「第8章 波の向こう側に見える彼女の背中」(3)

(3)

 ドアが閉まると風の通り道がなくなって、車内に暖気が充満されやすくなり、同時に次々と乗客がシートの取り合いを始めた。二人が座っていたシートはあっと言う間に人間で埋め尽くされてしまう。


 奥に彩子を座らせていたので、彼女の隣には窓しかないが、透の隣には疲れ顔のサラリーマンが座り、すぐに下を向いて寝る態勢に入っていた。それが伝染したのか。段々と透の瞼は重くなってくる。


 始めは些細な違和感程度の重みだった。しかし、数分も経たぬ内に支えるのがやっとの重量へと急成長する。瞼を落とさないよう、どうにか必死に戦っていると隣から彩子の声が聞こえた。周囲に配慮して小さな声だった。


「先輩って西宮北口でしたよね。駅に着いたら起こしますから眠っても大丈夫ですよ? なんなら肩貸しましょうか?」


 彩子の口から香る甘いブルーベリーの匂いは、透を更に眠気へと誘うのに充分で、思考をいとも簡単に奪ってしまう。残り少ない思考を何とか振り絞って、首をコクンと縦に落とした。一度落ちてしまったら、もう持ち上げる力はない。


 せめてもの抵抗として彩子の肩を借りる事だけは避けた。


 下を向いて腕を組み周囲の視線から逃れるようにして、瞼は着陸する。


 耳に最後に入ってきたのは車掌による発車アナウンス。それからガタンゴトンと揺れが始まり、すぐに透の意識は夢の中へと落ちていった。


「――先輩、内田先輩。もうすぐ着きますよ」


 遠くの方で透を呼ぶ声が聞こえる。


 同時に彼の体が左右に揺さぶられた。


「んっ……。ああ」


 声と揺すりの二つの刺激によって、透の意識は覚醒した。


「今、どの辺り……」


 ぼんやりとした頭を上げて、半開きなった目を彩子に向けて質問する。


「さっき武庫之荘を通り過ぎました。西宮北口にはあと三分もすれば着くかと」


「ふぁ~。そうか」


 生欠伸を手で押さえながら、窓の外の景色を見ると自分の知っている風景が流れていた。武庫川をそろそろ超えるといったところである。


「先輩、よく眠ってましたよ」


「そうだろうな。結構ぐっすり寝た。内容は覚えてないけど夢も見た気がする」


「梅田からココまで三十分もないのに? 先輩は器用ですね」


「はいはい」


 彩子の軽口を受け流しながら、寝ぼけた頭を再起動させる。すると彼女が目の前に板ガムを差し出した。


「眠気覚ましにどうぞ」


「ありがとう」


 乗る前は断ったが、今度は眠気覚ましという確固たる名目があるので、透は迷う事なく板ガムを受け取る。銀の包み紙を開けて、口の中に放り込む。噛んだ瞬間、ブルーベリーの甘い香りが口内に生まれた。


「今、先輩と私の口の匂いって同じですよ」


「変な事を言うな」


 そろそろ電車は西宮北口に到着する頃であった。踏切を超えて、車内アナウンスが始まる。何人かの気の早い連中は、もうシートから立ち上がり、ドア付近に並んでいた。


 透が立ち上がったのは、電車がホームに到着する少し前だった。


「今日はお疲れ様。こんな感じになるとは、予想だにしなかったけど楽しかった」


「はい、色々話してくれてありがとうございました」


 頭を下げて礼を言う彩子。それを見て透は、今更ながらに彼女と夕食を一緒にしなかった事が申し訳なかったと後悔し始めた。短時間ではあるものの、睡眠を取れたからだろう。今なら食べられる程度には回復している。


 身勝手なのは重々承知している。よって透はせめてものという気持ちを胸に彩子にこんな提案する。


「今日はご飯行けなくて悪かった。代わりにまた、近い内に一緒に行こう」


「ホントですか? じゃあ先輩からの連絡待ってますね」


 透の誘いに彩子は顔を輝かせて喜ぶ。その笑顔に言って良かったと思った。


 電車はホームへと到着する。


 特急なので既にホームには乗客が列を成して待機していた。早く降りないと巻き込まれて面倒だ。そう判断した透は「じゃあ、また」っと言って彼女から離れようとする。


 その時だった。


「先輩、さっきの話に出てきた司書の湊先生って今どうしているんですか?」


「えっ? いや知らない。辞めてからは卒業式にも来てなかった。元々、俺はあまり話してた方じゃなかったから」


 どうして、そんな事を彩子が聞いてくるのか、一切理解出来なかった。


透にとって湊慧一郎は既に登場を終えた人物。現在の状況など、これまで一度だって考えた事もしなかった。


「どうしてそんな事を?」


 疑問を彩子にぶつける。


 電車のドアが開く音がした。人の足音で車内が揺れる。


 彩子はすぐに答えようとしない。しかし、その瞳は真っ直ぐに透を捉えており、決して声が聞こえていないのを証明している。


 それなのに、一向に話そうとしない。


 余程悩むような内容なのか。透は彩子が話すまで辛抱強く待つつもりでいたが、ホームいた乗客が車内の席に座り始めると、天秤は諦めの方に傾いた。


 何を悩んでいるか知らないが、また後にメールで聞けば済む。既に元々ホームに並んでいた客との交換は行われているので、若干迷惑だがしょうがない。


 透が片手を彩子に向かって上げて、降りようとしたその時。


 彼女がようやく口を開いた。




「湊慧一郎は自殺しました。森野詩織さんと同じように首を吊って」




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