【三四《感傷》】:二

 なるほど、田丸先輩が部屋を訪ねてきた時の声と行動もそういう理由だったらしい。しかし、あれは流石にやり過ぎだった気がする。

 田丸先輩も小学生でもないし、さっきの反応を見ればそんなアピールは意味もなさそうだった。単に俺が感じる気不味さが強くなっただけだ。


「凡人、一緒にお風呂入ろーね」

「…………へっ?」

「へっ? じゃないわよ。一緒にお風呂入るの!」

「いや、流石にそれは不味いだろ」

「今日は私のわがまま聞いてくれる約束でしょ?」


 約束はした。しかし、だからと言って一緒に風呂に入るというのはどうなんだろう。

 他に付き合ってる男女は栄次と希さんしか知らない。だが、二人が一緒に風呂に入ったという話なんて聞くわけも無く判断に困る。


 素直に答えを出せば、一緒に風呂には入りたいと思う。それにそれを凛恋から誘ってもらったのは嬉しいとも思う。

 他の男は知らんが、彼女と一緒に風呂なんて夢みたいな話だろう。

 ……薄明るい浴室で一糸纏わぬ姿の凛恋が、肌と髪を濡らしている姿。想像しただけでも胸が弾け飛びそうなくらい鼓動する。


「凡人、目がエロい」

「なっ!? 俺は何もいやらしいことなんて考えてないぞ!」


 隣に立っている凛恋がジトーっとした目を俺に向けて、そう短い言葉を放ってくる。それに俺は、頭に浮かんでいた想像を必死に振り払う。

 今更、凛恋はそんなことで軽蔑することはないだろうが、知られて恥ずかしいし気不味いという気持ちは変わらない。


「私、目がエロいって言っただけで、やらしいこと考えてるなんて言ってないんだけどぉー?」

「……」


 凛恋がニタニタと笑って俺の胸を右手の人差し指でツンツンと突く。凛恋は俺の正面に立って小首を傾げて俺の顔を見上げる。


「凡人? 何考えてたの?」

「何も――」

「凡人は、私とお風呂に入ることで、どんなやらしいことを考えてたのかなー?」

「何も考えてない」

「それはそれで傷付くんだけど!」


 正面に立つ凛恋が両頬をプクッと膨らませて怒った振りをする。その表情が可愛くて、つい凛恋の頭に手を置いて撫でてしまう。俺に撫でられている凛恋は、目を瞑って口元が微笑んでいた。


「凡人くん、お風呂入ったよ?」

「あ、田丸さんありがとうございます。凡人行こ!」


 居間に立って凛恋の頭を撫でる俺と俺に撫でられている凛恋に、田丸先輩がそう声を掛ける。そして、俺が田丸先輩に返事をする前に凛恋が返事を返して俺の手を引っ張っていく。

 すれ違う田丸先輩は普通に微笑んでいた。


 凛恋は俺の手を引いたまま廊下を歩いて行き、風呂場前の脱衣所のドアを開ける。そして、俺の背中を両手で押して脱衣所に押し込んだ後、後ろ手で脱衣所のドアを閉めた。

 振り返った先に居た凛恋は、真っ赤な顔をして体の前に両手を持ってきてブラウスの裾を掴む。多分、今更恥ずかしさに襲われたのだろう。


「上がったら教えてくれ」


 俺が脱衣所を出るために凛恋の後ろにあるドアに近付こうとすると、凛恋はドアと俺の間に自分の体を割り込ませて道を塞ぐ。その凛恋にため息を吐きながら俺は少ししゃがんで目線を合わせた。


「無理するなって。顔真っ赤だぞ」

「む、無理してないし! 恥ずかしいけど、本当に凡人と一緒にお風呂入りたいの!」


 凛恋はブラウスのボタンを半ばやけくそな感じで外していく。それには色っぽさよりも、ムキになる凛恋の、可愛らしさの方が強く感じた。


「凛恋、俺だって凛恋と一緒にお風呂っていうのは嬉しいしドキドキする。だけど、凛恋に無理矢理やってほしくはない」

「大丈夫、本当に無理矢理じゃないから。緊張はするけど、本当に凡人とお風呂に入りたいの。……一緒にお風呂ってまだしてないでしょ? だから、一緒にお風呂に入ったらその分、もっと凡人と仲良くなれるってことだから」

「そうか。そう言われると、断れなくなったな」


 凛恋ともっと仲良くなれることなら、俺はすぐにでもやりたい。凛恋との繋がりが強くなれることなら、断る理由なんてない。

 ブラウスのボタンを全て外した凛恋は、ゆっくりと俺に近付いて俺のワイシャツのボタンを外していく。


 ワイシャツの前が開くと、俺はワイシャツを脱いで、中に着ていた灰無地のTシャツを脱いで脱衣カゴに放り投げた。そして凛恋のブラウスを脱がすために手を触れると、凛恋がクスリと笑った。


「エッチまでしちゃってるのにチョー緊張する。凡人にいっぱい裸見られてるはずなのにさ」

「俺も緊張する。いつもやらないことだからかもしれないな」


 凛恋のブラウスを脱がせると、凛恋が受け取って綺麗に畳んで棚の上に置き、ベルトを外してスカートのホックも外しファスナーを下ろす。

 凛恋が制服を脱ぐ姿をマジマジと見てしまい、思わず気恥ずかしさから視線を逸らす。


「凡人も脱いでよ。ズボン穿いたままお風呂入る気なの?」

「分かってるって」


 流石にパンツを脱ぐ光景までは俺の根性が保たず、俺は背を向けて自分のベルトに手を掛けた。



 風呂に入ってから凛恋が手をギュッと握る。俺の真横には裸の凛恋が居るわけで、そっちの方向に顔を向けたい衝動を抑えて、正面で湯気を上げている湯船に視線を固定する。


「凡人、私が背中流してあげる」

「お、おう」


 足元にあった腰掛けに座って、今度は壁に貼り付けられた水色のタイルに視線を固定する。


「凡人、緊張し過ぎ」

「む、無理だ」

「だよね。私もチョー緊張する。お風呂っていつもは暗いって思ってたけど、意外と明るいよね。それに二人で入るとドキドキする」

「ああ、いつもは一人で広々感じるのに、二人になると急に狭く感じるな」


 後ろに居る凛恋と会話をしていると、手桶ですくったお湯を体にかけてくれて、後ろでスポンジを使って石鹸を泡立てる音が聞こえる。

 凛恋と一緒にお風呂。まだその間違いない現実に現実味がない。そんなことをしていいのかと不安になる。


「ヒィッ!」

「ちょっと、変な声出さないでよ」

「いや、だって凛恋、手が」


 俺は背中に泡が触れる感触と、凛恋のしなやかな手が触れる感触を受けた。凛恋が手で直接俺の背中を洗ってるのだ。


「凡人、知らないの? 肌はデリケートだから、タオルとかスポンジとかでゴシゴシ擦っちゃダメなのよ。きめ細かい泡で優しく洗ってあげないと肌を傷付けちゃうの」

「そ、そうなのか」


 綺麗な肌をしている凛恋が言うのだから本当なのだろうが、彼女に手で体を洗ってもらうのは、肌に良いとしても男の理性的に不味い。

 凛恋の手が優しく背中や腰、腕、足と俺の体の隅々まで洗っていくにつれて、頭に血が上ってボウっとしてくる。


「凡人の背中、やっぱり大っきい」

「でも痩せてるから頼りなさそうだろ?」

「そんなことないわよ。私、凡人の背中が大好きなの。いつだって凡人の背中は頼もしくて、見てると凄くドキドキする」


 凛恋が丁寧にお湯と手で泡を流してくれる。そしてペチペチと俺の背中を叩いて、凛恋の明るい声が聞こえた。


「はい終わり! 凡人に私の体を洗わせたらエッチなことしてちゃんと洗ってくれそうにないし、先に浸かってて」

「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて」


 凛恋に背を向けて湯船は浸かり、凛恋の方を見ないように真っ直ぐ前に視線を向ける。横からは凛恋が体を洗う音が聞こえ、どうしようもない落ち着かなさを感じる。


 湯船の中でボーッと真正面を眺めていると、急に視界の中に凛恋が入ってきて、俺のももの上にちょこんと座った。

 湯気が立ち上っているおかげで、霞んで視界がはっきりとしていない間に、俺は両目をキツく閉じる。


「かーずーとー、彼女から目を逸らすなんて失礼よ」

「入るなら入るって言えよ」

「入るって言ったら、凡人は先に出ちゃうでしょ?」


 凛恋の指摘は概ね合ってる。いくらなんでも狭い湯船に二人で居たら落ち着かなくて出るに決まってる。


「凡人に話したいことがあるの」

「凛恋?」


 ゆっくり目を開くと、ボヤけた視界が徐々にくっきりと鮮明になっていく。そして俺の目の前には、唇をキュッと結んで小刻みに震える凛恋が居た。

 その姿を見て、凛恋の腕を引き、背中に手を回して抱き寄せた。


「凛恋? どうしたんだ?」


 凛恋は泣いている。抱き寄せた凛恋は、耳元ですすり泣く声を上げて、俺の首に両手を回してしっかり抱き返して来る。柔らかい凛恋の体が密着し、その体が確かに震えていることを思い知る。


「あのね――」


 俺は、キスをした。凛恋の言葉を遮るために、凛恋の行動を止めるために。凛恋は何か辛いことをしようとしている。それを察して、そんなことを凛恋にさせたくなくて、俺は凛恋の唇を奪った。


 凛恋の下唇を優しく唇で挟んで啄む。上唇も同じように啄む。凛恋の唇を欲しがりながら、凛恋に「話さなくていい、話さなくていい」そう言い聞かせるように凛恋の体を抱き寄せる。


「ありがと、凡人。凡人のおかげで勇気が出たから。だから、聞いて」


 凛恋は俺のキスから逃れるように両手を湯船の縁に突っ張って唇を離す。そして、さっきと同じように俺の首に手を回して抱き締めた。


「私さ、学校で尻軽女って言われてるの」

「凛恋は尻軽女なんかじゃない! 凛恋はそんな――」


 凛恋の言葉に俺が反論すると、凛恋が俺の頭をポンと手で叩いてクスッと笑う。


「こら、人の話を何度も遮らないでよ。話が進まないでしょ?」

「ごめん」


 俺は凛恋を抱き締める手に力を入れて、そう謝った。


「凡人と付き合う前に、無理矢理誘われてボウリングに行ったの覚えてる?」

「ああ、凛恋が初めてブチ切れた時のか」

「もー、そっちは忘れててよ」


 また凛恋が俺の頭をポンと手で叩く。


「あの時の男子、仲間の前で私に散々言われたじゃない? だから怒ったみたいでさ、周りに言ってるんだって、彼氏が来なかったら絶対に八戸凛恋とヤれたって、エロい格好して俺のこと誘ってたって」


 ただの逆恨みだ。凛恋は無理矢理誘われたその時以外、男との遊びを断っていた。それは凛恋と仲の良い人間なら知っている。


「意味分かんないわよね。どう頭がおかしくなったら誘ってるって見えるのよ。私はもうその頃は凡人しか見てなかったっていうのにさー」


 凛恋は笑いながら俺の頭を優しく撫でて、軽く拳を握った。


「それでさ、夏休みの登校日の日。夏祭りに切山さんと――萌夏のお兄さんと一緒に居るのを見た人が居たみたいでさ。夏祭りの日に私と大人の男の人がラブホテルに入るのを見たって噂が広まったの」

「……凛恋はそんなことしてない」

「うん、してない。絶対にそんなところ行ってない。それは一緒に居た萌夏はもちろん、仲の良い友達はみんな信じてくれた。でも、そうじゃない人は沢山居たの。その噂の後にもさ、宿泊研修で逸島にも色目を使ったとか言われ始めて、そしたら……誰にでも付いていく尻軽女だって言われてた」

「ごめん、凛恋……」


 言葉が、ただ謝る言葉しか浮かばなかった。凛恋が悲しい思いを、辛い思いをしているのに、俺は気付けなかった。

 自分の悲しさや辛さにかまけて、凛恋の何にも気付けなかった。誰よりも守らないといけない凛恋を、凛恋を傷付けるもの達の前に曝した。


「バーカ、凡人のせいじゃないわよ。私がしっかりしてなかったからいけないの。でも、凡人に言ったらまた、俺のせいだ~俺のせいだ~って自分のこと責めるでしょ。だから言わなかったのよ。ただでも何でもかんでも自分のせいにしたがるし」

「それは、凛恋が悲しい思いとか辛い思いをしてるのが、悲しくて辛いんだ。だから、何も出来なかったことが悔しくて」

「うん。凡人は優しいもんね。だから、そうやって私のこと心配してくれる。でも、私と凡人は学校が違うでしょ? だから、学校であることはどうしようもないじゃん。……私も、凡人が学校で色々言われてるのどうにかしたいけど、どうにも出来ないし」

「だけど――」

「だけど、放っておける訳がない」


 凛恋が俺を抱き締めたまま言葉を被せる。それは俺が話そうとした言葉と全く同じ言葉で、その言葉の続きを話せず固まる。凛恋は体を離して真正面から俺の顔を見てニコッと微笑む。


「どーよ。凡人のこと分かってるでしょ?」

「俺もそれくらい、凛恋のことを分かりたい」

「凡人は誰よりも分かってるよ。私のこと」


 凛恋は俺の頬を人差し指で突きながらはにかんだ。


「私がメロンソーダ好きなの分かってるし、私が人にゲームをクリアしてもらうのが嫌いだって分かってるし、一度寝たらなかなか起きないのも分かってる。それに、凡人に見せた私は……凡人だけにしか見せてない私。だから、私のことを誰よりも分かってるのは凡人よ」


 風呂場に響く、凛恋の優しい声に包まれる。


「私は凡人にだったら何だって見せられる。一緒にお風呂に入れるのも凡人だから」

「他の男と入ったら、絶対に落ち込んで立ち直れない」

「凡人以外と入るわけないでしょ。凡人以外に裸を見られるとか寒気がする」


 凛恋はギュッと抱き締めて、更にギュッと締め付ける。


「どうにも出来ないことの代わりに、いっぱい仲良くしよう。学校が違って会えない分、会ってる時にいっぱい楽しいことしよう。私もそうするから、凡人にもそうしてほしい。私は悪いことも嫌なことも凡人で打ち消す。私も凡人の嫌なこと辛いこと悲しいこと、全部、全部、ぜぇーんぶ! 私で打ち消すから。だから…………ねっ?」


 凛恋から重ねられたキスは、優しかった。

 凛恋はいつだって優しい。いつだって俺のことで怒ってくれて悲しんでくれて泣いてくれて、いつだって俺のことを好きでいてくれる。


 俺はそんな凛恋を大切にしたいと思った。そして、大切にしたい気持ちだけで行動して、凛恋の全てを大切にしようとして、凛恋を傷付けるもの全てから凛恋を守ろうとした。でも、それは無理だったのだ。


 俺は何でも完璧にこなせるスーパーマンじゃない。それどころか、人間での中でも弱い部類に入る。

 そんな俺が、凛恋を全てのものから守るなんて出来るはずがなかったのだ。


 凛恋は優しい。その優しい凛恋は俺に言ってくれたのだ。全部から守るのは無理だと。でもその代わり、耐えるための糧を求めた。

 俺と凛恋が仲良くいることで生まれる愛情。それが、心を支える糧になる。そう凛恋に言われて、俺は確かにそうだと思った。


 凛恋が俺を好きでいてくれるから、俺は毎日を過ごしていける。ずっとそうだった。凛恋と付き合ってから、毎日の生きる糧は凛恋だった。それを気付かされた。

 そして、凛恋にとっても俺はそういう存在だったのだ。


 純粋に、凛恋が俺を生きる糧としてくれていたことが嬉しかった。

 凛恋を守れてない、凛恋のために何も出来ていないと思っていた。でも、ただ俺が俺であるだけで、俺が凛恋を好きでいるだけで、凛恋の役に立てていた。

 それは、胸が熱くなるくらい嬉しかった。


「凛恋、ありがとう。凛恋が傷付いた分、俺が修復する」

「凡人にやられたら修復どころか強化されちゃうわよ。だから、もっともっとギュッてして」


 小さな水音が響く穏やかな空間で、ただ俺達は互いを愛して続ける。でもそれが、ただそれだけが、一番心強かった。

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