風香り緑が色づく5月上旬。

 大学への進学を機に今年から一人暮らしを始めた私──卯花うのはな麻代ましろはキャンパスライフ初のゴールデンウィークに胸を躍らせていた。しかし理想と現実は相反するもの。最終日の夜となった今になって振り返ってみると大半は家で寝て過ごしてしまったという悲しい事実が判明した。おそらく日の平均睡眠時間は10時間を超えていただろう。


「のび太か? のび太くんなのか私は⁉︎」


 六畳一間の築40年のボロアパート。畳の上に敷きっぱなしの布団の上で己の出不精っぷりに頭を抱えてしまう。

 いや、なんだかんだでのび太くんはアウトドアな人間だ。放課後は空き地でクラスメイトと野球をし、毎年春休みなると決まって大冒険に出かけている。なんなら宇宙とか魔法の国とか行っちゃってるしな。

 そんな彼を私なんかと同じ括りに入れてしまうのは失礼だろう。というか、これ以上この話を続けていたら色々と問題がありそうだ。……ここらで一旦やめておこう。


「そういえば今日はまだ何も食べてないな。とりあえずなんか食べるか」


 思った私は布団から起き上がり、冷蔵庫から袋詰めされたパンの耳を取り出した。砂糖などはまぶされておらず、なんの味付けもされていない。文字通りのパンの耳。近所のベーカリーにて格安で投げ売りされていたやつだ。


「……うぅ、さすがに3日も続くときつい。いくらお腹が空いてるとは言え食指が伸びんて」


 せめてジャムでもあれば良いのだが。

 もっと言うならマーガリン、あと牛乳も欲しい。


 けれども飢えには逆らえまい。我慢我慢。言い聞かせるようにしながら味のついてないそれを口に運ぶ。ふと公園の鳩になったのかと錯覚しそうになるぜ。

 親の反対を押し切って一人暮らしを始めたせいで金銭的な援助は受けられず懐事情はまさに火の車。懐は寒いのに燃えてるってどういうことだよ。


「くしゅん! ……つーか、夜になるとこの部屋冷えるんだよな。外より寒いんじゃない?」

 

 もちろんバイトを始めようとも思ったさ。雀の涙ほどしかない所持金で履歴書を買い、求人を出してるところへ手当たり次第に面接へ行ったもんだ。

 コンビニ居酒屋喫茶店、書店にガソスタエトセトラ。果ては胡散臭い探偵事務所にも。というか、この連休で家から出かけた用と言えばそれくらいだしな。

 

 結果は全落ちだった。どこも私を雇ってくれない。

 バイトの面接なんて日本語がマトモに話せさえすれば受かるもんだと思ってたのに、まさかこうも難しいとは考えてもみなかった。いったい私の何がいけないんだよ。たかがバイトと言えど、こうも不採用が続くと普通に落ち込むんだけど。


『ごめんなさいね、なんでかウチの猫ちゃんたちが卯花さんにすごい怯えちゃってるから……』 


 とある猫カフェではそんなことを理由に落とされたもんだ。

 確かに昔から動物には懐かれなかったけど流石にその日は枕を濡らしたわ。それ以来ちょっとした面接恐怖症だよこの野郎。


「……思い出したら悲しくなってきた。こんなパンの耳いくら食べても満たされないし、それも相まって余計だわ」


 一日中寝てたせいですぐには寝付けなさそう。私はパンの耳を齧るのも程々にし、気分転換がてら夜の散歩に出かけることにした。

 体を動かしたらさらに腹も減ってしまうだろうが、この沈んだ気持ちも幾分か晴れるだろう。高校の頃から愛用しているお気に入りのスニーカーを履いて外に出る。私の部屋はこの年季の入ったアパートの二階。ところどころ手すりが錆び付いた階段を降りて夜の世界へと繰り出した。


「やっぱり夜はいいよなー。静かだし落ち着くわ」


 ずっと夜ならいいのに。

 そんなことを願ってしまうほど、私は夜が、この時間が好きだ。

 燦々と照りつける太陽よりもぼんやりとした月明かりのが浴びていて気持ちがいい。別に引っ込み思案な性格をしているつもりはないが、幼いころから明るい場所より暗い場所のが好きなんだ。生活リズムだって夜型の部類だろう。


「まるで吸血鬼みたいだな、私って。もしかすると前世くらいではそうだったのかも」


 人通りがないこといいことに、そんなしょうもないことを割と大きめの独り言でこぼす。

 ちなみに独り言が多いのも幼いころからの癖であり、恥ずかしいから治したいとは思っている。そんな他愛のないことも考えながら私は夜の散歩もとい深夜徘徊を楽しんでいた。


「……そろそろ帰るか。明日も1限から講義があるわけだし」


 スマホで時刻を確認すると午前二時を回っていた。いつの間にか結構な距離を歩いていたようで、えらくひと気のない場所まで来てしまっている。

 周囲にコンビニや民家といった類のものはなく、空き地や廃墟ばかり。越してきたばかりなので知らないのも当然だが、駅の反対側にちょっと歩くだけでこんな殺風景なところがあるとは驚きだ。


「お、こんなとこにも自販機あるんだ」


 折り返そうとしていたところ、少し先のT字路に自販機を見つけた。とても利用者がいるとは思えないこの場所に設置されていることが興味を惹く。時期じゃないけどおでん缶とか売ってるんだろうか。

 この発見になんとなくテンションが上がった私は自販機に近寄り、陳列されたラインナップを覗き込む。おでん缶はない。それから釣り銭口も覗き込む。空振り。ついでに自販機の下も……──おっと。


 誤解されないように言っておくけれど決して落ちているお金をネコババをしようとか企んでいるわけじゃないからな? 私はそんな浅ましい女じゃないんだ。

 ただ、あれだよあれ。私は暗いところが好きだと言っただろ。それで暗いに違いない自販機の下が気になっただけなんだって。


「って、いったい私は誰に弁明してるんだよ」


 言いながら身をかがめようとした瞬間のことだ──目の前にあった自販機はメキメキと音を立てながら闇に飲み込まれた。


 そしては正体を現す。

 設置されていた自販機の基礎ごとゴクリと飲み込んで。


「だい……、じゃ?」


 そう、大蛇。

 それも自販機をひと飲みできる大口を持った大蛇の顔が雑木林からぬるりと現れた。


「〜〜〜〜っ⁉︎」


 突然のことで理解が追いつかない。悲鳴も出ない。

 微かに確認できる胴は電車よりもずっと太く、その体表はこの世のどんな黒よりも黒い。吸い込まれてしまいそうな漆黒の鱗は神秘的な美しさすら感じてしまう。

 そんな大蛇の青白く不気味に光った双眸そうぼうが私の目と合った。息を呑む。呼吸が止まった。

 蛇に睨まれた蛙とはまさにこのこと。恐怖で背筋は凍り、足は地面に縫い付けられてしまったのかというくらい動かない。

 次の瞬間、大蛇は人ひとりを丸呑みするのなんてわけない大きな口を開け、その場に立ちすくむしかできない私に襲いかかってきた──そのとき。


「くっくっく。やってんねぇ」


 エンジン音と共に、背後からそんな声が聞こえた。

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