第40話 怒りの脱出

 ダルスが目を覚ますと、マクシムが拳を振りかぶっていた。避けようとしたが、両手両足を椅子に縛り付けられていたため、直撃を受けた。

 それからしばらくの間、殴られ、蹴られ続けた。ひとしきり暴行を受けた後、別の男が部屋に入ってきて、マクシムたちは慌ただしく部屋を出ていった。

 ダルスは今、鍵のかかった部屋に1人取り残されている。動けはしないが、考える時間はできた。

 まず確かめたのは傷の具合だ。打撲は酷いが骨に異常はない。銃で背中を撃たれたが、そこも問題ない。いつものコートで助かった。これには防弾繊維が編み込んである。撃たれた衝撃は防げないし、そもそもボロボロだから過信はできないが、今回は役目を果たしてくれた。

 窓の外から見えるのは、高所から見たミルジェンスクの街。駅と、その向こう側に古い住宅街が見える。つまりここは街の東側だ。東側でこれほど高い建物といえば、間違いなくホテル『クロドゥング・メヴリージャ』だろう。

 そこで疑問が生じる。今、ダルスはローアン署長の依頼を受けて、酒場に工作を行っている。つまりホテル側の人間だ。なぜホテルに拉致されなければならないのか。

 更にパトカーのサイレンが鳴り響いているのに気付く。ホテルの前にパトカーが停まっているらしい。ホテルと警察は協力しているのに、どうしてこんな事になっているのか。

 まさか、とダルスは溜息をつく。このタイミングで警察とホテルが仲違いしたのか。だとしたら、ダルスも安全ではない。

 一通りの考察を終えたダルスは、脱出手段を考える。まずはこの縄を解かなければ。

 部屋を見回すと、床にガラス片が落ちているのを見つけた。椅子ごと倒れて、ガラス片に這い寄る。汚れたガラス片を指先でつまみ、手首の縄に押し付けて切り始める。

 苦労はしたが、右腕を縛る縄は切れた。後は速い。自由になった右腕で、左腕と両足の拘束を解く。立ち上がり、改めて体の具合を確かめる。両手、両足、骨や筋肉には問題ない。殴られただけだ。動くのに支障はない。

 ドアには鍵がかかっている。だからダルスは窓からベランダへ出た。下を見る。高い。7階ぐらいか。落ちれば死ぬだろう。

 以前、手に入れた図面を思い出す。西側に非常階段がある。そこへ向かう。

 ベランダの手すりを飛び越え、隣のベランダへ飛び移る。部屋の中からは異様な匂いが立ち込めている。様子を窺ってみると、男たちが調合器具を扱っていた。どうやら麻薬の調合を行っているらしい。気付かれないように、ダルスはそっと窓の外を通り過ぎる。

 更に隣の部屋へ。今度は、半裸の女がくたびれた様子でベッドに転がっていた。サイドテーブルには空の注射器が放り捨てられている。

 更にベランダを乗り越える。先はない。壁に身を寄せ、僅かな出っ張りに手足を掛けて進む。そして非常階段に着いた。

 あとはここを降りればいい。そう思った矢先、下から声が聞こえてきた。

「何でサツおんねん」

「知らんわ。ダリィ」

 声は上に来ている。建物の中には行けない。見張りに見つかる。ダルスは迷わず階段を昇った。最上階。更に上へ。屋上。何人かいる。タバコを吸っている。休憩所か。

 声の主も昇ってきている。ダルスは柵を乗り越え、屋上の縁を歩き、そこから下へ飛び降りた。

 着地したのは最上階の部屋のベランダだ。観葉植物の影に隠れながら部屋の様子を窺う。豪華な調度品が並ぶスイートルームだ。

 Yシャツを着た男が机に向かっている。窓に背を向けていて顔はわからない。

 卓上のスマートフォンが鳴った。男が携帯に出る。

「はい、もしもし? ああ、署長さん。どうもどうも。いや、今は全然忙しくないですよ、どうしました? ……何です?」

 署長。まさか、ローアン警察署長のことか。だとしたらこの男は、ホテルのオーナーか。

「いや、何も聞いてませんが……まさか、そんな。部下には顔写真を配ってますから、間違いはありませんよ。……刑事が見てた? いや、勘弁してくださいよ。それがマジだったら、あのババアを葬る計画がおじゃんじゃないですか」

 男は電話口の相手に対して、苛立ちと困惑をまぜこぜにしたかのような声を返している。ダルスには聞き覚えがあった。妙に口が回る上に一言多い、その喋り方も含めてだ。

「……わかりました。一応、確認してみましょう」

 そう言うと、男は電話を切った。そして掛け直す。

「マクシム。すぐに上がってこい。他の奴らもだ」

 一転して、鋭くドスの利いた声だった。

 しばらくすると、マクシムと部下たちが部屋に入ってきた。

「オーナー、お呼びですか?」

 マクシムが口を開くと、オーナーが聞き返した。

「おい、何で警察が来てるんだ?」

「さあ。誰かがヘマしたんじゃないでしょうかね?」

 ふてぶてしいマクシムの顎を、オーナーが鷲掴みにした。むりやり正面を向かせる。

「おいおいおいおい、随分とまあ他人事みたいな様子じゃねえかよ、え? 何だ、俺様は関わりたくありませんってか? お前もウチの幹部ならよ、忘れたわけがねえよな。ウチと警察は協力してるって。なあ?

 そしたらよお、公僕どもが押しかけてくるのは洒落にならん事になってるって事ぐらいわかるだろうが、アホンダラ!」

 オーナーはマクシムの顎を放す。マクシムはふてぶてしく言い放った。

「警察なんぞ、2,3人痛めつけりゃ逃げ出すってのに」

「何でもかんでも力で解決するなって、口酸っぱくして言ってんだろうが! ケンカしか脳のない田舎マフィアが! 三歩歩いたら金と女の事以外は忘れるヤク中の鶏かてめえは!?」

「いいかげんにしろよテメェ……オレらの商売は力だ! 強さを示さなきゃ誰もついてこねえだろうが!」

 マクシムがドアを殴りつけた。大きな音にオーナーは驚く。体格差は歴然、純粋な暴力になったらオーナーに勝ち目はないだろう。だが、地位はオーナーの方が上だ。

「おうおうおうおう、それだけデカい口叩くなら、この前ぶちのめされたのは何だったんだエエ!? なーにが暴力じゃ、たった1人にボコボコにされてるだろうがよテメエは! おまけに何週間も経ってるのに見つけられないと来た! そんなんで商売は力だなんざよく言えるわ! 俺だったら恥ずかしくて自殺してるぜ!」

「……ケッ、安心しな。奴ならさっき捕まえたよ」

 マクシムがニヤリと笑う。

「お、おう……? 何だ、捕まえたのか……で、結局、誰だったんだ? お前が自分で仕留めるって言って、名前も顔も教えないからこっちはずっとヤキモキしてたんだぞ?」

 目を白黒させるオーナーに対し、マクシムは誇らしげに言った。

「ああ。スザンナのババアの店で働いてる、ダルス・エンゼルシーって男でしたよ」

「……は?」

「あっちこっち聞きまわって、前に働いてたピサレンコから吐き出させて。苦労したんですよ。だがまあ、顔がわかったらこっちのもんだ。あいつの通り道に待ち伏せて、車を止めさせて降りてきたところをズドン、だ」

「おい」

「いやいや、まだ死んでませんよ。下の部屋に閉じ込めてます。一応、オーナーにもツラを拝ませておいたほうが良いと思いましてね。

 で、殺り方はどうします? 普通に吊るしますか? コロンビア・ネクタイでもやります? あれだったら足から削いで……」

「このっ……大馬鹿野郎がぁっ!」

 オーナーの拳が、得意げに喋るマクシムの頬を殴った。

「このボケカスが! 酒場には手を出すなって何度も言っただろうが! 忘れたのか!? それとも何だ、てめーの頭には脳ミソの代わりにチキンのミンチが詰まってんのか!?」

 更に殴る。蹴りまで入った。ボリスはよろめく。

「なっ、始末は任せるって言っただろうが!?」

「それとこれとは話が別だ! 幹部集会でも言っただろう!? しばらくコズロフ・ファミリーには手を出すなって!」

「こいつはただの流れ者だ! 殺った所でババア共は気にしねえよ!」

「それだけじゃねえよボケナスが! あいつは、あの男はなあ、警察の人間だ!」

「ハァ!?」

「クソッ、そりゃあ警察が来るわけだ! あいつが死んだらせっかくババアの店を潰すための作戦が全部丸潰れじゃねえか!? どーしてくれんだマクシムてめぇ、このオトシマエはよぉ!?」

 オーナーは酷く焦って喚き散らしている。

「だ、だったら……最初からそう言えばいいだろうが!? 何で作戦を俺たちに話さない!?」

「テメーら頭の足りない田舎のチンピラ共に教えたら、足りない頭で余計なことやらかすからだろうが! ババアやユリアンに怪しまれたら終わりだぞ!?

 クソッ、役に立たない癖に、余計なことを次から次へと引き起こしやがって……! 誰がお前らをここまで稼がせてやったと思ってるんだ!? 俺のヤクで、俺の計画で、良い思いしてんだろうが!

 だったら、俺の言うことを、聞け!」

 マクシムを蹴り飛ばしたオーナーは、息が上がってようやく手を、いや、足を止めた。

「……いいか、すぐにダルスを手当てして、元通り店に返してこい! もし死んでたら、テメエら全員ネヤベリ線の轢死体にしてやるからな!」

「……オイ、行くぞ」

 マクシムたちは部屋を出ていく。オーナーも苛立ちながら机に戻る。

 ダルスは窓から離れた。そろそろ逃げないと、脱出した事に気付かれる。壁の縁を伝って非常階段に向かい、そこから階下へ向かう。

「いないぞ!?」

「あいつ、どこに行きやがった!」

 半分まで降りた所で室内が騒がしくなった。気付かれたか。ダルスは足を早める。階段を降りきった所で、見張りに見つかった。

「あっ、てめ……!」

 すぐに飛びかかり、こめかみに回し蹴りを叩き込む。目の前の見張りは昏倒したが、奥にも別の見張りがいた。拳銃を抜いて売ってくる。ダルスは身を屈めて駆け、路肩の自動車の影に飛び込む。

「何だ何だぁ!?」

「撃て、とにかく撃て!」

 ホテルの中から飛び出してきたマフィアたちが、闇雲に銃を撃ちまくる。統制も何もない。オーナーの指示が届けば止まるだろうが、その前に車が全損しかねない。

 隠れていたタイヤが銃弾を受けてパンクした。長く保ちそうにない。弾幕が薄まったタイミングで飛び出すか。次の車まで15m程度。敵の配置、数は不明。計算はできない。博打になるか。

 不意に、エンジン音が猛スピードで近付いてきた。そして白いワゴン車がダルスとホテルの間に割って入った。扉が開く。

「乗れ!」

 白いコートの男が手を差し出していた。更に、運転手がマフィアたちに向かってショットガンを連射している。

「誰だ!?」

「いいから急げ!」

 ワゴンに火線が集中する。四の五の言ってはいられない。ダルスが車に飛び込むと、ワゴン車は急発進、あっという間にホテルから離れていった。

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