西域から来た仏図澄さん!

水城洋臣

野狗の森

 真夜中の森。

 ふくろうや虫の鳴き声が響き渡り、人の営みの音は全く聞こえない。空には満天の星空と、煌々と輝く大きな満月が浮かんでいる。

 そんな森の中を、とうと言う男が一方の手には簡素な灯篭とうろう手提てさ提灯ちょうちん)、もう一方の手に釣竿を持って歩いていた。


 ここは中華の中心とも言える洛陽らくようにほど近い土地である。現在の洛陽周辺は「ちょう」を国号とする二つの国が東西に分かれて勢力圏を奪い合っている。互いに同じ国号を名乗っている為、後の歴史においても、またこの時代においても非常に紛らわしい。

 西は趙帝ちょうてい劉曜りゅうよう、東は趙王ちょうおう石勒せきろくが率いている事から、国号ではなく劉家軍りゅうかぐん石家軍せきかぐんと呼ばれていた。


 世が世なら都の近くという立地であるが、乱世たる今は劉石両軍の衝突する最前線の戦場であり、洛陽は半ば廃墟と化していた。その周辺にも戦に散った死体がそこかしこに転がっている事も珍しくない。

 当然そのような土地に住んでいる住民にとっては、戦に巻き込まれてはたまったものではない。農耕などほとんど出来るわけもなく、昼間は隠れるように身を潜め、夜になるとこうして夜釣りに出るなどして日々の食料を確保していたのである。


 鄧はそんな死体が転がる夜道を歩いていたが、こうした状況にあっては狼などの野獣が死肉を漁る事もあり、正直な所、あまり通りたくは無かった。

 かと言って深い森の中に入るのも本末転倒な話であるし、食料の確保は生きる上で必要な事だ。危険だとしても行かぬわけにもいかない。


 ふと鄧の耳がわずかな音を拾った。咄嗟に灯篭の火を吹き消して、道の脇の茂みに身を隠すようにして寝そべる。

 間もなく道の向こうから金属の鎧を鳴らして、兵士と思われる一団が歩いてきた。

 灯篭の火は恐らく見られていない。こうした小動物的な危険察知能力こそ、乱世の民草にとって最も重要な能力であると言えた。

 また、こうした人間の兵士相手なら、周囲に死体が転がっている状況はむしろ幸いと言える。

 人数は十人前後。聞こえてくる会話の内容から、それが近くの拠点に駐屯する石家軍の兵士であり、見回りをしている物と分かる。

 敵の姿は無いと見えて、緊張感はあまりなく、このまま通り過ぎてくれれば問題は無いという状況である。


 そう思っていた矢先、茂みから大きなものが飛び出す音が聞こえて兵士の悲鳴が響いた。何事かと鄧が地面に伏したままそちらに目を向ける間に、また別の兵士の悲鳴が上がったと思うと、他の兵士たちも蜘蛛の子を散らすように逃げ散ってしまった。

 恐る恐る視線を向けると、巨大な黒い影が、まさに今しがた仕留めた兵士の死体に覆いかぶさっている。十歩ほど離れている鄧の所にも、血の匂いに交じって強い獣の匂いがした。

 その大きさから熊であろうかとも思ったが、月明かりに照らされる姿はもう少し細い。熊ほどの大きさをもつ狼のような獣。そうとしか言い表せないのだが、その前足はまるで人や猿のように五指を持ち、器用に目の前の死体を掴み上げている。

 そんな怪物が、兵士の死体に頭から喰らいつくと、兜も、そして恐らく頭蓋骨も、卵の殻のように容易くグシャリと潰し、その中にある脳髄を飛び散らせる。それをその獣はすするように食していた。


 鄧は動く事が出来なかった。

 例え動く事が出来たとしても、あの怪物から逃げる事など出来るのか。全く自信などなかった。ただこうして死体に紛れたまま気づかれぬように祈るしか出来ない。

 その間にも獣は獲物である兵士の死体に喰らいつき、骨ごと噛み砕いている。


 鄧は下手な音を立てぬよう必死に耐えていた。その思いとは裏腹に心臓は早鐘のように打ち、呼吸の速度もどんどん荒くなってくる。体の震えも止まらない。両手で口元を必死に押さえ、必死に耐えた。

 その間にも、その獣は恐ろしい音を立てて死体を貪っている。


 どれほどの時が流れたか、その獣が突然食事の手を止めると、道の奥へと顔を向けて唸り声を上げる。

 鄧はゆっくりと慎重にその方向へ視線を送ると、その先には灯篭の灯り。どうやらまた別な通行人と思えた。

 新たな犠牲者が増えてしまう事は容易に想像されたが、それでも赤の他人の為に自分の命を捨てる気にはなれない。獣がそちらに気を取られている隙に、何とか逃げられないか考える事が精いっぱいだった。


 獣はまるで待ち構えるように道に立ち塞がっている。もしも相手が背を向けて逃げたならば、それを追ってトドメを刺すのであろう。野犬や狼などと同じだ。

 だが灯篭の灯りはどんどん近づいてくる。

 怪物の姿に未だ気づいていないのであろうか。


 やがてその灯篭を持つ者の姿が見えた。

 十歳かそこらの子供が灯篭を手に持ち、そのすぐ後ろには真っ白な髭を蓄えた老人がいる。少年と老爺ろうやの二人連れである。

 この後の事に考えが及んで鄧は二人に同情したが、肝心の二人は怪物の姿に気づいて足を止めたと思われるが一向に逃げる様子も慌てる様子もない。少年の方は多少は困惑しているが、それでも取り乱す様子は無い。老爺の方は穏やかな笑みすら浮かべている。


「あの、大師たいし……。これは……?」

野狗やくじゃの」


 そんな二人の様子に、むしろ野狗と呼ばれた獣の方がどこか困惑しているようにさえ思えた。

 唸り声を上げて威嚇する野狗。それに合わせ、ゆっくりと少年が一歩下がるが、視線は野狗に向けたままである。矢面に立った形の老爺は、やはり穏やかに落ち着き払っていた。

 業を煮やしたかのように、野狗の方から跳びかかった。鋭い爪を構え、その巨体に似合わぬ疾風のような跳躍であった。

 茂みから覗いていた鄧も思わず叫びそうになった。

 だがその鋭い爪が老爺に届くかと思われた刹那、その白髭の老爺はカッと目を見開くと同時に一喝した。


「喝ァァァアアアッ!!」


 夜の森にすむ鳥獣を一斉に叩き起こし、地響きすら起こさんばかりの見事な一喝であった。

 思わず目を瞑ってしまった鄧が、恐る恐る目を開けると、老爺も少年も無事なまま同じ場所に立っている。しかし野狗と呼ばれた怪物の姿は無かった。その様子に、老爺の後ろに控えていた少年の方も驚いていた。


「大師、消えました!」

「あれは腹をすかせた野犬が、人のしかばねを貪る内に、その怨念を取り込んで幽明ゆうめいの境に落ちてしまった姿でな。いつしか怨念の塊となって元の体すら失っておったのよ。だから怨念ごとかき消せば姿も消えてなくなるというわけじゃな。この地に倒れた兵たちと併せ、あの野狗の冥福も祈ってやろう」


 穏やかにそう言った老爺の姿を覗いていた鄧であったが、老爺は突然その顔を鄧の方に向けた。


「そこの者、もう安全じゃ」


 いきなり声をかけられて思わず口から短い悲鳴が漏れたが、相手の穏やかな口調に心を静められ、ゆっくりと這うようにして茂みから出てくる。


「危ない所を助けていただき感謝いたします!」


 感謝の言葉を述べた鄧に、老爺は笑みを浮かべて頷いた。

 それにしてもあんな化け物を一瞬にして消滅させるとは、仙人か何かなのだろうかと思い、鄧は頭を下げながら丁寧に誰何する。

 その質問に、老爺の後ろに控えていた少年が、本人に代わって誇らしげに答えた。


「このお方は、西域は天竺てんじくにて仏道の修行をなさった仏図澄ぶっとちょう大師です! ちなみに私は若輩ながら大師の下で修業をさせていただいている道安どうあんと申します!」


 この五胡十六国時代、中華において仏教は未だ外来宗教であり、儒教・道教との競合から漢人の王朝では布教が禁止されていた。

 それが幸か不幸か、漢人の統一王朝である西晋せいしんが倒れ、胡族こぞく(騎馬民族)が割拠する乱世となると、そうした布教禁止令も自然消滅し、華北の民衆の間に拡がっていく事となる。

 そんな仏教の拡大期に入ったばかりのこの頃、その布教の最初の一歩を踏み出したのが、数々の超常能力の逸話を残す神異僧じんいそう・仏図澄だったのである。





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