第6話 五人目の独白
時刻は午前11時を回っていた。
太陽が中天に輝き、外は夏のうだるような暑さを一層強めている。しかし、浅草クススの空調設備は、それを感じさせない。たとえ今のように500席満員であっても、快適な温度調整を実現している。
だが、会場は張り詰めた雰囲気を放っていた。客が普段とは異なっているためだ。袴姿にジャージ姿、普段着の者もいるが、全員が落語協会関係者だった。
夜薙屋一門による難を逃れたいま、瑞相亭京馬は「桜円蘭追悼会」という名の寄席を打ち出した。なぜ今なのか。それには二つの理由があった。
一つは、この事件で失われた会長と協会関係者の魂を鎮めるためだ。噺家が噺で笑って供養するという考えのもと、落語協会のメンバーが招集された。
二つ目は、落語協会を牽引する新会長に瑞相亭京馬が正式に名乗りを上げるためだ。夜薙屋一門の事件を解決した実績が記憶に新しいこの日は、京馬にとって絶好のタイミングだった。
普段と異なる催し物に、会場内は色めき立っている。
瑞相亭京馬は最前列中央に座っていた。その隣には秘書の男が申し訳なさそうに平謝りを繰り返している。
京馬の整った眉には皺が寄り、しきりに爪を噛んでいる。これは苛立った時の彼の癖だった。
「杉本はまだなのか」
「まだ連絡がとれず……」
京馬の問いに、秘書がハンカチで汗をぬぐいながら答えた。彼は銀縁の眼鏡に黒のスーツを身につけ、いかにも秘書然としていた。
京馬は短く息を吐き、落ち着きを取り戻そうとする。今の質問で五回目だった。答えが分かっていても訊くのを抑えられなかった。
杉本たちの連絡が途絶えて、もう3時間ほど経っていた。桜柳平の居所を前座たちに突き止めさせたまでは良かった。その後に一度、杉本から柳平を刺してしまったという連絡があった。京馬は普段怒りに苛まれることはない。だが、この件については別だった。
桜柳平をこの手で殺せない。
そう考えるだけで眼の奥が疼いた。
京馬は柳平を殺すためだけに落語協会会長まで上り詰めたのだ。
ふと、全てが無為に終わるのではないか、と過ぎる。
あってはならない。京馬は、意志を強固なものにするために記憶を呼び起こす。
30年前の浅草大笑閣で起きた事件は、京馬の父親、瑞相亭松風を葬った。京馬にとって父がいないのは当たり前だった。顔を見ていないのだから、情も取り立てて湧くことはない。いつも優しくしてくれる母がいればどうでもよかった。
その母は中学生の時に死んだ。京馬は夏が嫌いだった。夏は母が首を吊って死んだ季節だからだ。
学校から帰り、ツタが壁を覆うアパートに着いた。玄関から聞こえる沸騰しすぎたやかんの音と、ブランコが軋むような、きいきい、という音は今でも耳から離れない。
それから、京馬は父方の祖母の家に引き取られた。アパートから、旅館と見まがう豪邸に移り住み、暮らし向きは良くなった。
瑞相亭の家は、曾祖父の代から続く噺家の家系だった。既に祖父は亡くなっていたが、男は噺家として育てるのが当たり前だった。母は生前、父方の縁者とは付き合おうとしなかったため、京馬はまるで知らなかった。
祖母たちは優しかったが、落語の練習となると厳しかった。毎日、正座で何時間も噺を覚えさせられるのは辛かった。それでも母の死と向き合う時間が長くなるよりましだった。
逃避のような生活が続いたが、高校三年になると、大学受験のために休日は勉強に当てられるようになった。深夜まで参考書と格闘するのにも疲れ、キッチンに夜食を取りに行く時だった。二階の自室から降りようとすると、階下から祖母の声が聞こえた。耳をそばだてる。声は台所の手前にある和室からだった。
「お父さん。あれはダメかもしれないわ。松風にあった才能がない」
京馬は、自分のことだとすぐに分かった。
「やっぱり頭の悪い母親から生まれてきたのが悪いんかねぇ。松風があんな女、孕ませんかったら死ななかったのに。運が吸われたんだわ」
昼間の祖母の笑顔からは想像もできない冷たい声だった。
「あれの母親がちゃんと死んでくれて跡取りが出来たと思ったのに……。お父さんもがっかりしてるでしょうけど、もう少し見ていてね」
仏鈴の音がしたはずだが、よく聞こえなかった。京馬の頭の中は、熱い泥を流し込まれたようにじんじんとしていた。胸の奥に黒い感情が渦巻く。
落語が憎かった。全ての原因を作った桜柳平が憎くてたまらなかった。母を侮辱する落語の世界など壊れてしまえばいいと思った。
京馬は落語漬けの日々に身を投じた。芸に狂った人間を葬るためには己が頂点に立つしかない。その強迫観念めいた復讐心は、京馬の芸と精神に劇的な磨きをかけた。
そうして、桜円蘭からの信を得るまでに時間はかからなかった。円蘭は京馬の背景を知っていたのか、事件が起こる前に「幽閉さん」の真実を告げていた。母も京馬も狂わせた桜柳平が生きている!知った当初は、今すぐにでも殺そうと考えた。
だが、すぐに夜薙屋一門が独立した。京馬にとって想定外だった。円蘭が殺され、落語家たちが死んでいくさまは憎んでいた落語が自壊していくように思えた。このまま放っておけば、悲願が叶うかもしれない。確実だろうか。
断じて違う。夜薙屋の事件は、落語協会という岩盤へのタガネだ。ハンマーがなければならない。京馬は柳平の利用価値に気づいた。噺家同士で潰し合わせれば、最後に残るのは京馬自身だ。
柳平は期待以上の働きをした。監視していた前座たちから報告を受けるたび、異常な強さに驚くと同時に、奇妙な感覚を覚えていた。
柳平に興味が湧いたのだ。30年間も幽閉され、兄弟子を斬るまでに至った柳平の人生は、京馬と同等に落語を憎む資格があるはずだ。しかし、柳平は芸の研鑽を選び続けた。それが京馬には、理解できなかった。疑問がある限り、柳平を殺す判断はできない。そのため、大笑閣での殺害も許さなかった。
答えを得てからこの手で終わらせる。京馬はそう決めて今に至った。
浅草クスス内の騒めきが静まりはじめた。時刻は正午を回りかけ、寄席がはじまる頃合いだった。どうやら己の意志を固めるのに、時間がかかりすぎたらしい。隣を見やると、秘書は席を外していた。
京馬が柳平を諦めかけた時だった。
秘書が早足で、席に戻ってきた。
「あの、師匠……」
京馬に話しかける顔は青ざめている。
「どうした」
「さっき電話があって」
京馬が顔を上げる。
「杉本は何と言っていた」
「それが……」
秘書が口ごもる理由が分からなかった。
「早く言え」
「待ってください、違うんです」
「何を言っている」
「違うんです!」
小刻みに震えているせいで、秘書の声が裏返った。周囲の噺家が、こちらに視線を集めている。
「電話に出たのは杉本じゃないんです……出たのは」
秘書の言葉を遮るように、会場の照明が消えた。正午ちょうどになったため、寄席が始まったのだ。京馬はとりあえず秘書に席に着くよう促す。
しばらくして、高座を照明が照らした。京馬は演目を思い出す。たしか、真打の噺家だったはずだ。名前は何だったろうか。
京馬が思い出そうとしている間に出囃子が鳴り始める。かかったのは「一丁入り」だった。京馬は耳を疑う。この出囃子を使う者はいないはずだ。
他の噺家も気づいたのだろう。客席のざわめきが大きくなる。
頭の中で、危険信号がチカチカと光る。
足音が聞こえた時、京馬の時間が止まった。
上手から足を引きずって現れたのは、桜柳平だった。困惑と衝撃が言語野を殺す。黒の着物は遠目からでも血に染まっていると判別できた。
柳平は高座に辿りつくと、腰を下ろし、一礼した。
「暫くの間、お付き合いのほどをよろしくお願い申し上げます」
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