第5話 椛谷倫
都営新宿線笹塚行き。クーラーがきんと冷えていて、夏場の電車の車内は冷え性の百々にはなかなか厳しい環境だ。
土曜日だったが、ちょうど昼時だからかさほど混雑はしていない。
ベビーカーを押して、さらには幼児の手を引いて乗り込んできた女性に気づくと、累は手慣れた様子で女性の抱えていた重そうなボストンバッグを席まで運んでいく。女性は暑さと重さで汗だくで、足元がふらついていた。
子どもは得意ではなかったが、百々も仕方なしに男の子の手を引いて席まで連れていく。
不安がられてしまったので席についてから親指の伸びるマジックを見せると、たちまち男の子は顔を輝かせた。
しきりに頭を下げる女性に会釈をして、百々は先にその場を離れた累の元へ向かう。
ドア横のスペースに背を預けた累は百々と目が合うなり、噴き出すのをこらえるように唇を噛んだ。
「うるさいですよ」
「なにも言ってねえだろ」
そう言いつつも、累はくつくつと肩を震わせ始める。
「だってお前、仏頂面で手品なんか見せっから」
「お前」
「鳥居」
百々はよろしい、というように頷いてから吊り革を掴む。
百々とて、好きでこんな人間に育ったわけではない。これだけ口が悪く、ヤクザ者顔負けのような外見をしているくせに、親切を垂れ流しにする累のように振る舞えたら。そう思ったことがないと言ったら嘘になる。
でも、ことに子どもは駄目だ。『ひかりのいえ』の教団施設で暮らす前も後も、百々は彼らのなかで馴染めたことがない。
「子どもにいい思い出がないので、どう接すればいいのか分からないんですよ。でも、大人になった今は、無条件に大人に守られるべきものだということは分かります」
「まあそれはちがいねぇけど、んな大仰に考えんなよ。相手が子どもだろうが大人だろうが一対一の人間なんだから、楽しめばいい」
そう軽く笑う累は、対人関係で困ったことはあまりなさそうだ。過去のこともあって、百々は今でも人とのコミュニケーションで困り果ててしまうこともある。けれども累の話を聞いていると、もっと楽に構えてもいいのかという気にもなってくる。
二足目のフットカバーもすでにただの濡れた布に成り下がった。相変わらず気持ちは悪かったが、揺りかごめいた電車の揺れにあやされているうちになんだかうつらうつらとしてくる。
「ヤーさんが」
「……やーさん?」
累の低く落ち着いた声も、微睡みに拍車を掛けるようで、百々は気のない返事をしてしまう。
「法村
その声でようやく冷や水を浴びせられたように頭が冴える。
百々が思わず姿勢を正せば、「んな構えんなよ」と累は口の端で微笑った。
「ひとつ後悔している事件があるっつってたんだ。俺とはまだ組む前。覚えてるか。二十年前、法務大臣だった阿久津の秘書官が自殺した。……って鳥居はまだその頃保育園児か」
「ぎりぎりランドセルを背負い始めています。当時の記憶はありませんが、長じてからネットのニュースで見ましたよ。確か名前は……
「原因はよくある政治とカネの問題。阿久津は収賄容疑を掛けられたが、金庫番だった椛谷が首を吊り、真相は闇の中」
百々は蟀谷を押さえて記憶を引っぱりだしながら頷く。
「たしか、息子さんが第一発見者だったんですよね」
「ああ。その後、妻がブランドものを買い漁っていたとかいうデマも流れて、遺された家族にもバッシングが及んだ。そうしているうちに母子ともに失踪。妻と息子の揃えられた靴が群馬の山奥の渓谷の橋の上で見つかり、間もなく妻の遺体が流れ着いているのを釣り人が発見した」
「痛ましい事件でしたね。当の阿久津は政治生命を永らえ、官房長官にまで登り詰めた」
まるで蜥蜴の尻尾切りだ。
政治家の汚職は現代に溢れかえりすぎて、どれがどれだったか区別がつかない。だが、本来汚職やその疑惑をよくあるなどと片づけるべきではない。その裏には、不正や使い捨てられる命があり、そして倫理や規範が揺らぎ、政治や社会への信頼も失われていってしまう。
政治家の汚職事件において、秘書が当の政治家に黙って悪事に手を染めていたなんてことが実際にどれだけあるのだろう。
「ヤーさんはその頃
累はそう言って、一点を見つめる。
やはり、累にとって法村が特別な人間であることは間違いないように感じられた。
「ただ不可解なのは、息子の遺体がいまだに見つかっていないことだ」
「まだほんの十二歳だったんですよね。母親よりも遠くに流されたはず。海まで運ばれて分からなくなってしまったんじゃ」
「俺もついこの間まではそう思っていた。でも鳥居の因縁の相手について色々調べていたら、ある考えが浮かんだ」
「モリミヤジンのことですか。それとこれと何の関係が」
「椛谷の息子の名前は、倫。モミジヤリンだ。入れ替えれば、モリミヤジン」
「まさか」
仮に椛谷が生きていたとして、下手なミステリ小説でもあるまいし、アナグラムだなんて古典的な手法を取るだろうか。
百々だったら全く関係のない名前を騙る。
「椛谷倫が生きていたとしても当時十二歳ということは、現在は三十二歳です。であれば、『ひかりのいえ』テロ事件当時、倫さんはたったの十八歳。十八歳になにができるっていうんですか」
「倫は、プログラミングの国際大会で入賞経験もある優秀な子どもだった。海外なら、飛び級をして名門大学に通っていてもおかしくはないほどの知能を持っていたと」
「だからって十八歳の少年が大人たちを扇動してテロを起こすだなんて、現実離れしています」
そう言いながらも、さーっと血の気が引いて、気が遠くなってきた。
雨音のリフレイン。気に入りの赤い傘が、ゆっくりとアスファルトを転がった残像。けたたましく耳を劈くサイレン。シートに覆われた、索痕がくっきりと残った、母の白い首筋。雨のにおい。ぬるい舌触りの大気。
全部が当時のままに蘇る。
いまだに十四年前から時を止めている自分がいい加減厭わしく情けないと思うのに、あの日から一歩も動けない。
呼吸さえも狂いだす。
泣きたいだなんて思ったことは一度としてない。なのに、目頭が熱くなって生理的な涙がこぼれ落ちた。
がくん、と頽れかけたのを、誰かに引き上げられる。視界が上手く利かなくても、それが累であることはすぐに分かった。
「すみません」
「いや、俺こそ軽率だった。悪い」
「悪くないです。モリミヤジンについて話してもらえないほうが、ずっといや」
累の腕をきつく掴んでいたのに気づいて、百々は手すりを伝って端の座席に腰かけた。
斜め向かいの席に座っているサラリーマン風の男からじろじろ不躾に見られているのに気づいて、目を逸らす。
次の瞬間には、累が何食わぬ顔でサラリーマンの視線を遮ってくれていた。おそらく故意だろう。この男がそういう人間であることは百々も理解し始めている。
「……さっきのはぶっ飛んでます。小説家にでも転向したらどうですか」
白と黒に点滅していた視界が落ち着いてきたところで、百々はそう軽口を叩く。
「そしたらバディ不在になるがそれでいいのか?」
百々は逡巡ののち、「それはちょっと困ります」と早口に言った。
累の眸がたまゆら驚きを湛えて百々を見やる。居心地悪く視線を彷徨わせれば、「しねえよ、馬鹿」という声が雲間から覗いた陽光に融けて消えた。
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