第52話 離合
初めにあったのは、沈黙だろう。
沈黙が振動したとき、疑念が生じた。
原因の究明と、主体の考察。
そこで、自己たる世界が生じた。
振動は力を生み、粒を生んだ。
力と粒から、万物が生じた。
やがて生命体が現れ、『手』という器官が生まれた。
だから。
手には、太古の記憶が宿る。
探究への衝動と、原初の沈黙。
この世を遍く掌握したいと欲し。
その本質ゆえ、無限を保たんと隠蔽する。
繋ぎ、放し。求め、隠す。
手と手とが。
距離を縮め広げながら。
螺旋のように、輪環してゆく。
◇
雨は、天と地を結ぶ橋だ。
天から地へと流れ、その境界を曖昧にして二つを繋ぐ。一体となった
その雨が、止んだ。
天地は、分かれた。
その分かれから、太陽が昇った。
勇者が日に向かって背を伸ばしていると、三女神の寝室たる荷馬車の扉が、静かに開くのが見えた。
従者だ。
白い絹のネグリジェの上に、紺色のカーディガンを羽織っている。
距離があった。
勇者は、唯、じっと見詰めた。
従者も直ぐに気付いた。
眼差しを、返してきた。
その顔は紅潮していた。
だが、その表情は憂いを帯び、その視線は直ぐに地へ落ちた。
身を守るかのように、その両手でその両肩を包んだ。
勇者は声を掛けようとした。しかし、思うように発せられなかった。
従者は再び勇者に向き、頷くように僅かに首を動かした。潤んだ瞳には様々な光が宿っているようだった。
直ぐに、視線は切れた。そしてそのまま、従者は扉の中へ姿を消した。
風が、勇者を取り巻いた。柔らかくも、重い。何かを告げているかのように、風は勇者に纏わりついた。
佇んではならぬと感じ、太陽に背を向けて勇者はその場を離れた。
「おう!勇者さん!」
肩に鉞を担いだベルグが、勇者に声を掛けてきた。勇者は救われたように微笑んだ。
「ベルグさん、おはよう」
「勇者さん。その『ベルグさん』は止めてくんねえか。落ち着かねえ。ベルグでいい」
「うん。僕も同じく、さん付けは無しで」
「そいつは駄目だ、ワルフに怒られる。でもまあ、互いにタメ口といこうぜ」
「わかった」
「よし。・・で、早速だがな、ちと手伝ってくれねえか?」
「いいよ、なに?」
「お前さんが穿った大穴な、池になったよ」
「え?」
激しく続いた大雨が、勇者の作ったクレーターを池に変えたらしい。
「道を開くより
ベルグは無邪気に笑うと、頭の手ぬぐいをガリガリと掻いた。勇者は頭を下げた。いや、自然と頭が下がった。
「・・ありがとう、ベルグ」
「ふん!さっさと行こうぜ!」
大きな筏に二台の馬車を乗せ、一行は池の上を進んだ。
遥か先に、二本の柱が見えた。
かつて、『ジェドの門』と呼ばれていたものだ。勇者が放った『
やがて筏は柱に達した。
巨大な柱だ。太く、高い。
その表面には、びっしりとルーラント文字が刻まれている。
筏はゆっくりと、二本の柱の間を滑るように進んだ。
かつては、この『ジェドの門』のすぐ北まで、古都アルシアは広がっていた。
『ジェドの門』はアルシアの南門として、かつ、オシリス神殿の『一の門』として、大いに威光を放っていた。
時は経ち、門は魔物が徘徊する森の中で朽ちゆき、蔦が絡まり苔生して鳥や動物たちの棲処となっていたが、今は真新しい柱だけが水面から突き抜けている。
勇者は、柱を凝視した。
―― やはり。
・・同じだ・・・ ――
ムサの洞窟の要石。ゾルディック橋の支柱。刻まれたルーラント文字に絡まる
いや。よく見るとその翳は、不思議な形状をしていた。・・まるで、ルーラント文字に絡みつく蛇のような。ルーラント文字の神聖を剥ぎ取り、地に貶して這い蹲らせようと企む異形の神のような。
筏は進む。柱は離れた。
しかし、その不可思議な翳は勇者の脳裏に焼き付き、離れようとはしなかった。
一行は、昼過ぎにアルシアの門を潜った。古都を囲う石壁は所々崩れていたが、その姿は格調高い。
かつてアルシアは、オンパルス王国の首都だった。魔軍に攻められ陥落したのだ。
魔軍が迫るなか、当時の国王ら要人は事前に南西のイシス神殿へと走った。
勇者とギルドの冒険者たちは、都城に立て籠もり応戦した。
魔軍は都城を完全に包囲し、七日七晩攻め続けた。昼は黒煙で暗くなり、夜は炎で照らされて、地獄の光景だったという。
八日目、鋼の城門も遂には破られ、都城は陥落した。
・・この話には、続きがある。
門が焼け落ちる時、門の後ろに陣を敷いた勇者らは、炎の中から飛び出し魔軍の前衛に斬り込んだ。ときに自らを盾とし、ときに自らを鏃としながら、分厚い敵陣を切り裂き血路を開いた。脱出できたのは勇者を含めて三十三名。彼らはそのまま南下して、今度はオシリス神殿に立て籠もった。魔軍は直ぐにオシリス神殿へと迫った。寡兵とはいえ、勇者を含む歴戦の猛者達を無視出来なかった。勇者らはオシリス神殿の外と内とを駆け巡り、血の一滴までも使い果たして、全滅した。
時を得た国王らは、イシス神殿で軍の立て直しに成功した。魔軍は勇者らとの戦闘で激しく消耗し、混乱していた。王軍はその隙を突いて、魔軍の退路を断つべく動いた。
魔軍はオーラルの東、ピリグムの港から上陸していた。王軍はここを急襲し、敵の駐留兵を打ち破り、港に係留されていた魔軍の軍船を残らず焼き払った。
退路を断たれ、補給路を失った魔軍は、北へと走った。だがその北には、峻嶺なアルブルズ山脈が立ち塞がる。
険しい山路を進むなか、魔軍は後尾から削られていった。漸く山越えした先には、メンヒルとドルメンの軍が集結していた。疲労困憊した魔軍は、為す術もなく討たれ続けた。魔王は僅かな供回りを引き連れて、
その後。イシス神殿の北に王宮が築かれた為に、アルシアは首都の地位を失った。
そんな歴史を持つがため、以降、アルシアの人々は王家に対し冷淡だ。自分たちの先祖を見捨てた政府を、信用していない。半面、勇者やギルドの冒険者たちには非常に好意的である。他所では見られない、戦士に対する古の尊崇が残っている。
城門を潜る際、勇者は門兵に尋ねた。
・・やはり。
つまりあの大軍は、ジェドの門の南に突如湧き出すよう出現した、と推察できる。
ルーラント文字と、それに絡みつく
それが原因かどうかは不明だが、何らかの関係を持つことはまず間違いないだろう。
アストヘアの屋敷に到着した。高く堅牢な壁で囲まれた屋敷は、オーラルの屋敷に匹敵する広大さだ。従者が乗る馬車は、そのまま中庭へと引かれていった。結局、従者が姿を現すことはなかった。
休む暇なく勇者はギルドへ、ワルフは教会学会へ、ベルグは酒場へと散った。勇者は従者のことが気になって仕方がないが、今はアストヘアに任せるしかない。解らぬ悩みを抱えたときは、忙しく働くのが一番だ。まずは情報を獲る。知ることで、次なる自身の行動もまた知れよう。
アルシアのギルド本部は、都城の跡地に置かれている。都城が再建されなかったため、アルシアの民が私財を投げ出し、跡地にギルドの事務所を築いた。
崩れた石垣の上に建つ、木造の建物。決して豪奢とは云えないが、得も云えぬ威厳が漂う。時の流れとともに成長してきたことを現すように、増改築を繰り返してきた跡が窺える。
勇者が訪うと、白髪の老人が迎えてくれた。アルシアのギルドマスターだ。
「勇者様、ようこそお越し下さいました」
「マスター、ご無沙汰しております」
「いま、お茶を淹れますから。いや、勇者様は珈琲でしたな」
「ありがとうございます」
しばらくすると、なんとも心地よい芳香が漂ってきた。オーラルのガストン氏とも異なる、爽やかで透明感が際立つ香りだ。
ギルドマスターは、藍色の陶器に珈琲を注いだ。勇者は礼を言い、その琥珀色の液体をゆっくりと啜る。鼻腔と口腔から、様々な物質が取り込まれた。それらは特に脳内で作用し、或いは鎮静させ或いは活性させた。四方八方へと拡散していた流れが、穏やかに収斂されていく。
勇者が一息つくのを見計らって、ギルドマスターは口を開いた。
「まずは、
「ええ、そうして下さい。それより、ルーラント文字のことなんですが」
「ガストンさんから聞いております。ルーラント文字を事件と結び付けて考えたことなど無かったので、正直驚きました」
そう言うと、ギルドマスターは資料を取り出し調査内容を話してくれた。要約すると、以下のような内容だ。
アルシア周辺で、ルーラント文字が確認できる場所は四十七か所。神殿、寺院、公園、門、橋等。ルーラント文字は基本、人通りの多い公共施設に多い。
過去二十年の事件簿を紐解くと、この四十七か所の全てで失踪事件が発生していたことが分かった。件数は一箇所につき一件から三件、失踪数は一人か二人と決して大きくはないが、総件数の六割がルーラント文字の刻まれた付近で発生していたことが解った。
「・・失踪、ですか・・」
「はい。有名なのは二年前、街の東側のオシリス拝殿で起きました。衛士二人が、白昼忽然と姿を消したのです。『神隠し事件』と騒がれました」
「・・神隠し」
「はい」
「・・現れたのでなく、消えた」
「は?」
「いや。・・最近も、失踪事件は起こっていますか?」
「ここ数ヶ月は発生してません。・・最後に起こったのは十ヶ月前、ですね」
ギルドマスターは、事件簿を捲りながら答えた。勇者は頷き、尋ねた。
「・・ところで、そのルーラント文字には」
「はい。全てで翳を、確認しました」
取り巻く空気が、ぞくりと肌を濡らした。
やはり、ただならぬ事態が進行している。
もっとも、勇者の予想に反するところもあった。『出現』ではなく『失踪』。
・・事態は、より深刻なのだろうか。
勇者はギルドを辞し、待ち合わせ場所である酒場へと向かった。
「おーぅい!勇者さん!こっちだっ!」
「さあ、なに頼む?」
「えっと、珈琲」
「ああ?おい、ここは酒場だぜ?」
「酔っている暇はない。ねえベルグ、収穫は?」
「まあ、慌てなさんな。おーい姉さんっ!こっちにコーヒー!ブランデー、どぷどぷ入れてくんなっ!」
「ブランデーは無しでっ!」
「・・つれねえなぁ」
その時、扉を開きワルフが入ってきた。
「お待たせしました、勇者殿」
「僕も今、来たところです」
「ワルフ、ウィスキーでいいか?」
「頼む、ベルグ。勇者殿、なかなか興味深い話を聞くことができました」
「本当ですか!」
「教会学会の方は、口が固くて収穫無しですが、隣接する学会大学の方で。学生さんから話を聞けました」
「ワルフ、その学生さんって、女だな?」
「そんなこと、どうでもよいだろう」
「で、ワルフさん。お話とは?」
「ええ。ルーラント文字を研究課題にしている学生に、話が聞けまして。彼女は一年前から、アルシア近隣のルーラント文字を採集していたそうです」
「ほら!やっぱり女だっ!」
「ベルグ、黙れ。・・その学生が言うには、三ヶ月程前から、ルーラント文字に異変が生じ始めたそうです。最初は文字の周辺に、淡い染みのようなものが見えた。気の所為かと思ったが、だんだん濃くなっていき、
「三ヶ月前。・・僕がムサの洞窟で、要石に翳を認めたのと同じ時期だ。・・・」
「連絡先を教えてくれまして。翳のスケッチを何点か取ってあるそうです。借りて来ましょうか?」
「是非、頼みます!」
「ほらな。おっさんのくせして、妙にもてんだよな。学生さん相手に悪さすんなよ」
「ベルグ、表でるか?」
「お、怒るなって。・・呑み勝負?」
「断る。勇者殿、もう一つ。戦史を研究している院生の話なのですが」
「女、だな」
「偶々だ!偶々!・・俺はむしろ男子学生に声を掛けたんだ!しかし彼奴ら、目を逸らして通り過ぎるばかりなんだ!困って突っ立っていたら、幾人かの女学生さんが声を掛けてくれたんだよ!」
「だからそれっ!モテ自慢だろっ!」
「違うっ!」
「あの、ワルフさん。その院生のお話は?」
「あっ、・・そうでした。彼女、・・院生は、都城陥落戦を調べていて。特に数に注目して研究しているそうです。物資、軍船、員数、日数など。都城を包囲していた魔軍は、伝承では十万と云われていますが、実際のところは四万五千から四万六千。オシリス神殿戦の終結時は、魔軍は二万五千を割り込んでいたと云われていますが、これはかなり実数に近いと考えられるそうです。だとすると、オシリス神殿での戦いで、魔軍は二万程の軍兵を失ったことになります。この戦いは開始から終結まで、伝承では数日続いたなどと云われてますが、実際には長くても三時間弱になる計算だそうです。当時、魔軍には多数の魔導師がいたため、勇者側の魔法攻撃は不可能でした。
三時間の白兵戦で、三十三名がその六百倍を倒すには、冒険者一人あたり、一分ごとに三人以上の軍兵を倒さねばならない。しかも三時間継続して、です。
圧倒的に有利な追撃戦でも、魔法を使わなければ無茶な数です。ましてや、包囲されている側なのですから、まあ無理です。
だとすると。魔軍の損失二万と戦闘時間三時間が正しい限り、勇者側の『三十三人』が誤りということになる。でもこれは『アルシアの三十三士』、一人一人名前が明らかになっているので、間違えない。
ならば。戦闘ではなく、他の理由で魔軍の軍兵が喪失したと、考えるしかない。
その理由が解らないし、そもそも勇者たちの名誉を損ないかねないので、この解釈は発表し難いと、院生は話しておりました」
「・・ジェドの門・・」
「え?」
勇者はギルドマスターから聞いた話を二人に伝えた。
「・・我々の場合は『出現』でしたが、そのときは『失踪』だった、と」
ワルフが呟くと、ベルグが酒瓶を
「今度は、俺の番だな。昔の傭兵仲間に会ってさ。勇者さんに直接聞かせようと思ったんだが、野郎、明日は早駆けだって帰りやがった。なんでも
ベルグはそこまで話すと、また酒瓶を美味そうに呷った。
ワルフが指先でとんとんとテーブルを叩きながら、静かに言った。
「整理させて下さい。・・アルシアでは、ルーラント文字が彫られた場所で、以前から失踪事件が頻発している。失踪事件は、魔軍の北部でも発生していた。しかしその規模は、アルシアで確認されたものよりも、大きい。都城戦からオシリス神殿での戦い前後でも、魔軍の大量失踪が生じていた可能性がある。
アルシアで最後に確認された失踪事件は、十カ月前。北部では最近、失踪していた者が出現するという現象が起こっている。
学生が、ルーラント文字の異変に気付いたのは三ヶ月前。勇者殿も同時期に、ムサの洞窟の要石でルーラント文字の異変に気付いた。
・・未確認事項も整理しましょう。アルシア以外でも、ルーラント文字と失踪は、関連しているのか。
人間側と魔軍側とで、失踪規模に顕著な差異は認められるか。
失踪していた者の出現は、北部以外でも発生しているか。
ルーラント文字の異変の始まりは、各地で異なるのか、それとも同じか。その時期は、三ヶ月前か、それより前か。
ルーラント文字の異変は、失踪、出現に関連するのか。
・・こんなところでしょうか」
「ワルフさん、完璧です。すぐにでも、ギルドに確認しなきゃ」
「おいおい、働き過ぎだって!ワルフも飲みながら、ゴチャゴチャそんな話がよくできんなあ!」
「多少のアルコールは、頭を活性化してくれる気がする。だがお前は少し、飲み過ぎだ」
「頭のために、呑んでんじゃねえよ!そこに酒があるから呑む。それだけだろうが!・・ところで勇者さんよ。従者さんとは、うまくいってんのか?」
「うっ・・・その話は、いいよ・・・」
「な、なんだよ!どう見たって、うまくいってんだろ?おいっ、どうしたんだよっ!」
自分の言葉でテーブルに伏せてしまった勇者をみて、ベルグは慌てた。ワルフは手にしたグラスをぐっと呷ってから、言った。
「確かにベルグの言うとおり、働き過ぎかもしれませんね。今夜は、だらだらしますか。アストヘア様には、明朝ご報告すればよいでしょう」
「ワルフは相変わらず、姐さんには頭、上がんねえのな」
「なに?当たり前だろう!」
「へへ」
「何が言いたいっ!ベルグっ!」
「さーて、なんだろうね?」
「きっ、貴様っ!」
「おっと、表には出ねえぜ。酒場だからな、呑み勝負だよ」
「断るっ!」
「・・珈琲に少しだけ、ブランデーを貰おうかな・・」
伏せながら、力ない声で酒精を求めた勇者の背中を、ベルグが嬉しそうに叩いた。
「そうこなくっちゃ!勇者さん!男同士、楽しく飲もうぜ!ここはめしも美味いんだっ!おーい姉さんっ!こっちこっち!注文、がんがんいくぜーっ!」
(つづく)
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