第33話 去にし辺 明日への祈り -4

 太陽が地平から抜け切った時分、子供と有平ありひらは出立する事になった。朝霧が立ちこめ、濃い緑の匂いがする。子供の隣りでは有平が感謝の口上を述べていて、少女が苦々しい顔で聞き流している。


「ぜひ何かお礼をさせて頂きたいのですが、お望みの物などありましたら仰ってください」

「特に足りぬものなど無い。気にするな」

「いえ、翠寿丸すいしゅうまる様は当家の大切なお方ですから。私どもに出来ることで有ればなんでも良いのです」


食い下がる有平に少女が俯く。


「本当に、なんでもいいのか?」


しばらくして顔を上げた少女は確認するように有平に尋ねた。


「ええ、もちろんです」

「ならば、着物が一枚欲しい。都の姫の様な美しい布の着物。無理だろうか?」

「いいえ。むしろそれだけでよろしいのですか?」


有平が拍子抜けして問い返す。少女が頷いた。


「承知しました。では必ずや貴方にお似合いの美しいお召し物を届けましょう」


有平が約束すると、少女は淡い笑みを浮かべた。

 その後の別れの挨拶は酷くあっけないものだった。子供と有平がそれぞれ礼を述べ、少女が気にするな、と返す。それだけの短い会話だ。


すい


子供が馬に乗ろうとしたところで名を呼ばれた。振り返ると、少女の手のひらが子供の顔に伸びる。細い指先が頬をするりと撫でた。


「何を沈んでいるのか知らないが、息災でな」


少女が微笑む。まるで思慮深い老人の様な慈愛に満ちた表情だ。子供が何かを言おうとして黙る。代わりに目尻に浮かびそうになった涙をぎゅっと瞑って押し戻した。




 緑深い森の中で子供は馬に乗っていた。有平は手綱を引いて隣を歩いている。利口な馬で、時々張り出した枝を避けるように体を揺らしてくれた。


「なあ、有平。なぜ私の居場所が分かったんだ?」


広大な森の中、そう簡単に子供一人を見つけられるとは思えない。有平が迎えに来た時から不思議に思っていた質問を投げる。


「翠寿丸様が屋敷に到着予定の日を過ぎてもいらっしゃらないので、何かあったのかと旅程を逆に辿りました。ここに一番近い村で『子供を探している人間が来たら小屋に向かうように伝えて欲しい』と頼まれた、と村人に聞きました。頼んだのは若い娘だそうなのでいち姫様でしょう」


 本当に感謝してもしきれません、と有平が続ける。少女に見つけて貰わなければ子供はとっくに死んでいただろう。さらに近くの村まで知らせてくれたおかげで家まで帰る事が出来る。有平が煩いほど礼を言うのも無理はない。


「それにしても、可愛らしい方でしたね」

「え、ああ、そうだな。美しい人だった」


子供が目を丸くすると、有平は馬上の子供を見てくすりと笑った。


「いえ、姿形の話ではなく。確かにお姿もとてもお綺麗な方でしたが。少々言葉使いが乱暴なのではじめは面食らいましたが、私が礼を述べた時に照れてらっしゃったでしょう? 礼を言われて困った様子だったのが、本当に良い方なのだな、と感じました」

「あれは、照れていたのか?」


子供も少女の居心地の悪そうな様子には気付いていた。ただ、どうしてあんな顔をするのかまではわからなかった。


「おや、お気づきになりませんでした?」


まだまだですねぇ、とでも言いたげな顔の有平に、子供が不貞腐れる。


「すみません、少し意地悪が過ぎましたね」


ふふ、と有平が穏やかに笑う。こんな小さなやりとりが酷く懐かしく感じる。子供の沈んでいた気分も少しだけ明るくなった。


「さて、いち姫様にぴったりの着物を誂えないといけませんね。何色が良いですか?」


機嫌の良い有平は鼻歌でも歌いだしそうだ。子供は少女に似合う色を考えて、黙り込んだ。




 しばらく前に間借りしていた小屋に足を踏み入れた。中心に岩がある以外は相変わらずがらんとしている。森の木々は随分と色を変え、紅葉の盛りを過ぎた今は朽ちた葉の方が目につく。小屋の中にも乾いて落ちた葉がいくつか吹きこんでいた。


「有平は私を探しに来た時、どうやっていち姫に会ったんだ?」


 隣りの有平に子供が尋ねる。約束の着物を届けに来た。しかし日にちを指定した訳でも連絡手段がある訳でもない。こうして訪ねてはみたものの、やはり小屋には少女どころか、人が生活している形跡さえ無い。


「あの時は、森に入って途方に暮れていたら、いち姫様の方から来て下さいました」

「そうか」


訊いてはみたものの、役に立ちそうな情報では無い。闇雲に森を探したところで一人の少女を見つけられるとも思えない。となれば、やはりここで待つのが一番だ。これは長期戦になりそうだ。子供が肩を落としたところで小屋の入口に影が差した。


「なんだ、本当に来たのか」


小屋に涼やかな声が響く。


「いち姫!」

「いち姫様!」


あまりにも信じられない偶然に子供と有平の声が重なる。


「久しぶりだな、翠。それと有平と言ったか?」


驚く二人を気にした風もなく少女が小屋へ入ってくる。子供がひとつ息を飲んだ。


「あの、どうして私達がいる事がわかったのですか?」

「どうしてと言われても、この森は己の一部のようなものだからな」


少女があっさりと答える。いまいち腑に落ちないが、当然だろう、とでも言いたげな態度に、普段から森で暮らす人間にはそういうものなのだろうか、と子供は無理矢理に納得した。そもそも今回の目的は着物を渡す事だ。会えた事は素直に嬉しい。


「いち姫。約束の物を持ってきました」

「別に守らなくても良かったのに。律儀だな」


 子供が有平に視線を流すと、有平は両手で持っていた布の包みを開けた。中は漆黒を金の撫子が華やかに飾った蒔絵の箱だ。蓋を開けると、中には山吹色の着物が収まっていた。蒔絵と同じ撫子の柄が美しい。貴族とはほど遠い生活をしている少女にさえ、それが相当に高価なものだと知れる。


「これ、本当に貰っていいのか?」


恐る恐る視線を向けた少女に、子供が頷く。


「貴方の為に作らせたのですから、貴方に着ていただかなくては」

「……そうか、ありがとう」


少女が着物に触れる。小さな生き物を慈しむような手つきで布を撫で、少女は笑みを浮かべた。子供だけでなく、有平でさえ見惚れる程の柔らかい表情だ。それはどこか幸せな色をしている。


「いち姫」


 少女は子供の呼びかけに顔を上げた。しかし見つめ合ったまま続きを切り出さない子供に少女が首を傾げる。子供がごくりと喉を鳴らした。


「あ、あの、いち姫。私の屋敷に来ませんか?」

「お前の家に行くのか? 何をしに?」

「いえ、えっと、そうではなく。あの、私と夫婦めおとになっていただけませんか?」


子供はもうこれ以上赤くはなれないだろう、というくらい耳まで真っ赤にしている。少女は驚いた様子で目を瞬いた。


「お前、来る途中に頭でも打ったのか?」


少女の手が確かめるように子供の頭に伸びる。子供はぶんぶんと頭を振ってその手を拒んだ。


「真面目に言っているんです」

「それなら、なおさら可笑しいだろう。気でも狂ったか?」

「狂気に見えますか?」

「……見えないな」


少し考える素振りで少女が呟く。その少女の顰めた眉に子供の勢いが落ちる。


「やはり、駄目でしょうか?」

「そうだな。悪いが、お前と夫婦になる事は出来ない」

「私の事がお嫌いですか?」


落胆した顔で子供が問いかける。少しの沈黙の後、少女は短い息を吐いた。


「いいや、お前の事は気に入っているよ」

「では、他に誰か心に決めた方がいらっしゃるのですか?」

「そういう訳ではないが」


ぱっと子供の顔が明るくなる。そのあまりにも分かりやすい態度に少女が苦笑した。


「おい、有平。こんな上等な着物を用意できるような家の子供が、どこの馬の骨とも知れぬ小娘と一緒になれるはずなかろう。お前も反対しろ」


 少女は子供を説得するのは諦めたのか有平に話を振った。一連のやり取りを静観していた有平は少しだけ困ったように笑う。


「私の主は翠寿丸様ですから、その意向に背く事は出来ません。申し訳ありません」


頭を下げた有平に少女の顔がほんの少し焦りに歪む。


「主人の暴走を止めるのも、下の者の役目だろう?」


やや言葉尻のきつくなった少女に、有平が顔を上げた。そこには人の悪い笑みが浮かんでいる。


「貴方の元から去った後、主はずっと上の空で魂が抜けたようでしたよ。本当に貴方にもお見せしたい」


くすくす笑う有平を、子供が真っ赤な顔で睨みつける。


「主がこんなに恋焦がれているのに私が反対をするのは野暮と申しましょう。けれどそれが実現すれば翠寿丸様も、それからいち姫様も、きっとたくさんの苦労をするでしょう。父上を説き伏せるのに加え、なんせ噂好きの貴族の方々に自ら話の種を撒くのです。それだけはお心にお留め置きくださいね」


有平は一応主人に苦言を呈す気は有るのか、話の後半は子供に向けて言った。子供も自分と少女が婚姻を結ぶ事が、どういう事態を引き起こすのか想像出来ないほど幼くは無い。思うところが有るのか子供は口を引き結んで黙った。


「そのお覚悟が無いのなら、いち姫様にご迷惑なだけです。おやめなさい」


すっと笑みを消した有平に子供が息を飲む。


「簡単ではないのは、わかっている。でも諦めたくないんだ」


 少しの間、有平を見つめていた子供は絞り出すように言った。その視線に、有平の頬が緩む。


「翠寿丸様が己から何かを欲しいと言ったのは初めてですね。貴方は望む前に全て与えられていました。それはとても幸福でそしてとても不幸な事です」

「有平?」

「貴方が、本当に望むなら私はこれ以上何も言いません」

「絶対にいち姫を守るよ。約束する」


子供の決意を込めた瞳に有平が頷く。


「それならば私も、全力を持って貴方がたの事をお守り致しましょう」


穏やかに微笑む有平に子供が嬉しそうに笑う。対照的に少女は苦い顔をした。その少女を有平がほんの少し申し訳なさそうに見る。


「私は翠寿丸様には甘いのです、すみません」

「お前、実直そうだと思ったが、実は結構イイ性格してるのか?」

「そのお言葉、否定は出来ないですね」


口を尖らせた少女を、有平は笑って受け流す。どうやら逃げ場がなくなったと気付いた少女が眉を寄せた。それに気付いた子供が少女の右手をとる。


「私はまだ婚姻出来る年齢に達していませんし、成人もしていません。貴方にとってはただの子供かもしれませんが、しかし貴方を妻に迎えたい気持ちに偽りはありません。それだけは信じてください」


語りかける子供を少女はじっと見つめる。しばらくの沈黙の後、少女が長い溜め息をついた。


「翠、お前が成人するのはいつなんだ?」

「まだ決まっていませんが、あと二、三年だと思います」

「ならば、成人してからまた来い。そんな恋心など忘れてしまって構わないが、もしその時まで同じ事を言っていられるのならば本当の事を教えてやる」

「本当の事、とは?」

「それは今は教えられない。どうだ?」


 真剣な少女の眼差しに子供が息を飲む。少女の瞳に揺らぎは無い。これ以上食い下がっても答えは無いだろう。そう悟った子供が了承の意を伝えると、少女は目元を緩めて微笑んだ。

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