしない」
希さんの言葉に、萌夏さんのお父さんが首を横に振って言う。それを見て、俺は廊下の床に視線を移した。
「私、萌夏ちゃんに会って良いですか?」
「ああ。赤城さんが会ってくれたら、元気が出るかもしれない」
希さんが病室のドアに手を掛けながら俺を振り向く。その希さんに、俺は黙って横へ首を振った。
「萌夏ちゃん、私……入るね」
希さんは俺から目を離して、ノックをしてから病室に入っていく。
それを見送ってから、俺は背中をもたれ掛けた壁に、心にのし掛かっている重荷も預けようと体重を傾ける。
確かに俺が行かなければ、内笠は自分の思うがままに行動しただろう。
そうなったら、本当に最悪の結末になっていたかもしれない。
最悪の結末にはならなかった。だけど、もっとやりようがあったんじゃないかと思う。
もっと俺がしっかりしていれば、もっと俺がちゃんと動けていれば、もっと良い結果になったんじゃないかと思う。
萌夏さんも露木先生も、精神的にも身体的にも、少しの傷も負わずに事態が収拾出来たのではないかと思う。
「…………り、こ?」
握り締めようとした右手が、柔らかく温かい感触に包まれる。隣には、凛恋が居た。
黙って手を繋ぐ凛恋は、体をピッタリとくっ付けたまま言葉を発しない。ただ黙って俺の側に寄り添ってくれる。
「露木先生から聞いた。…………萌夏と露木先生を助けるためだったし、露木先生からだったからノーカンにする」
やっと口を開いた凛恋が、そう言って手を強く握る。それに、俺は視線を凛恋から廊下の床に移して謝った。
「…………ごめん」
「希は?」
「今、萌夏さんの病室に居る。さっき、萌夏さんの両親が出て来て、入れ違いで入った」
俺の言葉を聞いた凛恋は、病室のドアをジッと見続ける。
「…………萌夏と露木先生を脅したやつ、どうなったの?」
「警察に連れて行かれた。その後はどうなったかは分からない」
「露木先生は乱暴されたの?」
「平手打ちをされた」
「最低っ……」
凛恋が視線を落として、俺と握った手に力を込める。
「……萌夏は?」
「萌夏さんは怪我するようなことはされてない」
好きでもない男に抱き寄せられ、胸や尻をまさぐられた。その言葉は出なかった。
萌夏さんにとっても口外されたくないことだし、男が怖い凛恋にとっても聞きたくない話だ。
「凛恋……萌夏ちゃんが話したいって。凡人くんも一緒に」
病室のドアが開き、中から希さんが顔を出す。そして、外で待つ俺と凛恋に言う。
凛恋が俺の手を引いて病室の中に入って行く。
病室の入り口から中に足を踏み入れると、ベッドの上に座る萌夏さんの姿が見えた。
救急車の中で見ていた時と同じ、両手で顔を覆った状態だった。
「萌夏……」
凛恋が俺から手を離して、萌夏さんに近付き声を掛ける。
「凛恋……ごめん……ごめんね……ごめんね、凛恋……」
「萌夏、どうしたの? 萌夏が私に謝ることなんてないじゃん」
凛恋が萌夏さんの背中を撫でながら慰める。でも、顔から両手を離した萌夏さんは、頭を横に振って否定する。
「私……凛恋に謝らないといけないことがあるの……」
萌夏さんは両手で凛恋の両手を握り、血の気の引いた真っ青な顔を凛恋に向ける。
「私……凡人くんのことが好きだったの」
「「……えっ?」」
萌夏さんの言葉に、凛恋と、一緒に病室に居た希さんが驚いて聞き返す。
「…………私が元彼に振られて、一人で歩こう会を歩かないといけないって知って、凡人くんが気を遣って凛恋に声を掛けさせてくれて、それで……あの、希を背負ってゴールした凡人くんの姿を見たら…………好きになってた」
病室の出入り口に一番近い壁にもたれ掛かる俺は、耳を塞ぐことも出来ず、せめて視線だけは床に向けた。
「彼氏に振られて落ち込んでる時に優しくしてもらったからだって思ってた。時間が経てば気持ちも冷めるって思ってた。でも、あの日を境に、凛恋と交えて凡人くんともよく遊ぶようになって…………それで、分かった。私は本気で好きになっちゃったんだって……」
居心地の良い空間ではなかった。でも、萌夏さんが俺も一緒にと言ったのには理由があるのだろう。
「萌夏…………」
「凛恋から凡人くんを奪おうなんて思ってない。凛恋と凡人くんが一度別れた時だって、凛恋は凡人くんと一緒に居るべきだと思ったし、凡人くんも凛恋と一緒に居るべきだと思った。私は……忘れられるまで、密かに想ってるだけで良かった。でも……今日、全部凡人くんに知られちゃった……」
「凡人に、告白したの?」
「違う……。私が、凡人くんのことを考えて……一人でするのを、盗撮されてたの」
病室がシンと静まり返る。でも、その静けさは、色んな気持ちのせめぎ合いが聞こえてくるようで、心の中はうるさかった。
「私…………凡人くんが使ったカップに間接キスして喜んでて、それも知られてて……。本当にごめんなさい。私、どうやって謝ったら」
「……私も凡人に、わざと口付けたペットボトルを渡して、間接キスするところ見て喜ぶわよ。好きな人だったら、そういうのドキドキするのは分かる」
凛恋の言葉に俺は視線を上げて驚く。しかし、優しい凛恋のことを考えれば当然なのかもしれない。
友達の恋人に対して恋心を抱く人が、この世にどれだけ居るのか分からない。でも、そんなに少なくない数の人が居るのではないかと思う。
凛恋を好きな男は、過去に腐るくらい何人も居た。
俺が凛恋のように魅力的な人間だとは思わない。でも、恋人が居るからと言って、他の誰かに好かれる可能性がなくなるわけじゃない。
むしろ、恋人が居るということは、人から好かれているということだ。だから、誰かしらが好きになる可能性のある人間だと言える。
萌夏さんは、俺のことを好きになってくれた。でも、凛恋が居るからその気持ちを抑え込んで必死に仕舞い込もうとした。
友達に限らず、恋人の居る人を好きになってその気持ちを抑え込もうとする人はどれだけ居るだろう。俺は、そんな辛いことが出来る人は何人も居るものじゃないと思う。
凛恋は萌夏さんの辛さが分かったから、自分も同じことをしていると言って、萌夏さんの抱いている罪悪感を軽くしようとしているんだと思う。
それは、友達想いの凛恋だからの行動だ。
「でも……凛恋は凡人くんの彼女だから……」
頭を横に力なく振る萌夏さんは、そう否定する言葉を口にする。
それを見た凛恋は、俺の方を見て自分の隣を指さした。
「凡人、隣に来て」
「えっ?」
「いいから」
凛恋にそう言われて、ゆっくり凛恋の隣に立つと、凛恋は俺から目を離し、萌夏さんの両手をしっかりと握り返しながら視線を戻した。
「凡人と付き合う前、毎日凡人の家に遊びに行ってたでしょ? その時にね、凡人がトイレに行った時とか、凡人のコップのお茶を勝手に飲んでたの。間接キスしちゃったって喜びながら」
「えっ?」「何っ!?」
驚く萌夏さんよりも、俺は大きな声を上げて戸惑った。しかし、その俺を凛恋がギッと睨む。
「凡人うるさい。話が終わるまで口閉じてて」
凛恋に睨まれて、俺は蛇に睨まれたカエルのように体を強張らせて頷く。
「今まで何人か好きな人が居たけど、あんなことしたいって思ったのは凡人が初めてだったの。コップ以外にも、凡人が居なくなった隙に凡人の枕の匂いを嗅ぐなんてこともした。付き合ってる今も、凡人の汗の匂い大好きだからよく嗅ぐし。それに…………」
凛恋が頬から耳まで真っ赤にして、少し俯いてボソリと口にした。
「私も凡人と付き合う前、凡人のこと想像して一人でしたし……」
居心地の悪さが一気に増して、俺はすぐに病室から出たかった。でも、いつの間にか凛恋が俺の手首を握っていた。
「付き合う前とか、チョーヤバかった。毎日してたからね。寝る前に、いつか凡人と付き合えたら、凡人とエッチするんだろうなーって考えたらドキドキしちゃって。凡人に優しく抱きしめられるの想像しながらいっぱいした。一度別れた時も毎日したわよ。凡人の居ない寂しさを自分で慰めてた。今だって、エッチしない日はちょくちょく一人でしちゃうし」
凛恋は恥ずかしさを押し隠すように、わざと声を張って軽い口調で話す。
それを見て、萌夏さんは自分の手を握っている凛恋の手に向ける。
「凛恋……」
「まあ……勝手に間接キスするのは、その後の罪悪感がハンパなくて、反省して一回しかやらなかったけど」
「私も、凄く申し訳なくて……」
「でも、一人でするくらい良いじゃん。誰にも迷惑掛けないし。私は萌夏に止めてって言わない。凡人を奪うって言われたら全力で阻止するけど」
「そんなこと考えてない。凡人くんにはやっぱり凛恋じゃないとダメだから」
「じゃあ、もうこれでこの話は良いじゃん。それよりも、萌夏に怪我がなくて……良かった」
凛恋が萌夏さんの体を抱きしめて、頬に涙を伝わせる。それに応えるように、萌夏さんも凛恋の背中に手を回して抱き返す。
「私の親友、こんなに傷付けたやつ、絶対に許さない。何もされなかった?」
「少しだけ、お尻と胸を――」
「ふざけんなし……本当、死ねば良いのに」
凛恋が唇を噛む。凛恋は友達が傷付けられた時には、言葉を選ばず怒りを露わにする。でもそれは、凛恋が本気で怒っていて、真剣に友達のことを想っていることの表れだ。
「凡人、もう良いわよ」
「分かった。俺は外に出てる」
凛恋の言葉を聞いて、俺は病室を出る。そして、廊下の壁に背中を付けて病室のドアを見る。
万事解決、とは言い切れない。
内笠がやったことで、萌夏さんと露木先生の心に残った爪痕はそう簡単に癒えるものじゃない。だけど、小さくため息を吐いて安堵するくらい、許されるのではないかと思った。
俺の家に来た凛恋は、ベッドの上に座り、俺の枕を抱きしめながら俺を睨む。
「凛恋、危ないことしてごめん」
「今回はちょっと怒れない。萌夏を一人で行かせたら、絶対に萌夏は酷い目に遭ってた。だから…………今回は凡人が正しい」
「ありがとう」
凛恋が俺の枕に顔を埋めて、チラッと目だけ枕の影から出して見る。
「露木先生とのチュー、気持ち良かった?」
「ビックリしてそんなこと考える余裕なんてなかった」
「萌夏が凡人のこと好きって知った時、嬉しかった?」
「…………申し訳ないと思った。俺は凛恋の彼氏だし、それを抜きにしても萌夏さんは恋人としては見られないから」
「……凡人って贅沢ね」
「…………はい?」
凛恋の言葉に間抜けな声で聞き返すと、大きくため息を吐いた凛恋が、俺の横に座って口を開く。
「うちの学校で、露木先生のこと狙ってる男子どれだけ居ると思ってるのよ。あんな可愛い人とチューしたのにビックリして何も考えられなかったなんて贅沢過ぎるでしょ。それに、萌夏って可愛いし明るいから結構モテるのよ。その萌夏に好かれてるのに、恋人としては見られないってチョー贅沢。…………でも、私の彼氏としては大正解」
横から凛恋が俺を抱きしめて、俺の顔を見上げる。
「凡人、隣来て」
「ああ」
凛恋に言われて、床から立ち上がり凛恋の隣に座る。
すると、俺が座った瞬間、横に座った凛恋が体重を掛けて俺をベッドに押し倒した。
「んっ……」
上から覆い被さった凛恋が、そっと触れさせるキスをする。しかし、そのキスは一変した。
ねっとりと絡み付くように凛恋の舌が絡み、熱く深く押し付ける……いや、手繰り寄せるようなキスになった。
「露木先生のキス、消えた?」
「…………もうちょっとしてくれないと消えな――ッ!?」
一度口を離した凛恋は、俺の言葉を聞いてもう一度俺にキスをする。
シャツの裾から凛恋の手が入って来て、俺の肌を直接撫でる。
「これでどう?」
「…………凛恋のキスの感触しかしない」
「よし。じゃあ次」
そう言って凛恋は、俺の上に覆いかぶさったまま俺を見下ろす。
「萌夏の一人でする映像、見たの?」
「…………ああ」
答えづらかったが、萌夏さんが話している以上、見ていないというのは吐く意味のない嘘になる。
「どうだった?」
「どうだったって言われても……状況が状況だったし、そういうところを盗撮した相手の方にムカついてたから」
「そっか。優しい凡人らしい」
凛恋は掛け布団の中に俺を入れ、布団の中でギュッと俺を抱きしめる。
それに俺も応えながら抱き返すと、真正面で凛恋が真っ赤な顔をして横になっていた。
「…………凡人。ごめんね、付き合う前の話だけど、間接キスしたこと」
「……それは知らなかったな」
「言えるわけないし。てか、萌夏には悪いけど、普通はキモいって思うでしょ」
「…………まあ、相手が相手だったらな」
理不尽な話だが、普通だったら気持ち悪いと思うことでも、好みの相手にやられたら許容出来てしまうことはある。それは、間接キスも同じだ。
「ごめん」
「いいよ。でも、凛恋がそんなことしてたなんて全く気付かなかった」
「間接キスは一回だったからね。でも、匂いは来る度に嗅いでた」
「……それで、その夜は一人で――あっ……」
萌夏さんの病室で凛恋がカミングアウトしたことを思い出していたら、思わず口に出てしまった。目の前では、顔から火が出るくらい真っ赤に顔を染めて震える凛恋が居る。
「だっ、だって仕方ないじゃん! ずっと凡人と付き合いたかったんだもん! それに……初めては絶対に凡人と、って思ってたから……」
縮こまりながらボソッと言う凛恋は、ゆっくりと深呼吸をすると、改めて俺を睨み上げる。
「とっ! にっ! かっ くッ! 萌夏が一人でするところ見てドキドキした分の凡人の記憶を塗り替えないと!」
そう言った凛恋が、ジーッと俺を見上げて微笑む。
「凡人の頭の中、私しか考えられないようにしてあげる」
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