第2話 灼熱血気遊戯

「芬弥サン!やべーよ!」

 前座の一人、テツが叫ぶ。

 芬弥と呼ばれた男が顔を上げる。体は筋肉質で肌は透き通るように白い。鼻は高く、顎は荒く削った岩のよう。全身にスラブ民族の気高さを誇っていた。

 ここは銭湯、菊の湯。ひと仕事終えた後は必ず芬弥は見習いたちを連れ、この湯に浸かりに来ていた。

「師匠をつけろ。バカヤロウ」

 短く刈り上げた銀髪をかきあげ、水滴が飛ぶ。

「だって!あんなにバタバターって!!」

 テツは鼻を膨らませ、興奮気味に言う。

 江東区の寄席会場を襲った時、テツが見たのは無数の骸だった。寄席会場を埋めつくす死に、テツは衝撃を受けた。それを起こした張本人──夜薙屋芬弥に興奮が向けられるのは当然の流れだった。

「大げさなヤツだな。練習すりゃテツもすぐできんよ」

「まじすか!」

 テツの顔が喜色に輝く。まったく忙しいやつだ。

「あと20年……やればな!」

「げぇ~~~っ!20年っすかぁ~」

 テツの素っ頓狂な声に、他の前座からどっと笑い声が起きた。芬弥も莞爾と笑う。

 苦節20年。思えば長い道のりだった。祖国にいた頃の自分を思い返す。あの時、自分は孤独で自棄になっていた。

 嵐平次が訪ねてこなければ、どうなっていたろうか。

 芬弥は今でもあの日を鮮明に思い出す。

 土も凍るような寒い夜。ウォッカを呷り、ようやく眠気に誘われていた時だった。ふと、戸を叩く音で目が覚めた。

 こんな時間に何の用だ。舌打ちをして戸を開けると、ダウンコートの小男が待ち構えていた。芬弥は、初めて日本人を見た。細い目に、皺を寄せて笑っている。ロシアの夜は、あの島国の比べ物にならないはずなのに。

「落語ヤロウヤ」片言のロシア語を男が発する。

 芯を貫く豪胆さと執着心をもつ男、それが夜薙屋嵐平次に抱いた印象だった。

 次に思い出すのは、浅草に来てからだった。早朝、嵐平次が部屋に駆け込んできた。

「オウ、イワン。お前の名前が決まったぞ。今日からお前は芬弥だ。芬は、お前さんの国から。弥はな、広く知れ渡ってほしい気持ちを込めてだ。どうだい、気に入ったろ」

「いいと思いますよ、師匠。それにしても日本語は変ですね。ロシアが芬になっちまうんですか。まるで、音もあっちゃいない」

 芬弥の答えを聞くなり、嵐平次は頭をかいた。

「お前さんロシア出身だっけ」

「師匠も来たでしょう」

 嵐平次はうつむき、言葉を漏らす。

「フィンランドと間違えちまった……」

 その時の顔と言ったら!師匠の口惜しそうな顔を思い出すたび、芬弥は笑いそうになる。豪胆かと思えば、調子の抜けたあの振る舞いだ。芬弥は嵐平次の人柄にすっかり引き込まれていた。

 師匠とでなければ、裏落語を極められなかっただろう。

 芬弥は鋼の意志と勤勉さをもって苦難を乗り越えてきた。その末に真打を授かった。そして……。

「今のはナシっすよ! 安助サン!」

「バーロイ! おめぇが負けたんだ。今日のコーヒー牛乳の奢りはテツだヨ」

「うっそだろぉ~~~!」

 今の自分には仲間がいる。乗り越えたのだ。自暴自棄と恨みに塗れたイワンはもういない。

 芬弥の中に充足感が満ちる。

「あっはっはっは」

 思わず笑い声が漏れた。言い争いをしていた前座の目が一斉に銀髪の偉丈夫に向く。

「オラァ!仲良くしろお前ら。今日はフルーツでもコーヒーでも好きなの飲んでけ」

「あざっす! みんなぁ~~! 師匠の奢りだぁ!」

 洗い場が歓声に沸いた。

「ヒャッホォ! 一番乗り頂きます!」

「あっ! ずるいっすよ!」

 安助は既に出口に手をかけていた。テツが後を追う。他の前座たちも後に続く。

「コラ!風呂に1時間入んねぇヤツは抜きだぞ!!」

 芬弥が叱り飛ばす。だが、聞こえていないのか。テツたちが戻る気配はない。

「おい!」

 芬弥が再び声を上げるが、自分の声が響くだけだった。

「仕方ねぇ奴らだな」

 芬弥が立ち上がると、見習いの中心に安助が見えた。しかし、振り向こうとしたまま動かない。

 風呂の湯気が晴れた。安助に平たく無機質な角が生えている。そう思った刹那だった。

 うおおおんんうおんううんううおおおん

 けたたましいエンジン音と同時に、安助の頭が爆ぜる。頭蓋の破片がタイルに散らばり、硬い音を鳴らす。肉を斬る生々しい音と悲鳴が混ざった。

 紛れもなくチェーンソーだ。暴力的な回転刃がぎらりと光る。その輝きを、芬弥が忘れるはずがなかった。

 芬弥は凶行の仕業が誰かようやく理解した。だが、頭が理解を拒む。奴が目の前にいるはずがないのだ。

「злой дух……!」

 タイル地に立つのは若き芬弥を奈落に堕とした男だった。血まみれで立つ奴の名は、忘れもしない。

 紅潮する肌は風呂場の熱気ゆえか怒りゆえか。芬弥は捨てかけた過去に再び引き戻され、ロシアの大地が迫る。

「師匠ッ! ここは俺たちが食い止めるんで!」

「夜薙屋の根性見せたらァーッ!」

 絶叫むなしく血煙をあげ、見習いたちが惨殺される。男たちの腕や脚、頭が宙に舞う。

 芬弥の足に当たるものがあった。

 タイルに血の跡を引き、滑ってきたのはテツの首だった。

 芬弥は拾い上げ、額を合わせる。

「すまない、本当にすまない……」

 テツの頭をシャワーの前に置く。光を失った両眼に、芬弥が映った。

 ──いずれ来るのは分かっていただろう。

 虚像がそう語りかけるように見えた。

 芬弥は見習いたちに背を向け走る。

 向かう先には、サウナがあった。



 柳平に、オールバックの男が掴みかかる。腕を切り落とす。タイルに滑り、体勢が崩れる。勢いのまま斬る。金髪男の腹から腸がこぼれだす。

 眉のない坊主男が腰に掴みかかる。脳天にチェーンソーを叩き込む。すかさず、体勢を変えて、逃げ出そうとする男を見つける。ガラ空きの背中へ刃を貫通させた。

 頬に衝撃が走る。殴られた。鯉が滝を登る刺青が見えた。口の中に鉄の味が広がり、青や赤の星が視界に弾けた。無理矢理に体を押しつけ胸の鯉を上下半分に切り分けた。

 エンジン音と、男たちの絶叫がこだまする。

 気がつくと、柳平を肉塊が囲んでいた。

 ピンクとブルーのタイル目には血の網が張り巡らされ、風呂の湯気は生臭く、むせかえりそうになる。

 柳平の脳奥が痺れ、膝をつく。老いと疲労が確実に体を蝕んでいた。

 菊の湯は馬道通りを入ってすぐにあった。白地に赤字の看板で見つけるのは容易だった。通りの名前がさえ分かっていれば、後は勝手知ったる浅草の土地を歩くだけで着いた。

 ガラス戸を抜ける。階段を上がり、番頭に一礼する。

「先に逃げとくんな……」

「落語家の迫り合いなんざ屁でもねぇぜ」

 番頭は、これから起こるであろう蛮事をものともしていないようだった。

 脱衣所には銀鼠の羽織と、扇子が置かれていた。

 夜薙屋芬弥に違いなかった。

 相手の隙を狙うのは気が引けたが、この先3人を殺すことを考えれば、避けられぬ策だ。奇襲をかけて全員殺す。が、風呂場の歓声が、引き戸を開く手を止めた。

 師匠を囲み、ひと時を楽しむ前座たちの姿が浮かんだ。

「すまんねぇ」

 柳平は、謝罪の言葉を心の裡で呟く。そして、戸を開けたのが始まりだった。

 今や、前座たちは臓腑の山と化していた。シャワー音が浴場に虚しく響く。

 柳平は足に力を入れ、立ち上がった。水を吸った袴は鉛のようだ。

 風呂場を一回りする。水風呂にも電気風呂にも人影はない。

 残るのはサウナ室のみだった。ここにいるのがおそらく夜薙屋芬弥だろう。柳平の心は不気味に静まりかえっていた。扉に手をかける。

「ま、待ってくれ!」

 サウナ室の奥から命乞いが聞こえる。

「少し話そう! な!?」

 扇子を持たない裏落語家にかける情けはない。自分はただ散らかしたものを片付けるのみ、と柳平は思考をまとめる。

「ま、待ってくれよ!」

 扉がギィ、と重く軋む。室内の一番奥に男が腰掛けていた。白銀の髪が視界に入る。手に持つのは──

 次の瞬間、柳平はサウナ室の床に伏していた。

 息ができない。

 呼吸するたびに、溶けた蝋を流し込まれたように喉が熱かった。

「かっは……」

 床は真夏のアスファルトとなり、指、頬を焼く。

「苦しかろう」

 先ほどまでの命乞いとは違う。冷ややかな声が柳平に落ちた。

 身をよじり、柳平が目を向ける。男は汗一つかかず、そこだけ真冬と錯覚させた。手には扇子が摘まれている。

「裏噺『ウラルの我慢坊』。老骨がどこまで熱に耐えられるか試してやろう」

 男は柳平の扇子に向ける視線に気づいた。

「これか? 耐水性の扇子だよ。サウナ室は俺の処刑場だ。お前は俺の芝居に誘われて、のこのこやってきた」

 芬弥の相好は崩れない。のたうつ柳平を見つめていた目を、扇子に移す。

「150度」

 肺が焼けるような感覚に襲われる。体の水分が蒸発するのを感じる。ただ仰向けで、柳平は浅い呼吸を繰り返すしかなかった。

「はぁっはっは……」

「サーシャを覚えているか」

 朦朧とした意識に芬弥が語りかける。

「サーシャはゴロツキの弟と違って勉強ができた。奨学金でモスクワ大学に行き、日本に留学した。そして演芸場に向かい……」

 芬弥の声がわずかに力む。

「チェーンソーで喉をかき切られたらしい。俺は死体すら見せてもらえなかった。お前は落語家ではない。誰でもない。お前を殺して、俺は自首する。お前があたかもテツたちを庇ったように証言するんだ。お前は死んでも正しく評価されない。二つ目の柳平としても、殺人鬼としても存在する事を許さない。それが姉、サーシャへの手向けとなる」

 柳平は聞くしかなかった。切れ切れの意識の中、自分がチェーンソーを振るって泣き叫ぶ女を斬り殺す場面を想像する。

「サーシャを覚えているか」

「ジジイの頭じゃ、昨日の飯も、覚えて、られねぇんだ」

 柳平は喘ぎながら言う。柳平の諧謔に、芬弥の眼が怒りに燃える。

「笑わせるな。200度」

 部屋の空気が変わる。柳平の汗が床に落ちる前に蒸発した。

「へ……へ、へへ、へへ……」

 骨の髄から熱を発して、内側から肉を焼いているようだった。柳平の老体が悲鳴をあげる。だが、不思議と笑いがこみ上げた。

「何がおかしい」

「へへ……俺ぁ、噺は覚えられるのによ。人を殺したのは自覚がねぇんだ。これが笑えないわけないだろ」

 本心からだった。柳平は続ける。

「それによ、このウラルの我慢坊。我慢くらべの『強情灸』と『冬の遊び』が下敷きになってんだろ。ロシアの新作落語たぁ考えたもんだ。江戸の人情とツンドラがこうも合うとはなぁ……」

 柳平から笑いが漏れる。芬弥の落語の力が自分の体を追い詰めている。噺家の限界はどこにあるのだろう。裏落語への熱意と努力を想像して、嬉しくてたまらなかった。

「……寄席でやったら大ウケだなこりゃあ」

「戯れ言を」

「戯れ言なもんかい。俺ぁ、冗談は言っても嘘はつかねえ。お前は俺よりよっぽど才能があるぜ」

 芬弥の舌打ちが聞こえる。

 しかし、柳平に掴みかかるようなことはなかった。チェーンソーの有効範囲を警戒しているのだ。

「なぁ」柳平は問いかける。

「姉さんはどんな人だった」

「貴様が知る必要はない」

「お前さんほどの落語家の姉だ。大層なもんだろうな……」

「250度」芬弥の声は冷たい。部屋の空気が蒸発する。酸素が潰れて、部屋ごと歪んでいくようだ。

 柳平は弓反りになり、口をぱくぱくとさせる。焦げた臭いが、自分の体からしてきている。死と生のあわいに立つ男の姿を、芬弥は見下ろす。

 芬弥の眼は部屋の熱と集中力で充血していた。

「へへへ……そ、んな面じゃ、誰も笑っ、てくれねぇぜ」

「いい加減身体が燃え始める頃だろう。なぜ笑っていられる……!貴様を殺して、俺はサーシャの仇を取る」

 部屋内は微生物も死滅する絶死空間と化していた。サウナ室の椅子が焦げつく。柳平の羽織の端が炭のように赤くなった。

「なぜだ!なぜ死なない!」

 芬弥の髪は極度の乾燥で先端が白くなっている。

「骨も残さず死ね」芬弥が扇子を摘む。

 口が「300度」と、かたちづくる前だった。

 その瞬間、エンジン音が轟いた。

「毎度、馬鹿馬鹿しい話をひとつ……」

 柳平が呟くと同時に、勝負は決まった。

 右手が風を切り、熱風が渦巻く。チェーンソーの刃が、天井を向いていた。

 部屋の温度は急激に下がってゆく。

 芬弥の動きが止まる。扇子がぽとり、と床に落ちた。遅れて縦一文字に割れた額から湯気が噴き出し、脳漿がぶちまかれた。灰色の脳髄が床に世界地図を描く。

 芬弥の死は、柳平との距離数センチが決した。

 芬弥の切傷は小指ほどの僅かなものだった。柳平が灼熱地獄のさなか、悶えながら右腕の位置をずらさなければ結果は逆になっていた。自分の死が理解できないのか、芬弥の眼には未だ生気が宿っていた。

「すまねぇな、あの世で落語しようや……」

 茹で上がった体を翻し、柳平はサウナ室を後にした。

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