恐怖の陰毛
これは……おれがこの前、銭湯に行ったときの話だ。
湯船につかり、ふーっと一息をついたおれは、体から日頃の疲れが抜け出て行く感覚に頬を緩め、瞼を閉じ、宇宙のことを考えた。
特別な理由はない。ストレスが消え、心にぽっかりとスペースが空いたんで、何か壮大なことでも考えたくなったのだ。
しかし、ふと目を開けると、浮かび上がってきたのが陰毛だ。そう、陰毛。それは宇宙の始まり。無から作られる有機物。
いや、違う。陰毛とは思春期を迎えた辺りの男女の股間に生える毛のことを指す。そんなことは知ってるんだ。でもこいつは今突然現れたのではないかと思わせてくる。部屋の中で『え、こんな場所に?』と見つけたとき、そう冷蔵庫の中にあったときなど、なぜだ? と腕を組んで考えたものだ。時空の歪み、ぽっかりあいた穴から現れるスペースエイリアンか……いやいやいや、ない。こいつは人体から生まれ、そして抜け落ちたものだ。
だからこそ気持ちが悪い。と、いうとこれまで一緒に過ごしてきたのに少々無情な気もするが、抜けた毛というのはそういうもので、そう、死を想起させるからだろうか。
そんなことを考えながら、湯船に浮かぶ陰毛を眺めるのもそこそこに、おれは手で波を起こし、陰毛を排除した。
そしてまた、ふーっと息をついた。……そのときだった。腕に違和感が。
――ついてる。
おれは咄嗟に振り上げた腕を水面に叩きつけた。陰毛は波に揉まれるように下降し、そしてできた水流に乗り、おれの腹部の辺りを漂い、また再び浮上を始めた。おれは両手で器を作り、今度は慎重にやつの排除を試みた。
毛先がちょんと手に触れ、不快な気分になったものの今度こそ確実に湯船の外へ追い出した。
ゴキブリと似たような嫌悪感を抱くのは股間部分に生えていた毛だからだろうか。丁寧に洗っても、やはり嫌なものは嫌だ。
しかし、少々取り乱した。おれは気を取り直すように咳払いを一つし、そして今度は肩まで湯に浸かった。
……そのときであった。
目の前を陰毛が漂っていた。
おれは猫のように飛び退いた。だが、やつはそれにより発生した波に乗り、おれに迫ってきた。これは、もしや祟りでは。捨てないで……置いてかないで……戻して……。
おれは必死になって手で水を押し、やつを遠ざけようといた。だが、やつはおれが送る波をスルリユルリとかわし、そしてピトッとおれの腕に触れたのだ。
タッチ……あなたが鬼よ……うふふっ、あははは、あははははははは!
脳内に響く無邪気な子供のような声。しかし、それとは正反対の大人の象徴に反吐が出そうだった。
おれは大きく深呼吸し、ゆっくり腕を上げ、張り付いたやつを指でつまみ、湯船の外へ振り落とした。
まったく……と鼻から息を吐き、もうないだろうとおれはまた湯船につかった。そう、もうないだろうと……。
……三本。おれの目の前に今度は三本ものやつらが浮かび上がってきたのだ。
おれはとうとう、悲鳴を堪えきれなかった。
陰毛だ。陰毛だ! 陰毛陰毛陰毛! おれは立ち上がって、腕をやたらめったらに振り、やつらを遠ざけようとした。はぁはぁと息を荒げ、そして波と泡が収まると、込み上げてきたのは安堵感ではなく……陰毛。今度は五、六、八。おれは目を回しそうになった。これはおかしい。何かがおかしい。誰かが湯船の中で陰毛を剃っているとしか思えなかった。
だが、辺りを見回しても他の利用客はいなかった。それがより恐怖心を煽った。
毛……毛だけ……幽霊……。ホラーものの定番、この先の展開を想像し、ぶるっと頭から背中へ悪寒が走り、おれは堪らず湯船から飛び出した。その際、太ももに陰毛がこびり付き、おれは、「あぁ! ああぁ!」と声を上げながらそれを払い落とそうとした。だが、水気を帯びていたため手につき、おれはまた短い悲鳴を上げた。すぐにシャワーへ向かい、洗い流すとようやく落ち着きを取り戻すことができた。
……だが、シャワーを止めた、そのときであった。
まるでヒルの大群のようであった。おれの太ももにびっしりと纏わりつくその光景を目の当たりにした瞬間、おれは息が詰まった感覚がし、大きくむせ返った。まさか喉の奥にまで陰毛が詰まっているのでは。これはもうただ事ではない。心霊現象。呪い……死……。
だが、そんなことはなかった。ただ単に痰が絡んでいただけであった。
咳払いをしたおれは、ふとあることに気づいた。元来、おれに股間に生えている陰毛が薄くなったように感じたのだ。
股間を撫でると、手に三、四本の陰毛が絡みつき、おれは察した。あれらはやはりおれの陰毛だったのだ。ただ抜けていただけだったのだ。
なーんだ、と安心したおれ。そうとも、何が陰毛の亡霊だ。心霊現象だ。そんなことあるはずがない。
……なんで?
なぜ抜けた? ストレスにしても急すぎる。むしろ今日は陰毛にとっては喜ばしいくらい丁寧に洗ってやった。この銭湯はシャンプーとリンスが備え付けなのでそれでみっちりと……。
あ。
と、おれは思った。震えながら手を頭に伸ばすとそこには……そこには……
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