第8話 悩み

 コンコン



 柔らかな枕に覆われた僕の頭。

 唯一自由な片耳にノックの音が聞こえてくる


「うぅん」


 微睡の淵から目覚めた葵は寝てしまっていたのだと理解して、訪問者が立っているであろう自室のドアに向かった。


「開けまーす」


 ギィと軋む金具。

 ゆっくり内側に開けると、



 むわっ



 世にも奇妙な男を惑わせるフェロモン、即ち女性のニオイが鼻先に波打ってきた。


「お風呂出たよ」

「なっ・・・!」


 声の主は柚香で、入浴が終わったのを知らせに来たらしい。


 そこまではよいのだが、


「なっ、なんで・・・!!」


 パクパクと口を開閉させ呆気にとられている様子の葵。

 柚香は不思議そうに首を傾げ、裸体に巻かれたバスタオルをクイっと持ち上げる。

 すっぴんといえど少女らしさが失われていない顔付き、美麗に浮き出た首の線と喉仏、それに鎖骨。

 しっかりと張った両肩は瑞々しさが感じられ焼けた栗のような茶髪も同様に艶めいている。

 バスタオル越しとはいえ鮮明に胸の膨らみが捉えられるし、すらっと伸びた肢体もほんのり筋肉が浮いていてとても健康的だ。


 そんな魅力的で油断しきった彼女に驚嘆を隠せない葵。


「あぁ、葵もしかして恥ずかしがってる?ごめんね」

「家ではいつもこんな感じだったから癖が抜けてなくて、パジャマも下に持ってってなかったし」

「いっ、いいから部屋戻って!」

「でも慣れておかないと駄目だよ?これからこんなこと頻繁にあるだろうし」

「私だって葵の人には言えないようなトコロ、目撃しちゃうかもだし」

 反省しているのかしていないのか、しょうがないじゃないかという口ぶりで今後のハプニングを予見させるようなことを呟く柚香。

 僕は見て見ぬフリをして彼女の脇を通り抜け紅く染まった純情を悟られぬよう一階に向かおうとするが、


「ちょっと待って!」


 引き止める柚香。

 彼女は隣の部屋に身を隠すよう入ると、


「これついでに持ってって」


 ほかほか使いたてのバスタオルを差し出す。片手で。


 葵はそれを引っ手繰ると階段を駆け下る。


「走ると危ないよー!」


 彼女の注意も聞き流しその場を退散した。


 残された柚香は全裸のままドアの内鍵を閉め、


「ふぅ」


 クローゼットを開け寝間着のインナーに着替えて化粧机に座る。



 ぺちんっ!



 潤った両頬を戒めるように叩く柚香。


(やっば、何やってんだ私、これじゃ変態じゃん)


 先刻の自分の行動を顧みて自己嫌悪に陥る思春期ガール。


(てゆーか体臭とか大丈夫かな?まさか葵はニオイフェチだとか女子が入った風呂だとかトイレに興奮を覚える特殊な人じゃないよね?)


 そこそこ長い時間湯船に浸かり頭の中を整理していたからかなり汗は掻いたはず。

 ましてや自分達用のシャンプーやコンディショナーも持ち込んだわけでして、


(今度から入浴剤とか使った方がいいかな?)


 神経質になるほど気を遣ってしまう。

 杞憂とはまた違うが心配事が増えてしまった。


 柚香は化粧水で肌を整えながら今一度自分はもう高校生で、ある程度出掛けたり恋愛も自由にできる年齢に達したのだと言い聞かせる。

 インナーの肉付きも小中の時とは違い年相応の目線で見られることもあるだろう。

 私自身性格を変えるつもりはないが男子との距離感は改めるべきかもしれない。

 少女漫画によると私みたいな恋愛感情を持ち合わせていないのにボディータッチが激しい女子は異性を勘違いさせやすく、同性には嫉妬の眼で見られ、悲惨な末路を辿りやすい。

 適度な関係を築くのが一番なんだ。


(恋かぁ)


 高校では部活に入ることはないと思う。

 最後の燻っていた火種は残り滓となって憧れの彼方に吹き飛んでしまったから、家計を支える、あいつに会わない意味も込めて学生でも働ける場所を探そう。

 或いは家でゆっくり午後を過ごすのも吉だろうがそれはそれで暇を持て余すか?


(葵はどうするのか決めてるのかな?)


 中学の時は図書委員会には入っていたと聞くが部活の方はてんで興味がなかったらしい。

 高校もそうかもしれないが澄星海ソラミ高校は生徒数も多く部活動も活発で多種にわたると聞く、もしかしたら彼の琴線に触れる何かがそこにあって笑顔の輪が広がるかもしれない。


(なんてさ、お姉ちゃんみたいに考えてるけどお節介すぎるよね)


 ただ放っておけない雰囲気は確かにあるのだ。

 こんな出会い方じゃなくてもどこかで出会えばきっと意識の隅には彼がいたかもしれない。


(この気持ちって、何だろう?)


 同じ言葉が脳内でリフレインされる。

 幼馴染に抱いていたむず痒いドキドキする気持ちと似てるようで違う、友達と言われればそのように振舞えてしまう浮き上がった仮面。

 うまく言語化できない葵に対する感情にもどかしさを覚えるがきっと時が解決してくれるだろう。

 だってこれは、緊張だとか不安からくる若者の生硬で未熟な感覚に過ぎないのであろうから。


 ♦♦♦♦


 高遠家の風呂場は一階の廊下奥にあった。

 階段の下の空間に洗濯機などが置かれ反対に洗面所、そして成人男性一人がゆったり体を休められるような白を基調とした浴室。

 母に躾けられていた葵は母が家を出たあとも隅々まで清掃していた。

 急な来客なんて滅多にないが誰かに見せても恥ずかしくないくらいには清潔に。



 しかし、今日からはもっと慎重にならなければならない。



「あっ」

 洗濯カゴに放り込まれていた一回り小さな衣類。

 歪な形で膨らみを帯びているのは下に何かが隠されているからなんだろう。


(いやいやいやいや)


 廊下は薄暗い豆電球だけがぼんやり辺りを照らしていて、背後の引き戸の隙間からそれよりもっと明るい灯りが漏れている。



 そんな空間で彼女―――柚香の衣服と睨めっこする葵。



 この一線は越えられない一線なのに、男の探求心はロマンを求めてしまう。



 だって誰かに見られているわけでもないし家族なんだから遠慮なんて必要ないだろ?


 それでもこれは彼女に対する裏切りで不安にさせてしまうかもしれなくて・・・、



 けれど少し捲るだけなら。



 ・・・なんて馬鹿なこと考えてないで、ちゃっちゃと風呂に入ってしまおう。



 ガラッ



 背後の洗面所を開けると熱気がもわっと逃げ出すようにぶつかってきて、クラクラしてしまいそうなシャンプー?石鹸?の残滓に包み込まれた。


 葵はこれが当たり前になるからと平静を保ちつつ歯ブラシに手を伸ばすと、見知らぬピンクと青の新品がマグカップに立てかけられている。


 それから服を脱いで柚香のとは別のカゴに放り投げ浴室へ。


 まるで初めて水に顔を浸けるような緊張感。


 まだ生温かく湿気が残る白い個室はいつも以上に気持ちよく感じられた。


 自分が使ってる洗剤で体を洗い柔らかくなった湯船に。


 長風呂と聞いていたが全然汗臭くなくて、不思議と眠さに襲われてしまう。


 とんでもない変態だが湯を通し彼女を感じられているのが幸せなのかもしれない。

 湯船の中で揺らめく両手でバシャバシャ顔を洗い、肩まで浸かる。


(・・・明日は買い物に行くんだよね)


 多分透と亜妃乃とあの店に行くんだろうが僕も同行すべきだろうか?

 相変わらず空白が続く脳内スケジュール。

 唯一の懸念というか、は連絡をくれることはあっても無理に会おうとはしてこない。


 そんなに僕と柚香の関係がバレたらどうなるのだろうか?



 ちゃぽん・・・



 考えても仕方ないなと頭の中をまっさらにし、ごうんごうんと水音が響く湯船に潜る。



 もう来週には、高校生。

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