赤 い糸
『ぼ、ぼくとぉ、付き合ってくださあぁぁぁぁぁい!』
僕はその日、息を切らしながら彼女の前に立ち、そう言った。
いや、正確には立ちはだかった。それも突然に、だ。汗を拭きさえしなかった。
でもそうするさ。運命の人。それをやっと見つけたのだから。
僕らは赤い糸で結ばれている。これは比喩じゃない。本当に僕らの小指は赤い糸で結ばれていたんだ。
気づいたのはその日から約一週間前。朝起きた僕はいつものように大学に行く支度をし、家を出た。
途中、恋人に連絡しようとポケットに入れた携帯電話を取り出すと、右手の小指から赤い糸がどこかに伸びているのに気づいた。
すぐに不思議な力が働いてるのだと確信した。触れないし、周りの人からは見えなかったからだ。暗視ゴーグルで赤外線センサーを見ているような気分。
でも、邪魔にならないなら問題ない。そう思い、そのまま大学に行くことにした。糸の先に何があるか気にはならなかった。だって今付き合っている恋人の指に繋がっているに決まっている。
『ごめんね』
と、思っていたけど結果は違った。恋人のその指には何もついておらず、更に偶然にもこの日、恋人にそっけなく別れを告げられた僕は良い機会だと思い、赤い糸を辿った。
本当は失恋の傷を、凍傷にもなりそうな寒さと孤独感を紛らわせたかったのかもしれない。
とにかく僕は走った。走って走って転んでまた走った。
で、ようやく見つけた彼女は少し怯えているようだった。でも無理もない。突然、茂みから飛び出してきた男に告白されたんだから。
第一印象は最悪だっただろう。それでも僕は上手くいくと確信していた。だって赤い糸はしっかりと僕と彼女をつないでいるのだから。
で、結果は大当たり。僕らは交際を始めた。やっぱり赤い糸の力は本物だったんだ。でも、この糸は彼女には見えないらしく、話したら鼻で笑われてしまった。
彼女は派手、とまではいかないけどその見た目にしては貞操観念が高いらしく、順調に交際を進め、結婚に至り、少し経った今も夜の営みはまだだ。でも、赤い糸は僕らを結んでくれている。問題ない。
……ただ、出会った当初と比べ、少し細くなったような気がしていた。
さすがに気になった僕は今夜、仕事を早めに切り上げ、彼女が待つ家に帰った。彼女が飲みたがっていたワインを片手に。
家に帰ってきた僕を見て、彼女は少し驚いていた。僕にはその笑顔がぎこちない理由がすぐにわかった。
『ただいま』『おかえりなさい、今日は早かったのね』
『ああ、仕事が早く片付いてね』『そうなのそれで何か食べる?』
なんてダイレクトメールみたいな会話をし、僕は二階へ向かう。
階段を上がる足が重いのは気持ちのせいだろうか? いいや、音を出さないように気を付けているからだ。足音と、腕に抱えて嵩張るこれらが。
僕はちらりと横目で赤い糸を見た。細い髪の毛のようになった僕らの赤い糸よりも太いその赤い糸は階段の上、二階の彼女の部屋に向かってピンと伸びていた。
静かにドアを開け、中に入る。赤い糸はクローゼットの中に続いているようだった。ルーバー折れ戸にして良かった。決めたのは彼女だったかな。まあ、どうでもいい。いいんだどうでも。
僕は彼女に気づかれないようにキッチンから持ち出した包丁たちを手に持った。
黒ひげ危機一髪、何となく頭によぎった。
後ろから彼女の悲鳴が聞こえる。
「君らの糸はちぎれたよ」
悲鳴の中、そう静かに告げた僕の声は彼女に届いたのだろうか。
もう訊く必要もない。
彼女のおかげで一つ良いことを知れた。
赤い糸は一本だけじゃない。
きっとまた誰かと結ばれる。
赤い糸から滲み出るように一滴の雫が床に落ちた。
そして、僕らの赤い糸が音も無くちぎれた。
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