第1話 イントロダクション
「それじゃ、今日のところは来週末の中間テストにも出る大切な場所だから、しっかり復習しておくように。はい、ここまで」
学年が高校2年に上がって、最初の中間テストを間近に控えた春も終わり近づく青葉が茂るこの爽やかな季節に、やる気もなくだるそうに教室の端っこの席に座るのが山田二郎、2年5組、バスケ部所属、黒髪で短髪、特徴と言えば若干の猫背と死んだ魚のような目を持つ、一見どこにでもいる平凡な普通の男子生徒だった。
二郎は机に頬をつけて、騒がしい教室の様子を見ていた。放課後を知らせるチャイムの響きが学生達のもう一つの学園生活の始まりを告げていた。二郎はぼんやりと下校する生徒、部活へ向かう生徒、そして、友人とおしゃべりを始める生徒など教室内を見渡していると、クラスの中でもとりわけ目立つ女子生徒が頭を抱えて何かをうなっている様子を見つけた。
「あ~、私、もう付いていけないわ。テストやばいかも~」
絶望を帯びた声でつぶやくこの生徒は馬場三佳。シンボルマークの黒髪ポニーテールに薄黄色のシュシュを身につけた陸上部に所属するスポーツ少女だ。三佳はクラス内だけではなく校内でも最も有名な生徒の一人だった。というのも、彼女は男女ともに認める圧倒的な美貌をもち、校内男子の中ではファンクラブすらあると言われるアイドル的存在だった。ただし、三佳自身はそんなこと気にもとめない明るく自由奔放な性格をしており、それがさらに人気を集めることになっていた。
「どうしたの、三佳。地球の終わりみたいな顔して、せっかくの可愛い顔が台無しだよ」
そんな三佳を心配し声をかけたのはクラス女子のリーダー的存在で、ダークブラウンの茶髪に肩より少し長目のミディアムヘアーで毛先はカールを入れた見た目は今時のおしゃれ女子で中身はグイグイ系の橋本すみれだった。
「あ、すみれかぁ、今の数学の内容が分からなくてさ。ていうか、2年になってからの授業内容に付いて行けてなくてさ」
「確かに2年生になってから授業のレベルが一気に上がったよね。私も少し心配だわ」
「だよね、赤点だと部活の大会に出れなくなっちゃうし、どうしよう」
三佳は陸上部の100m走で関東大会出場が決まっており、自由と自律、そして文武両道を校訓にするここ都立琴吹高校では、部活の大会に出場するには一定の学力が必要(赤点=欠場)とされており、赤点だけはどうしても取るわけにはいかなかった。
泣きそうになっている三佳にすみれが同感だという返事をし、次いで解決策を提案した。
「そうだ三佳、エリカに相談してみようよ。確かエリカはウチのクラスで一番勉強ができたはずだからさ」
「それは良いかもね。さすがすみれだ。エリカにお願いしてみよう」
三佳はこれこそ救いの手だと喜び、すみれと共にエリカの席へ移動した。
三佳とすみれがエリカの席に向かったところ、先客が二人いた。
「これとこの方式さえ覚えて、あとは練習問題を繰り返してやればテストも大丈夫だから、優子も理香も安心しなよ」
「ありごとうございます。エリカ様、本当に助かります」
「さすが、我らのお母様、今度何かお礼させていただきます」
二人は救いの女神を崇めるかのようにエリカに感謝を伝えた。
「別にこれくらい大丈夫だよ。ほら、もう部活が始まる時間でしょ。いってらっしゃい」
エリカはいつもの事だと慣れたように笑顔で二人を見送った。
二人の同級生に勉強を教えていたこの少女こそ飯田エリカだ。クラスの学級委員であり、美術部に所属するゆるふわボブヘアーのメガネっ子である。エリカはクラスの一部からお母さんと呼ばれており、面倒見も良く人望の厚い文化系少女だった。
すみれと三佳は前の2人がいなくなったところを見計らってエリカに声をかけた。
「エリカ、お疲れ様。大変だね、学級委員となると皆に頼られてさ」
「まぁ頼られるのは大変だけど悪い気はしないしね」
エリカは三佳の苦労を労うような問いかけに、たいしたことでなさそうに答えた。
「さすが面倒見が良いわ。お母さんなんて呼ばれるだけはあるね」
「なんだか、知らぬ間にね」
エリカはすみれが感心する横で、これまで何度となく言われきた台詞を軽く受け流し2人に尋ねた。
「それで、2人揃ってどうしたのよ」
「ちょっと三佳が数学のテストが心配みたいでね、2年に上がってから全然数学の授業に付いて行けてないらしいのよ。ちょうどさっきの2人みたいにね」
「なるほどね。それじゃ、今日の復習でも一緒にやってく」
すみれの話しを聞き、エリカが半泣き状態の三佳に問いかけた。
「それもありがたいんだけど、どうせならテスト一週間前の間に、放課後一緒に勉強を教えてくれたら嬉しいなと思ってね、どうかお願いします。エリカお母様」
三佳は藁をも掴む思いでエリカに全力で勉強指導のお願いをした。
「エリカに教えてもらえたら私も安心だし、頼めないかな」
すみれも三佳と共にエリカにお願いをしている時、近づく人影に三佳が声をかける。
「あれ、忍。部活行くの」
三佳に話しかけられた生徒は成田忍であった。彼女は整った顔立ちにマニッシュなショートヘアーと高身長を合わせ持った女子バスケ部のエースであり、その容貌が宝塚歌劇団の男方を彷彿させることから、後輩の女子からは忍様と呼ばれる程の人気を持った生徒だった。
「これから部活だけど、どうしたの2人揃って頭下げて何してるのさ」
忍はクラスのカースト上位二人がエリカに懇願する様子を不思議に思った。
「今エリカに勉強を教えてほしいってお願いしてて、来週のテスト前の一週間、放課後一緒に勉強できないか頼んでいるんだ。どう、忍も一緒にやらない」
「なるほど、そういうことか。だったら私も社会とか理科みたいな暗記教科が苦手だから、テストに出そうなところ絞って教えてくれたら嬉しいな」
三佳の作戦とも知らずに状況に納得した忍は勉強会の参加に前向きな姿勢を見せた。
「三佳あんたね、私が了解もしないうちに勝手に参加メンバー増やして、私が断ったら忍に悪いでしょ、もう。忍も忍で好き放題言って、私は青い猫型ロボットじゃなからね」
エリカは自分の前に並びお願いポーズを取る3人に説教をするように言い返した。
「ははは、エリカ、面白いこと言うね。そしたらエリカはエリエモンかな、それとも母エモンかな」
三佳が調子に乗ってふざけたボケをかました。
「三佳、あなたが一番テストやばいんだから、ふざけたことばかり言ってないでちゃんとお願いしなきゃ、エリカもさすがに怒っちゃうよ」
すみれがエリカの顔色を伺い三佳に釘を刺した。
「ごめんなさい。一生懸命勉強しますので、どうかよろしくお願いします」
悪乗りをしてしまったことを反省し三佳は改めてエリカにお願いした。
「全く、仕方ないな。赤点取って大会に出られなくなったら、陸上部の皆様に迷惑かけるちゃんでしょ。しょうがないから、テスト前の一週間、私がビシビシ鍛えてあげるわよ」
「やったー。ありがとう、エリカ」
「助かるわ、エリカ、ありがとうね」
「私も参加させてもらうから、よろしく頼むね」
三佳、すみれ、忍はそれぞれエリカに感謝を伝えて、エリカも了承しテスト前の対策勉強会が決定した。
そんな4人の話を周りで聞いていた男子達がこそこそと馬鹿話に花を咲かせていた。
「俺もあの勉強会に混ざりたいな」
「バカ、お前は勉強じゃなくて馬場さんと仲良くなりたいだけだろ」
「違えよ、俺は純粋に勉強がしたいんだよ、恋愛のな。キリッ」
クラスの男子二人がバカな話をしていると、もう一人がコントの乗りでボケ始めた。
「何がキリッだ。この愚か者め、我らのアイドル、三佳姫をお前らなどに渡すモノか、この三佳姫親衛隊長の俺がここは通さないぞ」
すると、会話していた二人もボケに乗って来た。
「こやつ、できる。こいつは俺が食い止めるから、お前だけでも先へ進め!」
「お前の骨は俺が拾ってやるぜ、相棒」
「甘いわ、ここで終わりだ」
「あー、俺らは三佳姫に近づくことも出来ないのか、くそー」
高二男子の妄想ドラマが放課後の教室で繰り広げられる平和な日常風景だった。
そんなバカな寸劇が繰り広げられている最中、廊下の方からかしましい女子の声が聞こえてきた。その女子3人は2年5組の前で止まり、教室の中にいる忍に向かって黄色い声援をむけた。
「忍様、今日も部活頑張ってくださいね」
「私、差し入れ持って行きますね」
「忍先輩、今日も見学に行きますから」
後輩の女子からいつも通りの声援を忍が受けていると、もう一人の女子生徒が反対の入り口から顔を出した。
「忍、部活行くよ。おっと、後輩ちゃん達、忍はあたしが頂いていくよ。ごめんね」
忍の部活仲間が忍を攫っていくかのように声をかけた。
「分かった。今行くよ」
「君たちもいつもありがとうね」
「それじゃ、私行くね」
忍は同学年の部活仲間に返事をし、詰めかけた後輩女子達に颯爽と声をかけ、三佳達に挨拶をした。
「忍、部活頑張ってね。それにしても、やっぱり凄いね忍は。女バスのエース様がファンの子達を待たせちゃかわいそうだから早く行ってあげなくちゃね」
「三佳、君がそれを言うか。私なんかより余程校内にファンが多いでしょ」
三佳の発言に忍が鋭くツッコミを切り返す二人のやり取りに、エリカが静かにつぶやく。
「二人ともファンがどうこう言ってる時点で、私には驚きだよ」
「まぁ冗談はやめて、そろそろ行くよ」
忍が教室から出て行くと、それに合わせて黄色い声援も聞こえなくなった。
しばらく黙っていたすみれがしみじみと話した。
「しかし、相変わらず3人とも人気者だね。エリカはクラスの皆から頼りにされるわ、忍は後輩女子の憧れの的で、三佳に至っては校内男子のアイドルみたいになってるし、全く私とは大違いだわ」
「いやいや、そういうすみれもクラス女子のリーダー的存在だし、最近隣のクラスの男子に可愛いって噂されてるの知ってるよ。私に言わせれば十分すみれも羨ましいよ」
すみれの低い自己評価をばっさり否定したエリカは改めて凄い人たちと友達になったものだと心の底で思うのであった。
「そろそろ私も部活行くわ。すみれもエリカもありがとうね。来週からよろしく。ではでは」
ポニーテールを揺らしながら自慢の俊足で、あっという間に三佳はクラスから飛び出していった。
時間も午後4時を手前に、まぶしいくらいに日が差していた太陽も少しずつ高度をさげ、夕方の空気が漂い始めていた。
忍と三佳の二人が部活へ行き、教室には数人が残るだけになったところで、エリカが席から立とうとした時、すみれが先程までとは違う真剣な顔でエリカに問いかけた。
「エリカ、そういえば聞きたいことがあるんだけどちょっといいかな」
エリカはすみれの真剣な表情に一瞬驚きながらも努めて普通に返事をした。
「どうしたの、数学で分からないことでもあるの。少しやってく」
エリカはわざと話を逸らすように視線を黒板の方に向けた。
「違うよ、2年1組の工藤君の事だよ」
「どうしたの急に、怖い顔して」
エリカはすみれの唐突な詰問に内心ドキリとしながら冷静に答えた、
「この前、エリカ、工藤君と部活の帰り道で一緒に歩いてたよね。私見かけたんだけど」
すみれは動じない様子のエリカに、もっと踏み込んだ質問を投げかけた。
「え、うん、そうだけど。それがどうしたの」
「二人はどういう関係なの」
「どういう関係って、小さい頃からの幼馴染みで小学校の同級生だったから今でも友達なだけだよ」
エリカとしてみれば幼少時から続く当たり前の関係を当然のように説明した。
「そうなんだ、私知らなかったわ。工藤君の事もしかして好きなの」
「え、そんなことないよ。小さい頃から知ってる私からしたらただのガキみたいなもんだよ。今はサッカー部のエースで人気あるみたいだけど、まだまだお子様って感じだからね」
「ふーん、そうなんだ。仲良さそうに見えたけど」
すみれはまだ納得のいかない様子で疑いの目をかける。
「何を心配してるのよ。この際だからすみれには教えるけど、私はあの時もう一人いた剛の親友で私とも幼馴染みの拓実が好きなんだから。剛なんて眼中にないから安心して、ね」
「拓実君って工藤君とクラスも部活も一緒の服部君だっけ。エリカは彼のことが好きなのか。そっか、それなら良かったよ」
すみれはようやく強ばった顔を崩し、安心した様子で一息ついた。
「そうだよ、私ら3人幼馴染みで家も近くだから、たまに3人で帰るだけだよ。私にしてみれば剛は拓実のおまけみたいなもんだからさ。すみれ、このことは秘密にしてよ。私もすみれが剛を好きな事は秘密にしておいてあげるからさ」
エリカはすみれの追撃をサラリと交わし、形勢逆転と反撃に出た。
「え、そんな、別に私は好きとかそういうわけじゃなくて」
「それで隠してるつもりなの、バレバレだからね。普段、ハキハキしてて、しっかり者のイメージだったけど、恋愛の事となるとボケボケなのね。すみれも意外に可愛いところもあるじゃない」
「もう、エリカってば絶対に秘密にしてよ。恥ずかしいんだから、お願いね」
「良いけど、そんなんじゃすぐに皆にバレるよ」
「そんなにわかりやすいかな、どうしよう。私、こう言うの苦手なんだよね」
「はいはい、よしよし。恋する乙女は可愛いねぇ」
すっかり弱気になったすみれを見て、あまり苛めすぎると後が怖いと思い、エリカは追撃の手を緩めた。
そんな会話をしながら、エリカとすみれは教室を出て、それぞれの部室へ向かった。
そんな4人のやり取りを教室の端でぼんやりと眺めていた二郎の所に、一人の男子が慌ててやってきた。
「二郎、こんなところで何さぼってんだよ。今日は人数少ないから女バスと合同練習で、最後に練習試合するって言ってただろう。早く行かないと忍にどやされるぞ。早く着替えて行こうぜ」
二郎を呼びにやってきたのは、二郎と同じく2年5組で同じバスケ部に所属する、見るからに人の良さそうな好青年である一ノ瀬一だった。一はバスケ部とは別で生徒会にも所属しており、学年中にも顔が広く先生からも信頼の厚い人気者であった。
「何だ、一か、生徒会はどうしたんだ」
息を軽く切らした一に眠そうな声で二郎が返事をした。
「急いで仕事を終わらせてきたんだよ。もう4時になるじゃんか。こんな時間まで何やってたんだよ」
「何って、決まっているだろ。一が生徒会終わるまで待ってたんぞ。どや」
「どやじゃないだろう。俺が来るまでサボる気満々じゃねーか。忍が遅いって怒るぞ」
「大丈夫だ。忍も少し前まで教室にいたから、そんなに待たせちゃいないよ」
「わかったから、早く準備しろよ。俺は先に行ってるからな」
相変わらずやる気のない二郎に一はいつもの事だと自分に言い聞かせて話を終わらせた。
「あいあいさー」
そんな一の心中を知りながら軽い返事を二郎は返した。
一がいなくなり教室は静寂に包まれた。誰もいなくなった教室を見渡し窓の外を見た二郎は小さく深呼吸をし、ゆっくりと立ち上がるとようやく教室を後にした。
なんてこともない普段と同じ放課後の教室で、この日もまた若者達の青春の1ページが捲られるのであった。
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