第188話

「ねぇ、じゃあ夕陽さんって本当にあの時、私と付き合う前は彼女いなかったの?」



何となく話がまとまり、このままムードに任せて寝室へ移動するのではないかと微かな期待が混じったが、みなみはまだ話し足りないのか、二杯目のお茶を所望してきた。


少し肩透かしを食らった気分になったが、その方が彼女らしいと思い、夕陽はそれに付き合う事にした。



「いないに決まってる。いたら付き合わないって」



夕陽はそこは全力で否定した。

思えばみなみは夕陽が社会人になってから初めて出来た彼女だ。



「えー、ホントかなぁ」



みなみは胡乱げな目を見せている。

少しカチンときた。



「マジだよ。お前と会った時は会社入って一年過ぎた辺りで、その頃なんてとても彼女作ったりする心の余裕なかった」



「それってどういう事?何か事件の匂い?」



「ちげーって。まぁちゃんと説明すると、俺の中学や高校の頃は結構な進学校でさ、一週間フルで授業や塾がこれでもかってくらい詰め込まれてたんだ」



「うーわー、それはないわー。かったるい」



みなみは心底嫌だったのかげんなりしている。

まぁ、それもそうだろう。

しかし当時の自分は全くそれに疑問すら持たず、それが当たり前だと思って熟していた。



「だけどさ、それが大学入って劇的に変わったんだ」



「え、何で?」



「大学ってさ、必要な単位さえ取れたら大体卒業まで行けるんだよ。勿論レポートや実習に宿題もあるけど、それさえ熟せば後は自由だ。自分の好きなようにスケジュールを組めるから、次第に俺はあの頃のキツキツな中学高校時代の生活を忘れていったんだ」



夕陽はお茶を一口飲む。



「で、いざ就職してみたらまたあの一週間フル活動みたいな毎日に戻った。いままでは少しくらい寝坊しても何とかなったのが、そゔめいかない。朝礼に間に合わないからな。今まで大学で緩み切った生活に慣れた身体にはそれが一番キツかった」



今となっては当時の事を思い出すと、笑いが込み上げてくる。



「更にその時の上司が結構圧が強くて、出来ないとめちゃくちゃ責められて、メンタルもガタ落ちだったな。で、最後は退職届の書き方まで検索してたくらい落ちた」



「うわぁ、何かそれってパワハラっぽい」



「まぁな。でもさ、その時何か笹島が気付いたのか、あいつ特に俺に聞き出す事もせずにその日から毎日朝、家まで迎えに来るようになったんだ」


「えーっ。笹島さんめっちゃいい奴!」



みなみは手を叩いて喜んでいる。



「はははっ、小学生かっての。まぁ、そうなれば行かないわけにもいかなくて、結局退職届を準備する暇もないくらい日々の業務に忙殺されていったな。で、気づいたら少し大きな仕事を任されるようになって、何かそこで手応えみたいのを感じたんだ」


「へぇ…」



「で、もうちょっとだけ続けてもいいかなって思うようになってた。だからもうその一年は本当に恋愛なんかする余裕もなくあっという間に過ぎてった感じだな」



本当にあの一年は大変だった。

身体よりも精神が参ってしまい、その発散の仕方もわからず、ただ無理に無理を重ねていたようなものだった。



「でも今はもう大丈夫なんだよね?可愛い彼女もいるし」



「自分で言うなよ…。まぁそうだな。今は上手くやれるようになってきたよ。まだまだだけどな」



夕陽は穏やかな気持ちでお茶を飲んだ。

確かにあの時があったから今がある。



「あいつには面と向かって言いたくないが、感謝はしてるよ」



その頃、笹島は露天風呂で盛大なくしゃみをしていた。


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