第35話 高台の幽霊 -1
数日続いた雨は嘘のように晴れ、ぽかぽかと日差しは温かい。珍しく客が少なく、一時間ほど早く終わったアルバイトの帰りに、
やばい、そう思った時には遅かった。慌てて掛けたブレーキも間に合わず、その影に突っ込んだ。衝撃を覚悟して反射的に目を瞑ったが、しかし何も起きなかった。あまりの急ブレーキに車体が大きく揺れる。なんとか運転に専念して倒れるのは免れた。
数メートル先で止まって振り返る。何かを轢いてしまったとしても大きさからして人では無い。犬か猫か、動物の類だ。
「あれ?」
予想に反して、振り返った先には何も無い。確かにぶつかった感触は無かった。でもあのタイミングで相手も逃げられたとは思えない。しかし辺りにそれらしき動物はいない。気のせいだったかと胸を撫で下ろす。ふぅ、と安堵の息をついて前を向くと、足元に茶色い犬が居た。
「え?」
柴犬に似ているが、少し違う気もする。犬に詳しくない青には判別できないが、とにかく日本犬っぽい犬だ。その犬がしきりに足にじゃれついている、様に見える。「様に見える」のは飛びつかれている青の足には触られている感覚が無いためだ。犬の前足は、するりと青の足を通り抜けている。これの意味するところは、青の知る限りひとつしかない。
つまりこの犬は普通の生き物ではない。どうやら先ほどぶつかったのはこの犬らしい。
「轢いちゃってごめんな。でも悪いけど、お前と遊んではやれないよ」
見たところ、怪我はない。触れないから効果はないが、手でじゃれてくる犬を押しとどめて、青は原付を発進した。ミラーで様子を伺うと、こちらを見ている犬が目に入る。そのまま青は家に戻った。
「ただいま」
「あら、早かったわね」
青がリビングを覗くと、
青と夏月が和解した、実際は青が一方的に突っかかっていたのだが、のは
あれから三カ月経っている。でもやはり夏月に会うのは気まずい。今となっては情けない姿を晒したのが照れくさくて恥ずかしい。そしてやはり少しだけ胸が疼く。青が居ない間に夏月は何度かこの家を訪れているようだから、あえて顔を合わせないようにしてくれていたのだろう。
「あ、えーと、ただいま。いらっしゃい」
笑みを浮かべた、つもりでいたが恐らく上手くは作れていないだろう。幸子が眉を寄せた。ただ夏月が微笑んで、お邪魔しています、と答えてくれたから幸子は口を噤んだようだ。一姫はどこまで知っているのか、人を食ったにやにや顔で見ている。
「ところで青、おまえ何を連れて来たんだ?」
「何って?」
一姫の質問に青が首を傾げる。
「それだ、それ」
青を通り越して後方を示している一姫の指先を追って振り返ると、犬がいた。見覚えのあるその犬は、先ほどぶつかったあの犬だ。
「うわ、お前ついてきちゃったのかよ。遊べないって言っただろ」
青が近づくと犬は警戒の色を見せた。先ほどのようにじゃれつく様子も無い。すぐそばまで寄った青には反応せず、犬の瞳は一姫を見据えていた。一姫が立ち上がると犬がびくりと体を震わせる。
「あんたたち何と話してるの?」
一姫や青が、見えないもの、と話していても、今更驚かない幸子がのんびりと訊く。
「あの、そのあたりに何かいますか?」
夏月が犬のいる辺りを指差し、目を細める。
「ああ、夏月も見えるか」
「ぼんやりとですけれど、動物っぽいもの?」
「そうだ、犬がいる。日本の犬の系統の雑種だな。夏月は妖とのハーフだからな。もともとは見える質なんだろう」
「え、でも今までに一度も見たことがないのですけれど」
夏月が戸惑いがちに訊く。
「それは『妖怪なんて居る筈がない』という常識が夏月の中で崩れたからだ。大方の人間にとって見えなければ無いも同じ、聞こえなければいないも同じだ。『ありえない』と思うお前の心が感覚を遮断していたんだろう。そのうちもっとはっきり見えるようになる」
何でも無い事のように言った一姫に、夏月の顔が曇る。いきなりの未知の世界に不安があるのだろう。
「本当に!? 羨ましい!」
そんな夏月の心配をよそに手を叩いて喜んだのは幸子だ。
「私と
頬を膨らませる幸子に、一姫の無情な声が落ちる。
「諦めろ、お前たちには才能が無い」
幸子の膨らんだ頬がしおしおとしぼんだ。
「っふ、幸子さん、可愛いですね」
二人のやりとりで気分が解れたのか、夏月が少し笑う。
「なあ、話が纏ったところで、これどうにかしてくんない、姫?」
所在なさそうに話に割り込んだのは青だ。犬は青の足に何度も噛みついている。実際は足をするりと通り抜けるため失敗に終わるが、それでも必死に繰り返していた。
「どれ」
声を上げた一姫に、犬がびくりと体を揺らす。じりっと後退した犬に、一姫が話しかけた。
「なに、危害を加えたりしないさ」
一姫がゆっくりと近づく。言葉が通じたのかは定かではないが犬はその場で一姫を見上げた。
すっと一姫が手を伸ばし犬に触れる。及び腰の犬の背を一姫がゆったりと撫でる。しばらくして犬は後ろ脚を落としてお座りの姿勢になった。試しに青が犬に触れてみるがやはり手は何の感触も伝えない。光に触ったようにするりと通り過ぎるだけだ。
一姫が今度は犬の額に掌をあてて目を閉じた。何かに集中しているような一姫は直ぐに目を開く。
「子供に何かあったみたいだな」
「え?」
一姫の言葉に、青が疑問の声を上げる。隣で聞いていた他の二人も驚いているようだ。
「この犬がそう言っている。部屋に人の子供が倒れている」
「姫って犬と話せるのか?」
「会話というより、映像として記憶を読むというか、イメージを受け取るとかそういったものだ。細かい事まではわからん」
「そんな話は後でいいわ、それよりもその倒れている子は平気なの?」
一姫と青の話に、心配気な幸子が割り込む。
「そもそも倒れてるってホントか? 寝てるとかじゃなくて?」
青が一姫に尋ねる。今の話だけでは子供が危険かなど判断出来ない。
「さあ、そこまでは知らん」
「うわ、役たたねぇ……」
思わず声を漏らした青を、一姫が睨む。険悪になったその場の空気を余所に、探しに行きましょう、と幸子が立ち上がった。
「取り越し苦労ならそれでいいわ。でも本当に何かあったのなら助けないと」
「そうは言っても、場所は?」
億劫そうに訊き返した青に、犬が歩き出した。一度振り返って尻尾を振る。
「ついて来いってことらしいの」
一姫の声に、青がため息をつく。
「母さんはここにいて。俺が行く」
「あの、」
幸子の返事も聞かずに歩き出した青に、後ろから声が掛かる。静かに聞いていた夏月が立ち上がった。
「私も行って良いですか?」
少し考えた後、青は頷いた。
犬は走りたいのを我慢しているのか、時折振り返っては青たちを急かすように尻尾を振った。目的地までどれほどの距離があるのか分からないので走るわけにもいかず、青、一姫、夏月の三人は速足で歩いていた。
「原付で来るべきだったかな」
犬の落ち着かない様子に青が呟く。なんせ面倒臭がりの一姫が着いて来たのだ。状況は詳しく分からない、なんて言っているが本当は他にも何か気付いているのかもしれない。さすがに青も少し心配になってきた。
「ごめんなさい、私が着いていくって言ったせいで」
「あ、いや、別にそういうつもりじゃ……」
先ほどの言葉は夏月に向けた発言ではない。思いもしない謝罪が返ってきて青が慌てる。一姫が呆れたように言った。
「夏月はちょっと気を遣いすぎるな、疲れないか?」
青が同意すると、夏月が、すみません、とうな垂れた。一姫が溜め息をつく。
「そこは謝るところでは無い。わらわ達に気を遣う必要はない。楽にしろと言ってるんだ」
「すみ……いえ、ありがとうございます」
また謝りそうになった口を閉じて、夏月が言い直す。一姫が満足そうに頷いた。
「さて、少し急ぐとするか。お犬様が怒っておる」
確かに見るからに犬の苛立ちは最高潮だ。一姫の手前大人しくしているようだが、もし一姫が居なかったら噛みつかれて引っ張られているかも知れない。すり抜けるから意味は無いが。
「ていうか、俺、こんな幽霊みたいのは初めて見た」
歩きながら青が言う。「
「人の幽霊も、いるにはいるぞ。ただ人間は死んだらしかるべき場所に向かう様に管理されているから、そうそう世に迷って出たりはしない。絶対数が少ないんだ。わらわも人の霊には両手で足りるほどしか出会った事はないな」
「管理されてるって、誰に?」
「
「すげえ、世の中には不思議がいっぱいだな」
青が感心したような疑っているような中途半端な声を出す。
「信じる、信じないは好きにしろ」
一姫はそんな青を横目に見ながら走っている。子供の姿で背の低い一姫は大人の速足についていくにはどうしても小走りになるが、息ひとつ乱した様子は無い。
「ついでにその犬は、幽霊は幽霊でも『生霊』ってやつだ。子供の危機をどうにかして知らせたかったんだろう」
「マジで? そんなことできんの?」
「普通は出来んだろうが……おそらく、才能?」
前例の多いケースでは無い様で、一姫も歯切れが悪い。
「それだけ、そのお子さんが大好きなんですね」
夏月が前を行く犬を見ながら真剣な目で言う。その視線はしっかりと犬に合わさっている。
「夏月、お前さっきより犬が見えるのか?」
「ええ、まだはっきりとは分かりませんが、先ほどより輪郭はしっかりと見えます」
頷いた夏月に、一姫が、そうか、と短い返事をした。
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