第8話 魔界の果てに
悲鳴はやはりエイニケ村からだった。辺りは騒然としており、少なくない集団が敵意を示している事が遠目からでも理解できた。
「あれはもしかして、地上の騎士団?」
「クエスタ隠れて。迂闊に攻め込んじゃダメよ!」
ミアに飛びつかれた事で転び、2人は茂みに身を隠すようになった。そこから見えるのは百人近い武装兵で、明らかに魔人とは異なる種だ。まるで降って湧いたかのような襲撃に、誰もが困惑を隠せずにいた。
そして、敵の手に渡った少女の存在が、事態の収拾を困難にしていた。
「地の底にうごめく蛮族どもよ。もう1度問う、クエスタという地上人を連れてくるのだ!」
若い将校が張り詰めた声で叫んだ。その背後には後ろ手に縛られた少女がおり、首元に刃が突きつけられている。
「聞こえなかったか。我らは闘争を目的としてはいない。クエスタさえ戻れば、潔く帰還すると約束しよう!」
その言葉は、村の随所で身構える魔人たちにさざ波のように伝わった。しかし誰一人として、少年の名を口にする者は居ない。それどころか、果敢にも単身で真っ向から立ちはだかる者まで現れる始末だった。
恰幅の良い、毅然とした姿を見せたのは、ソーニャであった。
「何なんだよアンタら。さっきから人様の庭先で騒ぎやがって」
「貴様こそ何者だ。この集落の指導者か?」
「卑怯者に名乗る名なんて持ち合わせてねぇよ。まともに口きいて欲しけりゃ、その子を離すんだな」
「我らを愚弄する気か。八つ裂きにされても虚勢が保つか、試してやろうか」
将校は気色ばんで剣を構えた。それを押しのけて前に現れたのは、団長のシューネントであった。
「いやぁアッハッハ。ごめんね、怒らないで。うちの部下ってば血の気が多くてさ。さっきも言ったけど、ほんと争うつもりは無いんだよ」
「こりゃまた……随分と気味の悪いヤツが出てきたね」
ソーニャは背筋に冷たいものを覚えた。まるで大蛇にでも睨まれたかのような、腹に刺さる圧力がある。それが1つの確信を授けた。この男は並大抵の人物ではないと。
「だからさ、隠さないで教えておくれよ。僕らはこの世界になんか興味なくってね。地上からやってきた少年さえ見つかれば、すぐに帰るから」
「フン、知らないったら知らないね!」
「本当かな? 嘘は良くないねぇ」
絡みつく視線。体を締め付ける幻覚を肌に感じる。やはり蛇かとソーニャは奥歯を噛み締めた。
だが魔人も慌てふためくばかりではない。左右の物陰に10人、屈強な若者が武器を携え、息を潜めるのが見えた。急襲して人質を助ける為のものだ。
ならばと、ソーニャは深く息を吸い込み、吐いた。自分が何をすべきか、目配せのみで察したのである。
「ウダウダうっせぇんだよ。痛い目みなきゃ分かんないのかい?」
術式を展開し、虚空に氷の柱を生み出した。人間大のものが3本。尖った先端が冷たく煌めき、寒気を誘うようである。
「そう来るかい。こっちには人質がいるんだけどね」
「傷のひとつでも付けてみろ。アンタの土手っ腹に風穴が空くよ」
「それは勘弁してほしいなぁ。これでも忙しい身でね、1日サボっただけで大勢が困っちゃうんだ」
「もう困る事はなくなるだろうさ、ここで死ぬんだからね!」
ソーニャは気が急くあまり、氷柱魔法を発動させた。標的はシューネント唯1人。指揮官を守ろうとすれば、必ず陣形に隙が生じるはずで、そこに奪還の全力を注ぎ込む。そうなるハズだったのだが。
「へぇ、ただの村人でもここまで遣えるんだ。魔人ってのはおっかないねぇ」
シューネントは片手のみを突き出して、防御態勢に入った。そして前面に七色の光を生み出すと、氷柱の全てを砕いてみせた。
そして奪還も失敗だ。左右から攻め寄せた若者は、斬撃をもって撃退され、全てが血の海に倒れ伏した。
「でも、僕らを甘く見過ぎだよね。こちとら殺し合いの果てに生き残った精鋭だよ。平和ボケしてる連中に負ける道理は無いんだよね」
「なぜだ、なんで地上人が、魔界でここまで動けるんだ!」
「確かにこの世界には独特の気というか、魔力の素が漂ってるね。でも僕らは戦闘のプロだ。行く先々の環境に適応するのは、日常茶飯事なんだよ」
作戦は失敗だ。人質を助けるどころか、むしろ囚われの者を増やす結果となってしまった。更に言えば、治療を急がないと命に関わる、重症者ばかりだ。
それはシューネントの思惑通りだった。相手を殺すよりも瀕死にした方が、利が大きいことを知っている。死者を見捨てるのは珍しくないが、生者であれば犠牲を払おうとも救おうとする。その心理につけ込むことで戦果はより大きくなる事を、経験則から理解しているのだ。
「さて、お互いに時間が惜しいよね。そろそろ本当の事を教えておくれ。彼は今どこにいる?」
「し、知ら……知らない……」
「まったく、強情なんだねぇ。これは子供の腕一本も切り落とさないと白状しないかな?」
「何をする気だよ!?」
「少女の悲鳴を聞いても平気なのかな、こんな悲鳴をさぁ!」
シューネントは剣を高々と振り上げた。そして切っ先が中天を向いた瞬間、辺りに鋭い叫びが響き渡った。
「やめろ!」
血なまぐさい一帯が静まり返る。シューネントは、ソーニャも村外れの方を弾かれたように見た。
「僕ならここだ。これ以上乱暴をするのはやめろ!」
「だめよクエスタ! 行っちゃダメ!」
ミアの悲痛な叫びには耳も貸さず、クエスタは丘を駆け下りた。そして鬼気迫る顔のまま、騎士団の前に降り立つ。放たれる気配は、子供のものとは思えないほど、肌を貫いて震わせた。
「おぉ、これは噂以上だね。スキルが覚醒でもしたのかな?」
クエスタは問いかけに答えない。そして脳裏で間断なく響く声にも応じなかった。
――逃げよう、早く館の方へ。お友達が助けてくれる。
すがるような言葉を振り払うかのように、クエスタは腹の底から叫んだ。
「人質を解放するんだ。僕が現れたんだから、用なら済んだろう!」
「解放してください、だね」
「何だって?」
「キミはこれから、僕の家来になるんだ。上下のけじめをつける必要があるだろう。ほら、言ってご覧よ」
クエスタの奥歯が鳴った。まともに戦っても勝ち目は皆無。それはスキルに頼らずとも明白で、頭を下げる他なかった。
「か……解放してください」
「うんうん、よく出来ました。じゃあ約束は守らないとね」
人質の少女は投げ捨てられ、地面に転がされた。すかさずソーニャは抱きかかえたのだが、彼女の苦悩はまだ終わらない。
「ダメだよクエスタ。行っちゃいけない! 地上人がアンタの価値に気づいたんだ、きっとロクでもない目に遭わされるに決まってる!」
遅れてミアも叫んだ。息を切らし、両手を膝につきながら。
「クエスタ! 村の人達はアナタを見捨てたのよ! それなのに、今度は事情が変わったからって連れ戻そうとしてる。そんな扱いでも平気なの!?」
ミアの言葉ももっともだ。ある時は不要だと生贄に捧げられ、利用価値を見出されれば問答無用で戻れと言う。翻弄されるクエスタにすれば許せる事ではない。
しかし彼は力なく首を横に振った。
「僕には出来ないよ。魔人の皆が、優しい皆が好きだから」
そしてクエスタは、丸腰のままシューネントの前に歩み寄った。両手は挙げている。それでも視線は射抜くほどに強くし、せめてもの抵抗を現していた。
「さぁ連れて行け。これでお終いにするんだ」
「開眼してるねぇ。その覇気があれば、過酷な戦争も耐えきれるだろうさ」
シューネントはクエスタを脇に抱えて飛翔した。配下たちも続いて空を飛び、闇夜の中へ向かっていった。
「クエスターー!」
ミアの叫び声が響く。しかし次の瞬間には、意味合いが変わった。配下の兵たちが次々と炎魔法を唱え、足元の一帯を焼いたのだ。
凄まじい熱量が暴風を巻き起こす。ミアとソーニャも壁に激しく叩きつけられるのが、上空からでも視認できた。それほどの火勢だった。
「ミア! ソーニャさん! どうしてこんな酷いことを!」
「後顧の憂いを断つのは戦略の基本さ。まぁ人に直撃してないからね。運が良ければ死人を出さずに済むだろうさ」
「この嘘つき、冷血漢! お前なんか人間じゃない!」
「アッハッハ。今のうち騒ぐと良いよ、地上に戻ったら懲罰ものだからね。その身に躾をたっぷり仕込んであげるから、ついでに覚悟も決めといて」
暗闇に高笑いが響き渡る。クエスタは、自由にならない体を呪った。この両手も、魔法も、シューネントの足元にも及ばない。
強くなりたい。横暴に、暴力に立ち向かえるだけの力が欲しい。切なる願いを繰り返し、繰り返し思い浮かべた。
しかし祈るだけで強くなれる程、魔界も都合良く出来てはいない。囚われたまま、地上へと繋がる穴を眼前に見た。視認できるのはランプが岸壁に打ち付けられた為で、クエスタにとって馴染みのある灯りだった。そして、眺めるだけで吐き気にも似た憎悪がこみ上げてきた。
「団長! 背後より敵……!」
「何だって!?」
追撃を許さぬよう、村に火を点けたハズなのに。シューネントが驚愕と共に振り向けば、それ以上に信じられない物を目の当たりにした。
獅子だ。人を遥かに凌ぐ巨体が、空を自在に飛び回っているのだ。その素早さは神速としか言えず、眼で追いかける事すら難しい。
「グルルァァーーッ!」
獅子の咆哮が闇夜を揺るがす。クエスタの意を汲むかのような、激しい怒号だ。これには百戦錬磨の兵も怯み、陣形に大きな緩みを生じた。そして1人、また1人と爪で斬り裂かれ、煌めく大地へと墜落していく。
「全軍、広く展開しろ! 距離をとり、魔法で攻撃するんだ!」
シューネントの判断は素早かった。損耗を避け、荒れ狂う獣を葬る算段を導き出したのだから。
しかし、暴虐の獅子は更に上を行った。陣形の変化を本能で察知、速度を更に加速した。すると待っていたのは同士討ちだ。放つ魔法は獅子に当たらず、その向こうに陣取る味方を襲うようになる。完全に手球に取られた軍団は混迷を深め、大きく崩れていった。
その姿はクエスタからも良く見えた。たった一匹で雄々しく戦う姿に見惚れ、同時に悔しく思った。何も出来ずに囚われる自分を激しく恥じたのだ。
そんな彼の脳裏に、またしても言葉が過ぎった。しかし、今度はただ逃走を促すものではない。極めて具体的な指示だった。
――これから3つ数えるから、男の腹を強く蹴って。
クエスタは理解しきれなかったが、腹を決めた。もはや誘う声に従う以外、助かる筋道は見えないからだ。
――3。
ゆっくりと数えられる。その間も激しい戦闘は続き、上下左右と激戦が繰り広げられた。
――2。
誰かの放った風魔法が、獅子の翼を掠めた。高く響く声。しかし、勢いは止まらず、むしろ更に加速して兵士たちを蹴散らしていく。
――1。
獅子が顔の向きを変えた。そして視界にシューネントの姿を捉えると、猛然と駆け出した。立ちはだかる兵は紙クズも同然だ。
「なんて化物だ。僕がやるしか無いだろうね……」
シューネントが剣に手をかけた、その時だ。クエスタの脳裏に強い言葉が響いた。
――今だよ!
クエスタは両足でシューネントの腹を蹴った。絡まる腕から逃れ、虚空に身を投げ出した。
落下する速度はみるみるうちに増していき、全身を激しい風が打ち付ける。しかし、その体は獅子の背に落ち、地面に叩きつけられるのは避けられた。
「クエスタが奪われた! 全軍突撃ィ!」
大地に降り立った獅子は、それからも駆けた。その背後には騎士団の全軍が迫っている。
「もう良いよ、止まって! 僕の為に傷つかないでくれ!」
クエスタの声は届かない。そして走り続けた。背中の傷もいとわず、青々と輝く草木に点々と赤い血を振りまきながら。
「どこに向かってるんだよ。村とは全然違う方じゃないか!」
獅子は足を休めない。速度を緩めれば、すかさず敵に追いつかれるだろう。だが、村から離れようとする理由には思えなかった。
「景色が変わってきた。こっちには来たことなかったな……」
徐々に草木は消え、石も数を減らしていく。すると光源を無くしてしまい、視界の闇が色濃くなる。やがて彼らは光を無くした。
「団長! どうやら暗闇に紛れるつもりのようです!」
「逃しちゃダメだ、光照魔法を使って捕捉するんだ!」
騎士団の前衛は手のひらを輝かせ、闇を駆けるクエスタ達を露わにした。そして並走すべく速度をあげたその時だ。
激しい衝突音とともに、前衛の全てが落下した。見えない壁に阻まれたかのようで、あらゆる魔法を手放し、大地に落下して倒れた。
「止まれ! 敵には備えがある!」
クエスタ達は、シューネントの号令を置き去りにし、無明の世界へ溶けた。
もはや見えるものは何もない。月も星々すらも存在しない光景は、死よりもおぞましい物を感じさせた。犬死よりも無価値で、忘れ去られるよりも哀しい、かつてない程に負の感情が押し寄せてくる。
「ねぇ、どこまで行くの? 追手ならもう居なくなったよ?」
それでも足は止まらない。見えざる何かに導かれ、巨獣の体が闇を切り裂いた。
どれほど背中に跨っていたのだろう。それは一時なのか、あるいは半日くらいか。時間の感覚を手放しかけた頃、彼は瞳に光を見た。
闇にポツリと浮かぶ、たった1つの輝き。安堵する一方で、改めて心を固くした。希望の光と呼ぶには余りにも小さすぎた。
「誰か居るのか、騎士団じゃないよね……?」
やがて光に近寄ると、何者かが立ち尽くす姿を見た。蒼くて長い髪、肌は透き通るように白く、細身のローブですら隙間が出来るほど華奢である。瞳は閉じられており、理知と憂いを感じさせる。
その人物は先端の輝く杖を手にしており、それが闇を照らしていたのだ。
「アナタは……いったい?」
その人物はクエスタの問いかけには答えず、空いた方の手を煌めかせた。
「よくぞ頑張ってくれました。しばらくお休みなさい」
暴虐の獅子はあくびを浮かべると、その場に寝そべり、眠りについた。背中の傷もすっかり塞がっており、傷跡を見つける事すら困難だった。
「さて、クエスタ。アナタには謝らねばなりませんね」
「僕を知ってるんですか?」
クエスタに見覚えはない。これまでに眺めた、あらゆる彫刻や絵画よりも美しい人物で、1度目にしたなら忘れようもない。しかし、相手だけは自分を知っている。少なくなかった疑問は、更に1つ上乗せされる形になった。
「どこからお話しすれば良いのでしょう。そうですね、まずは名乗る事から始めましょうか」
そう言うと、杖の先で地面を突付いて鳴らし、背筋を伸ばした。クエスタも自然と気圧された風にたじろいだ。
「私はこの世界の生み出した張本人。あなた方は、精霊神とも、最高神とも呼んでいますね」
「せ、精霊神、様……?」
「はい。お会いできて光栄です。あなたにとっても同じであると、祈るばかりです」
その言葉と共に、精霊神は微笑みを浮かべた。だが、それはすぐに曇る。閉じられた目蓋は震え、眉間に苦悩の筋が刻まれる。
まるで何らかの罪を耐え忍ぶような、そんな表情だった。
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