第31話 去にし辺 明日への祈り -2
子供が目覚めてから、一つ目の晩は遠くで雷鳴が響き、二つ目の晩は弱い雨が降った。三日目の晩は雲ひとつない晴天で美しい星が煌めいた。四日目の晩は月の大きい夜で、森の中とはいえ辺りが見通せる程に明るかった。子供が外に出て空を眺めていると、がさり、と茂みが震えた。肉食の獣かもしれない。慌てて振り返ると、木々の隙間の暗闇から姿を現したのは件の少女だった。
「なんだ、まだ起きていたのか?」
少女が目を丸くする。しかしそれ以上に驚いたのは子供の方だった。
「貴方こそ、こんな夜に森を歩いているのですか?」
子供が小屋にいる間、少女は何処かへ行っていた。時々、ツワブキの葉や食料を持ってふらりと現れる。傷の手当てや食事中の短い会話で分かったのは、少女がこの森に住んでいる事、あとは一番近くの村でもここから歩いて一日以上掛かる事だった。
以前は近くに小さな村があったが、流行病で村人が死に絶えたというのは少女の話だ。彼女は必要最低限しか口を開かない。もっとたくさん訊きたい事はあったが少女の気分を害するのを恐れ、子供も口が重くなっていた。
「慣れている。問題ない」
事もなげに少女は言うが、自分と供の者を襲った賊がいるような森だ。少女が独りで出歩いて安全な筈は無い。そんな子供の思いを知ってか知らずか、少女は薄い笑みを引いた。月の蒼に彩られた姿は、御簾の奥に隠れた深窓の姫より白く美しい。戦慄にも似た何かが背筋を駆けあがり、子供は息を飲んだ。
少女が子供の隣りに腰を下ろす。戸惑っていると、座らないのか、と少女が不思議そうに言った。
「眠れないのなら、話でもしよう」
だぶついた着物の裾をさばき、子供が座る。少女は空を見つめたまま黙っている。しばらくそんな少女の横顔を見つめていたが、話そう、と言ったわりにいつまでもつづく沈黙に、結局子供から口を開いた。
「あの、怪我は良くなったので、明日供の者のところへ連れて行ってはもらえませんか?」
「それは構わないが。本当に行くのか?」
少女がこちらを向く。至近距離で射抜かれた瞳に背筋が跳ねる。
「や、やはりご迷惑でしょうか?」
「いいや、問題ない」
束の間思案して、少女が首を振る。気を悪くした様子は無い。そのまま話は途切れ、また沈黙が落ちる。葉擦れの音や遠く獣の声だけがやけに大きく聞こえる。少女は先ほど視線を合わせてから、じっと子供を見ていた。思考の読めぬ整った顔に見つめられて子供の心臓は早鐘を打っている。蛇に見込まれた蛙よろしく停止していると、少女がふいと視線を逸らせた。
何か気に障る事をしただろうか。視線が外れれば外れるで気にかかる。忙しない心臓を着物の上から押さえ、子供は深く息を吐いた。
「あの、お名前を教えていただけませんか?」
これもずっと訊こうと思っていた事だ。しかし少女と共にする時間はそう多くなかったし、お互いしかいない空間では名を呼ぶ必要も無かった。
「私は
子供の声に再び視線を寄せた少女は戸惑うように眉を寄せた。何か不味い事を言ったかと子供が青くなっていると少し間をおいて返答があった。
「いち、だ」
「いち、様ですか?」
少女が頷く。
「ありがとうございます。では、いち姫、ですね」
名を教えてもらった喜びに子供の頬が緩む。
「いち、ひめ?」
はじめ困ったような顔をしていた少女は、一度自分の名を復唱して、それから子供につられたのか笑みを作った。どうやら気に入って貰えた事を知る。少女の内から出るようなその淡い微笑みに子供が頬を染めていると、少女はその場で横になった。
「今夜は月が明るいな」
仰向けに寝転んだ少女が呟く。子供が見下ろすと、目が合った。普段は表情の無い少女が、今夜は良く笑う。さらに顔に熱が集まって、子供は月を見る振りをして顔を逸らせた。
心臓は相変わらず早鐘を打っている。身内と使用人以外の女性と夜中に二人きりになるのは初めてだ。夜に女性と何をするのか、は作法見習いの仲間たちとの噂で聴いている。自分から何かをする気は毛頭無いが心は落ち着かない。
そんな子供の胸中とは裏腹に少女は大きな目で見上げてくる。身動ぎした拍子に少女の膝丈の着物の裾が緩む。そこから覗いた白い足をうっかり見てしまい子供は慌てて目を閉じた。
「あ、ああ、あの、この小屋は何を祀っているのですか?」
動揺を隠しきれないまま問いかける。衣擦れの音を聞いて目を開けると、少女は身を起こしていた。子供が胸を撫で下ろす。
改めて見た少女の顔は、月の光でもはっきりと分かるほどに表情が消えていた。いつもの無表情とは違う。微かに寄った眉が何かに耐えている様にも見えた。
「あ、の……」
どうやら自分はまた失言をしたようだ。それも深刻なところに触れたらしい。どうにか話を逸らしたいが、上手く言葉が出てこない。
「以前、この近くに村があった話はしたな」
青くなる子供をよそに、少女は一度子供の顔を見る。それから静かに話しだした。
「村が無くなったのが十数年前。正確な月日はわからないが」
少女が言うのは、この近くにあったが流行病で途絶えた、という村の事だろう。
「その村が無くなるもっともっと昔、このあたり一帯に大干ばつがあってな。水不足に喘いだ村人は、村の巫女をひとりこの森の主に差し出した。その後にたった一日で土地を潤す程の大嵐が来た。その嵐で森にも村にも大きな被害が出たんだ。その結果、村人は森の主を畏怖して祠を作った。それが、この小屋だ。それ以来、村人に守られてきたが、村が無くなってからは朽ちる一方だ」
どこか懐かしむような不思議な顔をして少女が目を細める。
「あの、そのような偉大な神様がいらっしゃる所に私のようなものが間借りしていて平気なのですか?」
何日もこの場を宿にしておいて今更だが、不安になって尋ねる。人も森もなぎ倒すような大嵐を起こす神が住んでいるのであれば祟られても可笑しくは無い。慄いた子供に、少女は目を丸くして、それから火がついたように笑いだした。あははは、と声に出して笑うという今までにない様子だ。しまいには目尻に浮かんだ涙を袖で拭っている。
そんなに可笑しい事を言ったつもりのない子供は訳が解らず、しかし笑われているという事実に羞恥で顔を染めた。
「いや、悪い」
子供の様子に気付いたのか、少女が笑いの残る声で謝罪した。ふ、と息を落ち着けて少女が真顔に戻る。ただ、先ほどのどこか陰鬱な雰囲気は消えていた。
「心配しなくとも、この森に神など居ない」
「そうなのですか?」
「ああ、何年もこの森で過ごしているが一度も見た事は無いぞ」
それが「神がいない」という証明になるのかは疑問だが、それでも不思議と安心はできた。子供が頷くと、少女が立ちあがる。
「明日、お前が襲われた場所へ行くなら今日はもう休むぞ」
くぁ、と欠伸を噛み殺して少女は朽ちた小屋へと入っていく。どうやら社の中で寝るらしい。隣に少女の息遣いを感じたまま眠れる自信は無く、子供は一晩中起きている覚悟を決めた。
子供の目が覚めたのはすっかり日が上ってからだった。眠らない覚悟を決めたはずが、眠れなかったのは最初だけだった。すでに隣に少女の姿は無い。少女が小屋から出ていった事にさえ気付かない程熟睡していたのだ。それはそれで情けない。子供が落ち込んでいると、小屋の入口から少女が顔を出した。
「起きたか」
その手には、橙色の小さな果物が収まっている。朝食だ、と差し出されたそれを受け取って子供は礼を言った。
小屋を出たのは朝食の後すぐだった。少女の案内で森を進む。少女は「慣れている」というだけあって、もう長いこと歩いているのに息ひとつ乱していない。子供の方はというと軽く息が上がり、疲れも出ていた。足にはすでに切り傷擦り傷が無数に出来ている。
「もうすぐお前が襲われた場所につく。本当に行くんだな?」
立ち止まった少女が振り向いた。言われた問いに、子供が首を傾げる。ここまで来て、本当に行くも何もない。少女の意図が分からないまま首を縦に振る。そうか、と短く声にだして、少女はまた歩き出した。
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