救済の手は菩薩か修羅か
雷之電
合理化は成功していた
頚椎横の刺し傷を必死に押さえていた男の呼吸は次第に勢いを失っていく。大仰なダブルベッドに広がる鮮血の海の傍らで、敵意、後悔、焦燥、怖気、とにかくいろんなものが拮抗して、この間、私は何もできないでいた。
「……て、あらわなきゃ」
魂でも抜かれたようにのろのろと洗面台へ向かう。鏡に写るのは、はらわたがひっくり返るほどのイレギュラーのさなかでもなお形を崩さない、血の気の引いた中学生の顔だった。
愛着のあったナイフの血を流す。護身用になどと粋がって買った、華奢なペーパーナイフだった。警告を無視して抱きついた男の首を刺し、手前に引き裂いたのだ。
血が後ろ側に吹き出したおかげで、手首の他には浴びずに済んだ。
倒したインクを洗い流すような頑固さがある。風呂で鼻血が出れば桶にためて遊ぶほどに血を見るのは平気だった。なのに、手のひらから今脱落するそれは罪のあてつけとしてか、何か重いものを投げかけていて、とても直視できない。
「どうしよ」
今、何をすべきか。あまりに膨大で、追いつけていない。逃げるようにトイレに籠もる。
「……、」
「ん、っおぇ」
あいつと食べた小便臭いチーズピザを、胃に残っている分だけ全て便器に吐き出した。
この五〇三号室から誰も出ていないはずだった。あのうるさい小太りの男は、丸めた布団のように動かず、頭上のスピーカーから吐き出される穏やかなピアノ・ソナタに包まれている。
うるさい。
部屋が奏でる沈黙が、弦の模倣音を蹂躙する。
しんとした、音。
今、何をすべきか。捕まりたくない。でも仕方なかった。自分が刺さなければ、自分が、
……想像したくない。
のこのこついていくんじゃなかった。せめて入り口につくまでに別れていれば。ここまで連れ込んで、手を出さないわけがなかったんだ。
とにかくここを出よう。
冷えた腹の底を抱えて扉を開ける。彼の尻ポケットに二つ折りの革財布。
動かない。本当に死んでいる。人の姿をした動かない肉はこんなにも異様で不気味なものなのだ。学校で見た「映像の世紀」の、段差から落ちる人の胴体に感じたものとリンクしている。
二万五千円。こいつ、ハナからこのために自分と会っていたらしい。彼に提示した代金は一万円のはずだった。
ベッドの下に投げ捨てられたウェストポーチを回収して内線をかける。ラブホテルの仕様は、いつか友達から借りて読んだ官能小説で学んでいた。どんな声でチェックアウトを告げたかわからない。とにかく扉の錠は開いて、ホテルから一目散に駅へ逃げた。
休日の宵の口。ホームの椅子に座る殺人鬼を誰も見咎めず、列車を待つ。
それから何駅飛んだか、どこを乗り換えたかすら覚えていない。家には帰れないと思って、どこでもいい、遠いところへ行きたかった。
「えっと」
知らない夜景が立ち並ぶ。不躾な視線をくぐって駅前の蕎麦屋に入る。
とにかく落ち着くために、欲求を絞り出して温蕎麦を頼んだが、おいしいおいしいと必死に言い聞かせているうち本当の味なんかわからなくなった。
『速報です。〇〇市〇〇町のラブホテルで30代の男性が何者かに首を切りつけられ死亡しているのを、ホテルの従業員が発見しました。現場には早くも規制線が――最近何かと物騒――一刻も早い犯人の逮捕を――』
「……いけしゃあしゃあと」
蕎麦屋を飛び出てまた歩く。
思い出した。陰湿ないたずらの跡が見つかって起きた、義憤に燃えるクラスメイト達による犯人探し。あれから人が嫌いになった。
みんなそうなんだ。愛想のいい蕎麦屋の店主も、すれ違う人々も、みんな石と罪人が揃えば、罪人へ向かう。誰が決めたのかも知らない罪を己の善悪観に塗り重ね、無条件に石を投げる。
追われるなら熊が良かった。熊ならお互い、こんな不毛で惨めな気分も抱かなかった。
そうして人目を避けるようにして、ビルの隙間に空いた汚い口に足を踏み入れる。
「……なに、これ」
それは立方体だった。狭い路地を通せんぼするように、黒く鈍いゴム状の、一辺片腕ほどもある立方体が、胸の高さで浮いている。掃き溜めに降り立つ鶴は、目の当たりにすると怪しいものだ。しかしそこに無条件の安らぎを求め、手を表面に合わせる。
「あんた、こんなとこで何してるんだい」
うなじの毛が立つような、壮年の男の声だったと思う。
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