バーにて

 夜、仕事を終えた男はバーに入った。迷いなく席に座る。もう常連と言っていいだろう。初めてきた時、店員の印象が良く、気に入っていた。

 

 男は酒を注文し一口飲むと溜息をついた。毎日が同じようなことの繰り返しだ。朝起きて会社に向かい、仕事を終えるとバーに行く。仕事に不満があるわけではない。給料は多いわけではないが毎週バーに通えるくらいは稼いでいる。休日は映画を観たり、友人に会う。楽しくないわけではない。何か物足りないのだ。そう、何かが……。


 男はまた酒を口にした。

 そして、グラスを置いたその時、一人の女が男の隣に座った。


「マスター、こちらの方と同じものを」


 美しい声だった。男は思わず吐くはずだった溜息を飲み込み、うっとりとした。

 綺麗に染まった栗色の長い髪、整った顔立ち。肌は白く、綺麗な手は膝に置いた小さなバッグの上に添えていた。


「私もこのお酒が好きなの。私たち、気が合いそうね」


 女はニコッと笑いそう言うと酒を一口飲んだ。

 男は返事もできずただ微笑んだ。


 なんて美人なんだろう……。こんな女性と付き合えたら日常が物足りないなんて思わなくな……ああ、そうか。答えはすぐそこにあるじゃないか!


 そう考えた男は照れも恥も忘れ、女を口説きにかかった。しかし相手は美人。すでに恋人がいるかもしれない。駄目で元々、酒の勢いを借りた半ば玉砕精神だったが意外にもうまくいった。話してみると共通点が多かったのだ。

 それは、好きな色が同じ事から始まり、好きな音楽。好きな映画。好きな動物。好きな食べ物。子供の頃住んでいたところも同じという。とにかく共通点が多かった。


 どちらかが相手に合わせて言ったわけではない。試しにと同時に言ったのだから、これはもう驚くしかない。

 細胞が潤い、ひび割れた箇所が修復されていくような感覚。この女性は運命の人だと男は思った。

 女も同じことを思っていたのか、男と目が合うと頬を赤く染めた。


 それから少しすると二人はバーを出て行った。

 バーのマスターは浮かれた男の背中を見送ると、うまくいったなとばかりにニヤリと笑った。


 あの常連の男、これからもこのバーに通うだろう。……じきに姿をくらますあの女ともう一度会うために。

 こちらで用意した女にあらかじめターゲットからそれとなく聞いておいた情報を教えておいた。何も知らないターゲットは好みの一致や共通点の多さに驚き、運命を感じるだろう。こんな時代だ。普通に営業していてはいつかお客は離れて行ってしまう。これもいわばサービスだ。退屈な日常を送る者に夢を与えるというな。


「……しかし、こうもうまくいくとは。おまえも大した役者を連れてきたものだな」

 

 マスターは従業員の男を褒めた。この男が女性を用意したのだ。

 しかし、従業員は黙って何か考えている。そして躊躇うように何度か口を開け閉めした後に言った。


「あの、マスター。女のことなんですが……」


「なんだ? 作戦成功を祝し、三人で乾杯でもするか?

いい女だったしな。はははっ、何なら私がもう一度会ってみたいよ」


「……実は用意した女が熱を出してしまい、来られなかったのです。

代役をたてる時間も……なく」


「じゃあ、あの女は一体……?」


 二人は背中を冷たい指でなぞられるような感覚がし、震えた。

 女の声と姿、その香りは記憶から朧気になりつつあった。ただ情欲と絡みついた残像だけを残して。それは決して拭いきれないだろう。二人はそんな予感がし、酒を胃に流し込んだ。


 女の行方を知る者はいない。しかし、各地のバーで女の噂がされるようになった。

 その女を探してさまよう大勢の男の噂も。

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