月夜の霞に梟鳴きて
藤橋峰妙
月がふわりと漂う白絹の霞に包まれ
月がふわりと漂う白絹の霞に包まれ、薄らとした光を放つ。
夜空に
月は遥か昔のさらにそのまた昔から、この地に二つ存在していた。日の入りから二つ共に浮かび上がり、日の出より隠れようと姿を潜め、地平線へと沈みゆく。まるで双子のように、はたまた夫婦のように。何百何千の時を別たれることなく、二つの月はこの地上の暗闇を照らしていた。
二つの月が浮かぶ、静まり返ったその寒空の下。
アリシアは人気のない深夜の公園のベンチに座り、並んだ二つの満月を見比べていた。
近頃、不可解な事件の起きているファルカタルの都、《
見上げた月は、日ごと地上へと近づいていたが、満月の今日が一番大きくなっていた。片方は
「あんなに大きかったっけ」
見上げたまま無意識に零れ落ちた感想に、一拍を置いて、青年の声が返ってくる。
『――ン、今なんか言いました?』
「あんなに大きかったっけ。って言った」
『え、何ですか突然』
伝達系術式を組み込んだ魔法道具が、片耳へと音を運ぶ。
ちらりと視線を上げると、遠くの建物の屋根の上に立つ青年を見つけた。闇夜に溶けてしまいそうな黒髪と羽織ったローブが、月を背に柔く
ほんの数秒、遠く離れた互いの視線が絡まったような気がして、アリシアはふいと視線を外すと、また月を見上げた。
それを、相手も感じ取る。魔法道具が息を拾う。
『月? わ、ほんとだ。今夜はなんか……、もう落ちてきそうですね。落ちたらどうなると思います?』
『落ちるという言葉は当てはまらないだろう。それを言うなら衝突だ』
青年――ノアがアリシアに問いかけると、別の声が流れた。
ノアよりも一回り以上低い、グレンの真面目な声音だ。どうやらアリシアのたわいない呟きは、全術式回線に流れていたらしい。その後に続くように、今度はロイが冷やかしの声を上げた。
『ははっ、ロマンがない。そんなんだから奥さんに逃げられるんですよ』
『……お前には関係ない』
『あははは、落ちたらみんなグッチャだよ。それはそれで楽しみだなァ。あぁ、どんなだろう! 地面も人も動物も魔法使いもみーんな逃げられなくて、爆ぜて、押しつぶされて……。スピードはどのくらい? 固いのかな? それとも苦しい? 綺麗かな?』
それを眺めたらどんな気分になるかな。
普段どおり。頭のねじが数本抜けた勢いで、また別の声が――リノクが喋り始めた。リノクの口は開いたら最後、自由奔放に回り続ける。だからその声に被せるように、『あー、相変らずぶっとんでんなぁー』とロイが呆れたように反応を返した。その声には辟易とした苦さが滲んでいる。
リノクはそれすらも無視し、やれ地面はどのくらいへこむのか、熱いのか、寒いのか、とどまることの無い感想と疑問を次々と口に出していた、が。
『全員、任務中です。お口はチャック。次に余計なことを喋った人は、僕と一緒にカルムの谷へ行きましょうか』
一拍。
間を置いて聞こえてきた男の声には、落ち着いているにもかかわらず、恐ろしいほど凄みがあった。
リーダーのイーサンの声であることは間違いない。それには流石のリノクもいったん言葉を句切った――、が。
『ヒェッ、あの千年燃え続けてる
静かにしろと言われているのに、空気を読めないルーカスが案の定反応した。この班に来たばかりの新人たちに、アリシアは小さくため息を吐き出した。イーサンを怒らせて良いことなど、一つも無いというのに。
けれどもそれにふざけたミラーナ――ルーカスのひとつ前に来た魔法使い――が乗っかって、『あっは。笑える、あんた谷底行き決定ね!』と他人事のみたく軽快に笑い飛ばし、『クク、あそこは温泉みたいなところだよ。ちょっと皮膚が赤くなって、喉が焼けるくらいさ』と、リノクが笑いと皮肉を含んだ調子で楽しげに言った。
アリシアはもう一度、長めに、息を吐き出した。若い魔法使いたちは、どうやら命知らずらしい。
『――ルーカス、ミラーナ、リノク』
イーサンがゆっくりと名前を呼ぶ。その口調に、耳元の温度が二度三度ほど下がった。『ヒッ』と、ルーカスの悲鳴が聞こえた。一番震えあがっているのは新人のルーカスと揶揄ったミラーナだろう。『ボクは行きたいな、谷』と、悠然と返すリノクには全く効いていなさそうだが。
アリシアは彼らの軽口をいつも通り聞き流しながら、ただぼうっと二つの満月を眺めていた。
――落ちてきたらどうなるか。
ノアのくだらない質問に付き合ってやる気分でもなかった。
強いて言うならば、アリシアの答えは「きっと死ぬだろうな」、くらいである。そこにロイの言う浪漫とやらも何もない。
月に綺麗だと思いを寄せることさえ、もはやアリシアの中には存在していなかった。長い間変わらずに存在し続けているのはアリシアだって同じ。今更その存在がどうなろうとしても、からっきし心は動かなかった。
落ちてくるのならば、いっそのこと、ここまで落ちて来い。そうすればすべてが終わる――。
ほんの数分の間、呼吸すら通さずにいた耳元が震えた。
『西口一人通過。深緑のマント、黒の帽子、茶のケース所持。あれ、やっぱり魔法使いだな』
『南側、確認。目撃情報と違いますね』
『姿を変えているかもしれないわ』
『それか認識阻害系』
夜風を思わせるよう。静かなライアンの声が聞こえる。報告に続いて聞こえてきた若い魔法使いトリオの声に、「接触待ちます」と言ってアリシアは顎を引き、首元に巻くマフラーに口元を隠した。
最初の事件は一か月前。場所は《
彼女は翌日の営業のために仕込みをし、共に店じまいを行った従業員と別れた後、姿を消した。それだけであれば単なる行方不明事件になるはずで、夜逃げか、駆け落ちか、少しすれば戻ってくるかもしれないと、様々な憶測が飛び交った。
四日後、彼女は帰って来た。
それを見つけたのは、彼女の夫だった。妻を心配して眠れぬ夜を過ごしていた夫は、外から聞こえてくる物音で目を覚ました。玄関を開けようとすれば、戸口に何かが引っかかっていた。仕方なく彼は裏口から玄関に回り、そこで彼女の姿を見つけた。
玄関の扉に寄りかかっていたのは、小さな人形だった。
幼い子供が好みそうな、精巧なビスクドール。白く円やかな肌に、きらびやかなドレスを纏った人形は、ガラス玉の美しい茶色の瞳と小麦色の髪をしていた。
帰ってこない妻に良く似た人形の姿に、慰めか、あざけりか、誰かが置いていったのかと夫はため息を吐き出し、その人形を持ち上げようとした。――が、それは叶わなかった。人形は人ひとりを持ち上げているかのように重たかったからだ。
結論から言えば、人形は女だった。女は街にいた魔法使いによって元の姿へと戻されたものの、ほどなくして亡くなった。
その四日後、行方不明になった十七歳の若い娘が、同じように美しいドレス姿の人形となって家の戸口に座っていた。一週間後には三人目。黒いタキシード姿となった三十二歳の郵便配達員の男性。二週間後には十二歳の少年が、この奇怪な事件の被害者となった。いずれも被害者全員が、その後、意識を取り戻さずに息を引き取っている。
これは、ただの人間ができる所業ではない。犯人は魔法使いであると誰もが分かっていた。
――《
それは、人間のようで、人間に非ざる存在。《
世の中には、良い魔法使いも、悪い魔法使いもいる。
人間にとってすれば、圧倒的な力を有する魔法使いの存在こそ恐ろしいものでしかない。良い魔法使いが百人いたとして、そのうちの一人が悪い魔法使いであるとしたら、人間が魔法使いに抱く心証も悪くなるだろう。そこには善悪の猶予など無きに等しく、全ての物事はたった一つの事実に括られて決定される。
魔法省魔法管理局 魔法犯罪取締部 「特殊魔法犯罪広域対策室第1班『梟』」。
アリシアは、彼らは、「悪い魔法使い」を捕らえる『梟の魔法使い』。
人間と魔法使いのために定められた規則を踏みにじった魔法使いを捕らえ、このファルカタで起こる魔法に関した問題を解決し、国の秩序を維持するための装置。――それが、彼らが担う役割だ。
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