隣の個室にいる者

 峰山はその公衆トイレに入った瞬間、ひどく不快な気分になった。

 個室が二つ小便器が三つ。個室の一つは洋風。もう一つはわからない。

 峰山は個室のほうへ。便器に座り、用を足そうとする。尻の穴に力を入れるが便器の中の水に揺らぎはない。

 代わりとばかりに頭の中にある考えが浮かぶ。前々から気になっていたことだ。隣の個室について。便器は和風か洋風か。いや、これがメインの議題ではない。そんなことはどうでもいいのだ。問題は何故いつも、あの個室が使われているかだ。


 峰山は頻繁にこの公衆トイレを利用する。

 家と駅の丁度中間に位置し、これもまた悩ましい話、おなかが弱いのだ。

 清潔とは言い難い。しかしそれはどこの公衆トイレにも言えることだ。快適であるに越したことはないが、改善は期待していない。

 沸き立つようなアンモニアの匂い。芳香剤と交じり合い鼻腔を刺激する。床は常に湿っている。別に触って確かめたわけではないが、細かいタイル地の床が僅かに光に反射するのと所々に小さな水溜りが見受けられるからそう考えている。その水溜りが水なのか、あるいは粗忽者が撒いた尿なのかを追求しようと思わない。何にせよ僅かでも触れたくはないと思っている。だから個室の中で峰山は下ろしたズボンが床に着くのを常に警戒していた。


 そんな中でも気になる隣の個室。尤も初めは何とも思わなかった。ああ、人が入っているな。その程度だ。その時は峰山は小のほうだったからということもある。

 二回目に来た時は大だった。当然、壁を隔ててるとは言え、隣に人がいるというのは少々落ち着かない。盛大に音を立てて、その後、個室を出るタイミングが被り、バッタリ顔を合わせることになるのは……。

 しかし、そうはならなかった。その後もこの個室を利用することはあったが顔を合わせたことは一度もない。


 無論、望んではいない。顔を合わせずに済むならそれでいい。ただ、気になることが。

 ……静か過ぎる。和風の庭。それよりも静寂。耳を澄ましても息遣いも、布が擦れる音も、新聞を捲る音も聞こえない。

 ゲーム? イヤホンをして? そうかもしれない。ただタップ音も聞こえない。映画鑑賞? いいや、ここがわざわざ篭るほど快適な環境とは思えない。


 無論、毎回、同じ人間が隣の個室を占領しているとは限らない。

 峰山がトイレに入った時、偶然毎回、誰かが入っている。ただそれだけの話。ありえなくはない。

 だが、その全員が音一つ出さない、控えめな性格。可能性は低いように思える。


 故障中? それが最も可能性としては大きい。

 管理者が意図的に使用中を示すあの赤い表示を降ろしている。

 納得だ。『子供の悪戯』という線もある。とにかく隣の個室には鍵がかかっているだけで誰もいない。


 もしくは……いるけどいない。

 死体……と自分のその考えに悪寒がし、峰山はブルッと震えた。

 だが、何を考えているんだ、と、すぐにフゥーと息を吐く。

 流石にトイレの中が臭いといっても死臭はわかる……だが、もし仮に夏の暑い日。峰山がこのトイレを使い出す前。哀れなその人が個室で人生を終え、それから一ヶ月ほど誰もトイレに近寄らなかったなら?

 あるいは近寄ったが余りの臭いに引き返し、すぐに体内に入った嫌な臭いを記憶ごと彼方に吐き捨てたなら?

 トイレが臭すぎる。たったそれだけで警察を呼ぶ人間がそう多くいるとは思えない。重なった偶然が悪臭放つ肉を脱ぎ去った白骨死体を作り上げた。どうだ? この仮説は。もしくは……何か別の。そう、怪――

 峰山がそう考えついた時、隣で物音がし、ビクッと背筋が伸び上がった。

 そして盛大な放屁。

 これは峰山のもの。それを皮切りに便は峰山の体から捻り出た。

 最悪のタイミング。顔を覆い隠すも出すものは止まらず。


 隣には人がいた。そうだ、何が白骨死体だ。何が怪物だ。妄想も甚だしい。人が毎回いるのは、ただの偶然だったのだ。

 恥ずかしい音を聞かれてしまった……と、峰山は隣の壁に目を向ける。そこに書かれている落書きに慰めの言葉はない。

 しかし、視線を上へ上へと這わせたその時だった。


 触手……。無数の黒い触手が上から峰山を捕らえんと狙いをつけている。怪物、クトゥルフのそれ。


 まさかと思い、下を見るとそこにも触手。

 湧き上がる鮮明な死のイメージ。

 目に耳に鼻に、穴という穴全てを弄ばれ血尿、血便を垂れ流し肉という肉は全てこそぎ落とされ、まさに想像したように、白骨だけが残され……。



 いや、あれは……。


 カメラ?


 峰山はその日、最も人には聞かれたくない、生娘のような悲鳴を上げた。

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