30:酒の力
「はい。ご注文を承ります」
「ジンジャーエールと、とりあえず生で!あとはー、食べ物なんにするんでしたっけ!春センパーイ!」
「香椎花、ちょっとうるさい」
「しーっすね!」
「もう、それはいいから!」
香椎花の「しーっ」と言うジェスチャーに、春が少し照れたようにメニューに目を落とす。
そんな春を香椎花は隣でケラケラと笑っている。
「えっと、食べ物は……」
「めっちゃうまそうっすねー!」
この明るさも、ある程度は地だろうが上乗せして計算による明るさも勿論あるのだろう。
自分は未成年故飲まない前提で、かつ先輩に気を使わせずに飲めるような空気を自然と作っている。
多少強引ではあるが、自分のキャラでは許される事を分かってやっているし、確かに許せるキャラである。常時高いテンションと、カラカラと天真爛漫な笑いは、どちらにせよ上司からしてみれば自分と居て楽しんでくれているという事が分かりやす過ぎる程に伝わって、なかなか気分がいいだろう。
「はい、では少々お待ち下さい」
宮野は二人から注文を聞き終えると、何やら仕事の話で盛り上がり始めた二人を横目にカウンターをくるくると動き始めた。
手際良く酒を注ぎ、ソフトドリンクを注ぎ。
背後から聞こえてくる何やら懐かしい固有名詞に耳を傾けながら、自分のサラリーマン時代を振り返ったりしていた。
そして、ただただ俯瞰した目線でしか関係性を見る事のできなくなった自分に一抹の寂しさを感じた。
(3年前までは、俺も確かにあそこに居たんだよな)
会社の歯車として働く事に精を出していた日々。夢への道半ばの、たかが通り道に過ぎなかったそこに、宮野は今更ながら妙な郷愁と哀愁を覚えた。
夢の実現と共に置いて来たものが、そこにはある。
「部長マジ勘弁っすよー。もう一発でぴしゃり言ってくれればいいのにー」
「まぁ、俺も確かに入ったばっかりの頃は思ってたなぁ」
「でっしょー!?こないだなんて俺の持ってった書類見てチラ見してー『ちょっと待ちたまえ』とか言ってきて!こっちはもうタイムカード切ってんのに!」
「あはは、俺あの時外で待ってたけど全然来ないから先に帰ったよ」
二人してケラケラ笑い始め、春は早くも二杯目をおかわりした。
スイスイ進む酒と楽しそうな横顔に、宮野は今日はもしかしたらこのまま飲み食いして終わるのかもなと思った。
上司部下という関係のベースもなかなか緩い様子だったが、こうして笑って話しているのを見るといくら春が老け顔だとしても友達同士にようにも見えてくるから不思議だ。
「ねー、ハル先輩―。先輩は今彼女とか居ないんすかー?」
「んー、俺はモテないからねぇ」
「好きな人も居ないんすかー?」
「今は、うん……居ないね」
「彼女欲しいとか思わないんすかー?」
「どーだろ」
宮野の出した料理に手をつけながら、二人の話は右往左往しながらダラダラと続いて行く。
スイスイと酒を飲む春は今はワインを呑んでいる。序盤だが、なかなかペースが早い。それに、結構ちゃんぽんしまくった飲み方で宮野は若干酒を用意しながら眉を潜めた。
けれど、見るからに春はいつもと変わらぬ様子で、顔が赤いとか、呂律が回らないと言った様子もみられない。
7時30分を過ぎたあたりから店にもちらほら客が増え始め、宮野も二人にばかり気をかける事ができなくなっていった。
ただ、どこへ居ても香椎花の声はある程度聞こえてくる。
「俺はー、今の彼女ちょー一筋っすからー。こないだ誕生日特別エッチしてきましたー!」
などという、かなりどうでも良い話も丸聞こえだ。
飲みの場故、まぁ、特段変な話でもないのだが。
他の常連客と話しながらチラリと横目に春を見て見れば、ニコニコといつもの笑みを浮かべている。
「すみませーん!マスター!いえーい!」
すると、宮野はまたしても香椎花に元気よく呼び出された。
いつの間にか呼び方が“マスター”なんてものになっている。
「はい」と、宮野がカウンターへ向かうと、そこには空のワイングラスがあった。
「宮野さん、次何飲みます?」
「んー、そうだねぇ」
宮野はメニューに目を落としながら「んー」と唸る春に、やっと小さな変化を見つけた。
「先輩、けっこうペース早いっすけど、水とか飲んどきますかー?それともまた何か―」
「ウイスキーのロックで」
「おおー。ハル先輩やっぱ強いんじゃないっすかー」
「どうかなー」
「んじゃ、俺はウーロン茶で」
「そう」
顔は赤くない。呂律も十分回っている。
ただ、今の春は非常に返事が短い。
宮野はカウンターで酒を注ぎながらハッキリと分かった。
春がすこぶる酔っぱらっていると。
(おいおいおい。大丈夫なのか?春日)
見た目には殆ど現れていない春の変化だったが、いざ一つが目に付くと春は完全にいつもと違っていた。
返事が短いし、最初に渡したおしぼりで常に手遊びをしている。
ダルそうに肘をつき頬づえをついている。目は話す香椎花ではない、どこか遠くを見ている。
酔っているからしているのか、普段通りなのか。ハッキリ言って他者から見たら分かりはしないだろう。
が、宮野には分かった。
春日 春は心底酔っぱらっていると。
きっともう酒の味など分かっていないのだろう。
だからワインやウイスキーなどの見慣れない味のものをスイスイと飲む。
春は和やかに笑いながらも緊張していたのだ。
いつどこでどう言ったタイミングで、この新人に例の件を話すのか。
そんな事ばかり考えて、緊張の余りアルコールを過剰摂取し、途中から酔っぱらい当初の目的の事は最早頭の片隅にすら残っていないのかもしれない。
(この、バカたれが)
宮野はロックと言われていたウイスキーのグラスに水を注ぐと、意外と堅実な注文ばかりをする香椎花のウーロン茶を冷蔵庫から取り出した。
その間も二人のダラダラとした会話は続く。
「春センパイ、このままずーっと彼女できなかったらどーするんすか!」
「んー?そうだねー。どうしよっか」
「ずっと一人ぼっちチョーさみしーっしょ」
「そしたら、俺は猫、飼うよ」
「猫?」
「そー。このまま30代突入しても独身で、寂しくなったら猫飼う」
「えー!それもう終わりのパターンっしょ!春センパーイ!」
背中を向けていても分かる程のニコニコした顔で話しているであろう、春の声。
その頭の中にはきっと、最近猫を飼い始めたという太宰府とその猫の事が綺麗に浮かんでいるに違いない。
春にとって、太宰府という男は憧れの存在のようであった。
仕事も出来て、容姿も整っており、仕事も出来る。
『太宰府さん、凄いですねー!』
春にとって太宰府互譲という男は、その一言につきる。
独身でバリバリ仕事をこなす太宰府の姿は、春にとっては未来のなりたい自分の姿の一端でもあるのだろう。
(夢みてんねぇ。アイツに)
春は太宰府が猫に日々癒されていると思っているようだが、実際はそうではない。
太宰府は猫の事を、春を呼び込む為の餌程度の認識で考えている。
その証拠に春は太宰府の猫の名前を「クロ」だと思い込んでいるが、あの猫の本当の名前は「クロ」ではない。
太宰府の妹はあの黒猫に「ルービックキューブ」という、なんともヘンテコな名前をつけていたのだ。
それを太宰府が「長げぇ、ダリィ」と勝手に改名したのだった。
『俺も太宰府さんみたいに仕事を頑張ってこなして、いつかもう少し余裕が持てたら猫を飼いたいなー。太宰府さんみたいに』
そう、太宰府さんみたいになりたいのだ。春は。
ほんの2年前までは宮野の部下で、いつも宮野の後ろをついて回っていたのに、今や掌を返したように「太宰府さん、太宰府さん」。
宮野自身がそう仕向けた事とは言え、春のあの太宰府への憧憬は見ていて分かりやすくジェラシーを覚えてしまう。
しかも当の太宰府はそんな澄んだ綺麗な気持を春へ向けているわけではない。
(この、バカたれが)
「終わりじゃないよー。俺はねー、猫を飼って休みの日は猫を撫でながらのんびり暮らすんだー。いいなー」
のんびりのほほん。もう春とは言えない季節になりつつあるが、春の周りはいつも春の雰囲気を纏っている。
宮野は「はぁっ」と小さく溜息をつくと、ウーロン茶とウイスキーに見せかけの水をカウンターへ運ぶ。
「いいなーじゃないっすよ!春センパイ!ダメっすよ!それじゃダメ!」
「えー?何がダメ?いいじゃん猫とゴロゴロしながら、一緒に昼寝したりするんだよ?」
「あははっ、もうヤメて下さいよ!何すかその見苦しい生活は!」
ヒヤリ。
次の瞬間、先程まで春の周りに漂っていた春の陽気が一気に消え去った。
消え去ったのを、飲み物を手にしていた宮野はその肌でハッキリと感じた。
「っぁ」
それは隣に居た香椎花も敏感に感じ取ったようで、カウンターの二人の空間は一気に氷点下まで下がった。
宮野は改めて確信した。
そして、もう少し早目にこの手にある水を、手渡しておくべきだったと痛感した。
春日 春は完ぺきに酔っていた。
否、酒の力を、借りていた。
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