ちっぽけな冒険譚①


 這い寄る手。

 白雪のような手が喉元まで、蛇のように近づいてくる。

 

「――っ」

 

 藻掻こうにも、胸元にのしかかる重みで身動きが取れない。

 じんわりと染み渡るのは、温かくも冷たい液体で。

 体を啄むのは大きな口で、服の上から食らおうとしてくる。


 手を動かそうとして――手が絡みついてくる。

 脚を動かそうとして――足が絡みついてくる。

 

 ――どうして、こうなった。


 エレは最大限の注意を払っていたつもりだった。

 武器は確かに身に着けていなかったが。

 それでも、奇襲は最も警戒していたのだ。



「エレ~……むにゃむにゃ」



「……………寝相が悪いってもんじゃないぞ、こいつ」



 エレの胸上でアレッタは、気持ちよさそうに寝ていた。 




      ◆◇◆




「それにしても、いい幌馬車だな」


 そう言いながら、エレは縁側で日向ぼっこをする子どものように馬車の後部から足を投げ出した。


「俺と出会った時は、こんな上等な幌は着いてなかった気がする」

 

「先日、買い替えたばかりなのですよ」


 焚火の前の岩に腰掛けている行商人ホーカーは、鉄色のコップを口まで運んで。


「色々と人脈が、増えましたので。いい機会だと思いまして」


 行商人の男――マルコが温めていた白湯を飲むと同時に、エレも横に置いていた同じ色のコップを口に運んだ。

 そして、ほぅ、と空中に白い息を立ち昇らせた。




 すっかり寒くなった今日は、最西の《海蜥蜴の尻尾》を出立してから何日経ったかを数えるのを丁度忘れた日だ。

 今日の朝までは覚えていたつもりだが、もう数えなくていいと思った。


「やっぱり寒いですか?」

  

「ん……寒いな。いや、さっきよりかはマシだが。アンタのおかげで。……でも、俺は寒がりなんだ。骨が軋む」


「白湯のお替わりならありますので」


「助かるよ」


 の上にマルコの黒くて薄いマントを借りているエレは新たに注いでもらった白湯を両手に持ち、体を縮めた。


 温かい物を飲んでいないと体が冷えて仕方がない。


 エレが夜に着ていた防寒服――もこもことした分厚い毛皮のマント――は、アレッタが台無しにしてしまったのだ。


 朝、腹部と下半身にかけて重みを感じると思って起きると――アレッタがエレの腹部に顔を埋めるように寝ていた。


 むにゃむにゃと赤子が母の母乳を啜るように、エレの服はアレッタの涎まみれになっていた。

 ちなみにこれで、六回目だ!

 そして、今日の分を除く五着はアレッタの防寒服へと変わってしまった。(本人は大層喜んでいた。贈り物だと勘違いしているらしい)


「エレさんを振り回す彼女は、才能がありますね」


「なんの才能だよ」


 マルコは笑っていたが、エレにしてみればいい迷惑。

 どれだけ離れて寝ていても、夜這いをする勢いで転がり込んでくる。

 そして、いい寝顔で寝ているから起こしづらい――


「……拾い物にしちゃあ、自由意志すぎる」


 そう言うと、幌の先端に頑張って吊るした『最後の防寒服』を見た。

 この寒さは、アレッタの唾液が乾くまで待たなければならないのだ。



「それで、人脈ねぇ。人脈……か。商業組合のお上さんとお見合いでもしたかな」


「まさか。独り身の方が都合がいいのですよ」


「昔に会った時は奥さんがいたような――」


「エレさん」


 窪んだ眼窩の奥で、火が揺らめく。

 エレは気まずそうに歯を見せ、目を彼方に向け、くるりと体の向きまでも変えた。



「……寝ている子を起こすな、だったか」と反省。



 触らなくても良いモノには触らぬ方がよい。

 それを十二分に心得ている。

 それが『勇者一党の旅立ちの時にお節介を焼いた相手だったとしても』だ。



 マルコは、エレと出会った時からの行商人ホーカーだ。



 もじゃもじゃとした栗色の髪の毛が小奇麗にカットされ、耳の上でなんとか留まっている。

 身嗜みは幾分か気にをしているらしいが、肝心の見た目がやはり骸骨のようだ。頬がこけ、眼窩の窪んでいる先には優しそうな青い瞳が仄かに輝いている。


 血色が良いのがせめてもの救い。

 これで血の気のない皮膚をしていた時のことを考えると、夜中に会いたいとは思わない。



「まぁ、私は仕事一筋ですから。――どこかの誰かさんと同じように」



 チラと目を向けられ、飲んでいたコップを持ち上げてその視線を遮った。



(本当に、見た目で物事を考えるのは馬鹿らしい)



 そんなことを思い、昔のマルコを思い出しながら。



(ほんと逞しくなったもんだ。昔はペコペコと頭を下げてばっかだったのに)



 パッと見、仕事が出来なさそうで、信用に足らない人物に見える。

 覇気も感じず、叩けば風と共にどこかに飛んで行ってしまいそうなほどか細い。

 が、今では一人で多くの積み荷を長距離輸送をする一人前の行商人になっていた。


(昔はモンスターに襲われて、逃げまどっていたってのに)


 時代の流れというのは、見ていなければ体感にして倍は早く流れているらしい。


「いやぁ、それにしても……まさか追いかけ回されるとは……」


「エレさん。それ、三回目ですよ」


 くつ、と笑う。

 そうだったか? と言えば、そうですよ、と。


「それくらいでっかい事件だったって話だよ、マルコのおっちゃん」


「なら、何回でも聞かせてもらいましょうかね」

 

 繰り返しになるが、今日の朝までは出立してから何日経ったかを覚えていたのだ。

 だが、数える必要がないと感じた。

 今日の朝の出来事で、どうでもよくなったのだ。


 追いかけ回されたのだ。


 誰にって?――――冒険者から。



 ――お前が、エレか!?

 ――祈らぬ者が、この街に何の用だ!?

 ――くそったれ、魔王を助けた玉無し腰抜けが!!



 どうでもいいことは日数の経過で忘れ去られるというが、今なお健在だった。

 『噂』というものは一つの季節の間だけで流れるという話を聞いたことがあったが、衰える気配もない。


「ほんと、怒った人間っていうのはコワイもんだ。何をするか分からない」


 エレの知名度は、他の勇者一党の面々と同じくらいにまで向上していた。


 人気の内容によっては、自慢話の一つにはなっただろうが。

 顔を見るや否や、武器を振り回し、拙い語彙力で罵詈雑言を吐き捨ててきたのだ。

 鬼のような形相で追いかけてきた彼らの顔を思い出して、楽しそうに笑った。

 

「積み荷、卸せたんだろ?」


「ええ。ばっちりですよ、エレさん。卸して、そして! いい商品があったので幾らか小口契約を」


「おーおー、すごいな。俺が追いかけ回されてた時にそんなことをしてたのか」


「上級行商人ですからね!」と、ふんっと弱々しくも猛々しい鼻息を鳴らして「西の街の方々はピリピリしてなくて、取引がしやすいんですよ」


 パチパチと乾いた拍手をして、ご機嫌を取るとマルコはますます上機嫌になった。


「それで! 私達はあと何日、ここで待っていれば?」


「あー、俺だけでいいぞ。あんたにこれ以上迷惑をかけるのは面目が立たない」


「案外、筋肉はあるんですよ? 積み下ろしが中々大変で」


「こうやって乗せてくれてるだけで感謝してんだ」


 エレの言葉に察したように、マルコは表情を戻した。

 勇者一党から追放されたという話を知っていても、乗せてくれるだけで助かっているのだ。


「だから、こっちはこっちでやるよ。あんたはまだあの街で商談なりお見合いなりやってくりゃあいい。コレは、俺が持ち込んだハナシだ」


「……なら、そうさせてもらいましょうか。王都近郊はよく出入りをしてますが、ここの街は景観が特に好みで。なにより酪農も上等! 良いチーズが食べれるんですよ」


「観光か? そりゃあいい。余裕があるのは良いことだ」


「そりゃあそうですとも。今回の護衛様は給金が要らないとのお達しなので」


「そうか、そうだったな」


 そう言いながら、遠く――追いかけ回された街の方角――を見て、マルコの横に間隔を開けて座った。


「……して、冒険者の業界事情に関しては門外漢なのですが」


 寒そうに体を縮め、白湯を飲んでいるエレは「ん」と話を促すようにコップを口元から離した。


「あの少女に対して、少し……厳しいのでは?」


 そこでようやく、この場にいない元気印の話題になった。


「厳しい?」


 エレは今しがたマルコが言ったセリフを信じられないように聞き返す。


「えぇ」


「厳しいなんてあるもんか」


「そうなのですか?」


「冒険者の通過儀礼の一つだよ。ただ、一人で依頼を熟して来いってだけだ」


「服を台無しにされたから怒ったのかと思ってました」


「まぁ、それもある。――冗談だ、そんな顔をしないでくれ」


 言葉を並べてマルコを納得させると、エレは少し前のことを思い出した。

 そう、今この場にいない少女――アレッタのことだ。

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