閑話 十
閑話 十
北海は日の本列島の北に面した海峡である。
その海流は冷たく、風土への影響は大きい。
本州西端の那賀斗は、冷涼な気候で春の盛りのこの時期も、
肌寒い海風が吹く。
幡殖宿での決戦に勝利した不知火、環太積第一機動歩兵隊、玄嶽第二中隊は、
那賀斗にて駐留、市内とその周辺の警らに従事していた。
隊士達は持ち回りでの巡回を午前か午後に割り当てられ、中一日の休息を
与えられている。
悪兵衛は警備任務以外の時間をすべてを鍛錬に費やしていた。
体力の底上げの為の中遠距離の走り込みと、自重による筋力の増加を
目指した運動である。
果てしなく地道な運動の繰り返しを丹念に繰り返す。
その内容はすべて、灰音の指示によるものであった。
悪兵衛が求めているのは、汎用的な攻撃の為の魁音撃の習得である。
対単一目標の戦闘において最強の威力を誇る「旭光」は、あらゆる状況に
対応出来るものではない。
半円状の爆壁の角度を変え、対空でも対複数にでも斬撃出来る安曇十字朗の
「一文字」、一度に六撃の攻撃をそれぞれ別の標的に変えられるバルザックの
「擂嵐」。それぞれ自由度が高く、立体的な戦闘に即応する。
数々の激戦を潜り抜け、悪兵衛自身もそういった戦闘環境に順応していく
必要性を感じていた。
平たくいえば、焦り、である。
心の内を包み隠さず灰音に相談した所、体力の底上げを指示されたのであった。
一週と三日、決められた鍛錬を行い今現在の自己の体の力の底を知る。
そうしてそれを引き上げる為のより強度の高い鍛錬項目を設定し、灰音が
悪兵衛に指示する。今後半年をかけてそれを行っていく。
その日、午後の鍛錬を終えて井戸水を浴びた悪兵衛に、灰音がその旨を
丁寧に伝えた。
悪兵衛は灰音に渡された項目の厳しさに目を白黒させている。
「砂浜での走り込みを六度、間をおいて五回かあ。」
「指示した項目は悪兵衛殿おひとりで行ってください。もう私が見る事は
ありません。今後私とは別の訓練を行います。」
「別の訓練? 」
悪兵衛は目を輝かせて姿勢を正した。
「体の力の底上げはすべて、一つの目標をもとに行って頂きました。体芯を
鍛える前準備です。」
「体芯……。」
「仁悟朗も士道も非常な剛力ですが、道場では十字朗と鍔迫り合いで
勝てません。何故でしょう。」
「それは十字朗の最も優れた点の一つとして体芯の強さがあるからです。」
「一方的な腕力、画一方向の力ではなく、受け流し、吸収し、跳ね返し、それを
留めるのに必要なのが体芯です。」
悪兵衛はそれまでの幾多の戦闘により、ぼんやりと感じていた事が
灰音の言葉によって腑に落ちるのを感じている。
「では本日より行う訓練をお伝えします。素振りです。」
「素振り? 今までと同様にか。」
「いいえ、木刀ではなく琿青で。刀は右に差し、左利きで行ってください。」
「あいわかった。いま初めてもよろしいか。」
「どうぞ。」
頬を朱に染めて悪兵衛は勢いよく立ち上がった。灰音は微笑んでいる。
灰音の指示であれば、どんなに辛く地道な鍛錬でも黙々と行ってきた悪兵衛。
だが左持ちでの琿青の素振りは半刻で動きが止まった。
元々、琿青は通常の魁音刀二本分の重量がある。腕力に優れた剣士でも、
持った瞬間顔を
持ち手が左利きになった瞬間に、その違和感は琿青の重量と共に大きくなった。
素振りが二百を超え、汗が顎から滴る頃、剣を振った勢いのまま体重の
踏み間違えを起こし、悪兵衛は転倒した。
こんな経験は初めてである。
座り込み、荒い息をつく。目の前の最も頼りになる朋友である魁音刀が、
嘲笑っているような気がする。
「今まで使わなかった体の部分が悲鳴を上げているだけです。慣れ、です。」
「だめだ、章さん腹が減ったよ。」
「先程昼食をとったばかりです。訓練を続けましょう。」
「おやつを食べよう。」
「だめです。」
*
春の陽が穏やかな湾にきらめく。海鳥が堤防でけたたましい声を上げる。
半円状の湾に面した小那賀城のもと、灰音と悪兵衛が釣り船で漂っている。
左利きでの鍛錬はすでに七日を過ぎていた。
「本日はこの船上で素振りを行ってください。」
「あいわかった。」
「落ちないように。」
「うむ。」
灰音はにっこりと微笑むと釣りを始めた。
悪兵衛は琿青を抜き、深く呼吸を整え、力強く素振りを始める。
独特な風切り音を上げ、振り下ろした刀の衝撃が海面を割る。
激しく、鋭く、なりつつある。
知ってはいた筈だが、灰音は改めて悪兵衛の身体能力の高さに驚くばかり
であった。
突如船が揺れ、悪兵衛が振り抜きざま、均衡を崩して海面に落ちた。
灰音が船の縁を持ち、大きく揺らしたのである。
「章さん」
「落ちないようにといいました。」
笑いながら悪兵衛に手を貸し、引き上げる。
「環太積の船上での、マカミノミコトを覚えていますか。」
「目に焼き付いている。」
「あの時、揚陸艦は大きな波で揺れていました。マカミはまったく影響なく
戦い続けていましたね。」
「確かに、そうだ。」
「弥者の破常力の構造等、詳しい事はまだわかってはいません。しかし、
あの体芯の強さ、確かさは紛れもなく本物です。」
「一度目にしただけの紫電を、そのまま再現させたのも地力あってこそ。」
冷たい海水でずぶ濡れの悪兵衛はがちがちと歯を鳴らして震えていたが、
あの日のマカミノミコトを剣を想起し、仲間が惨殺された上条と阿波野の
表情を思い浮かべると、全身から闘志が沸き上がる。
「はがねを鍛えるように、今の我が身を強く、確かにする事が、
あらたな魁音撃を習得する最も近い道です。」
灰音の言に力強くうなずくと、道着を脱ぎ捨て立ち上がる。
「強く、早く、もっとだ」
悪兵衛はまた素振りを始めた。
*
小那賀城の中庭、堀前の広場に、木剣を携えた悪兵衛と十字朗の姿がある。
灰音がその間に立ち、手をかざした。
「はじめ。」
灰音の声と同時に蹲踞の姿勢から立ち上がった二人は、正眼に木刀を構える。
どちらも左構えである。
呼び出され、悪兵衛との稽古を頼まれた十字朗は、突然左構えといわれ戸惑い
ながらも、少々素振りしただけですでに違和感が無い。
以前から左利きの剣士のようにのびやかに剣を構えている。
<さすが、十字朗。だが俺も鍛えた。>
二人の気合声が積み上げられた城石に響く。
悪兵衛は大きく振りかぶり、十字朗に向かっていった。
五本、勝負をして悪兵衛は一本も取れなかった。
それほど十字朗は見事に悪兵衛の炎のような剣を捌ききった。
「元々お前の剣は強く激しい。が、利き手はそれすらも慣れがあった。それは
相手が同様の剣士と対峙した時の経験で、予想できるものだ。」
「しかし今は、慣れぬ左手の剣を使う為に、そのこなれがない。激しく
粗削りで先が読めぬのは強い。」
「十字朗はなぜ、俺の粗削りな剣も捌くことができるんだ? 」
「予測や経験に頼らず、剣とともに動いたからだ。」
十字朗は自らの手と木刀を見ながら言った。
「それに」
「俺は両ききだ。左で文字も書けるし剣も持てる。」
「章さん、聞いたか。ずるいよ」
「ずるくはありません。」
悪兵衛は木剣と両足を投げ出して嘆く。
灰音と十字朗は笑っている。
「そう気を落とすな。一朝一夕にはいかぬ。」
「灰音殿とふぐを食いに行こう。食った事がないんだろう? 」
悪兵衛はうつむいてふぐのように頬を膨らませている。
「くわんのか。」
「くう。」
閑話 十 了
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