崖の上の家
山の中。その青年は坂を上っていた。
目的の場所まで、もうそろそろのはずだが数刻前から出てきた霧が濃さを増し、ただでさえ不安定なその感覚を狂わせている。
正しい道を進んでいるのだろうかと考えると、フッとため息混じりの笑いが漏れた。
取り繕うような咳払いを一つ。それで気を取り直し、目を凝らしながら前に進むと、ぼんやりと明かりが見えた。
……こんな場所に?
と、気になった青年が近づいてみると、それはこじんまりとした洋風の家の玄関外灯だった。
目立つ場所に看板がつけられている。
【ようこそ】
そう書いてあるなら遠慮することはないな。道を聞けるかもしれない。
普段は人見知りする性質にもかかわらずそう青年がそう思い、ドアに手を伸ばしたのは肉体の疲れが彼の精神を昂らせていたのだろうか、それとも……
――コン、コン
「ようこそおいでくださいました」
ノックの音は霧と薄闇に吸われたかのように思えたがドアが開き、短い髪、小奇麗な服装をした男が笑顔で青年を出迎えた。
遊び気のない見た目。高級ホテルのフロント係のような、相対した人間に不快感を与えないように徹底されていると青年は感じた。
「ようこそ、と看板にあったから入ってきたけど、いいんですか?」
「もちろんですとも。さ、どうぞこちらに」
青年は促され、ソファーに座った。土足。室内は美容室、病院、クリニック、マッサージ、何かの店、そのどれでもあり、違うと感じた。
……ああ、待合スペースか。
辺りを見渡す青年がそう納得した時、男が紅茶の入ったカップを青年の前に置き、彼の視線は仄かに揺らぎ、湯気が立つその深い赤に沈んだ。
男はガラステーブルを隔てて向かい側のソファーに座った。視線を上げた青年はカップを手に取ることもせず、男に訊ねた。
「……それで、ここはなんです? 山小屋と呼ぶには少し、雰囲気が違うと思うんですけど」
「この辺りが自殺の名所と呼ばれているのはご存知で?」
室内に入ったことと、人と相対、それに紅茶の香りで少なからず安堵していたのだろう青年は、ただの話の入りでそう訊いただけに、その思わぬ返しにぐっと息を呑んだ。
知ってるかって? 知ってるとも……。
男は彼の返答を待たずに言葉を続けた。答えを知っているかのように。
「ここに限らず、そういった場所は観光地が多かったりしましてね。
景色や自然が美しいところで死にたいという心理なのでしょうが、地元の観光業者にとっては余り良い話ではない。
いや、死活問題にもなりうる。そんな彼らが看板やら何やら対策を練る中、思い切った者が家を一軒建てましてね。ええ、この建物がそうです」
引き止めようってことか……。
青年はもう一度室内を見渡した。無駄がないというよりは遊び心がないと言ったほうが正しいか。ここは税金で作られ、この男は公務員か何かだろうか。
「あのドアは?」
ふと青年が気になった、入り口と向かい合うようにあるドア。裏口だろうか?
「あのドアから大体、大股で三歩進めば崖です。
そう、この家が建つまで、多くの人が崖のあちこちから飛び降りて自らの命をただ散らしました。なんと、勿体無い」
男のその言葉に、針でつつかれたように青年の顔がピクッと歪んだ。
「……命は尊いって? ははは、そんなことないですよ。
僕は何者にもなれなかった。この見た目からわかるでしょう?
顔も良くない頭もそうだ。体は弱い。褒められるのは歯並びくらい。僕はただ踏まれるために生まれてきたんだ」
堰を切ったように青年は喋り続けた。言葉に熱を帯び、目の辺りが熱い。涙が出そうになるのを必死に堪え、尚も口を動かし続けた。話すきっかけを求めていたことに彼自身薄々気付いており、抱いた嫌悪感を振り切るようにずっと。
男はうんうん頷き、青年の話をただ黙って聞いていた。
……成程、意外とこの家の役割も馬鹿にできたものじゃないかもしれない。こうして話を聞いてもらうだけで幾分、心が軽くなるのを感じる。自殺を考え直す人もいるかもしれない。
青年はそう思った。だが、自分はそれくらいじゃ踏みとどまらないとも。してやられたような恥ずかしさ。本当は縋りつきたい弱さから半ば意地のように。そして、手を差し伸べると言っても程度が知れているとそう、恐れから達観めいた感情を抱いていた。
「成程成程、仰るとおり。胸が打ち震えました」
話を終えると男が胸に手を当て、そう言った。
「……はっ、馬鹿にしてるんですか?」
「いえいえ、とんでもない。貴方のような人が、もっとここに来てくださればいいのに」
そう言い、男は青年に席を立つように促した。そのままあのドアの前へと青年を誘導する。
「さぁ、どうぞ。お開けになってください」
この向こうは崖。さっきそう言ったはずだ。男の狙いが分からず訝しがり、また青年は苛立ち皮肉の一つでも言いたくなった。
「……僕は本当に死ぬ気なんだ。構って欲しいだけの連中とは違う。
だから別に構わないけど、飛び降りるのを見るのが趣味なのか?」
「とんでもない、私はただの使用人ですので」
青年は男を横目に首を傾げつつ、ドアを開けた。
霧は相変わらず濃いが、足元は何とか見える。
確かに先は崖のようだ。少し進み、青年が見下ろすと霧の奥に奈落の闇が垣間見えた。
青年は更に目を凝らした。
何かつまらない仕掛けでもあるのだろう。転落防止用の網が張ってあるとか。当然だ。自殺を引き止めるどころか促すなんてこと、もしどこかに漏れたら警察騒ぎ、ネット炎上。ああ、それともあの男が直前で後ろから引き寄せ、涙ながらに命の尊さを語るのか?
うすら寒い。そう考えた青年が後ろを振り返る。
あれは……?
開いたドアの向こう、部屋の明かりが男を照らす。逆光となっているが、会った時から続いているあの薄ら笑いが見える。
そしてその手で掲げている何か。それが金色の輝きを放っていた。
――カランカランカラン
ベルだ。かなり大きな音が鳴り、青年は思わず身を縮こまらせ、耳を塞いだ。
一体何の真似、と再び目を向けると、男が口を動かしているのが見えた。何かを喋っている。
「尊いとは言ってませんよ。勿体無いと申したのです。私の主は生餌が好きなもので」
風が吹いた。妙に臭く生暖かく、粘りつくような。
その悪臭から逃れようと青年は身を捩じらせる。
次いでベルの音に紛れ何かの、そう、呼吸するような音が聞こえた。
それは多分ちょうどこの崖の下から。
更に濃くなった霧の中、けたたましいベルの音が反響し、青年は嵐の中にいるような感覚に陥った。
風が吹く、何度も何度も。悪臭を伴う風が吹く。
青年はそれらから逃れようと息を止め、耳を塞ぎ、そして目を閉じる。
よろめく青年は耐えようと身を硬くし、そして一歩前に踏み出した。
それが人生への帰還の一歩か、あるいは死の旅路の最後の一歩か、どちらかは霧が身を隠し、わからない。青年自身にさえ。
やがて霧の中で反響していたベルの音が止んだ。
深い霧の中、ただ満足気な息遣いだけがしていた。
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