十六 策動


 大内軍は勝利に沸き立ち、この勝ちの波に乗じて、佐東銀山城を攻め落とそうという声も上がった。


「……それは義興さまの軍が、厳島を制したのちじゃ」


 陶興房は厳かに告げた。

 大内義隆は、父・義興よりも手柄を上げることを慮った興房に理解を示し、全軍に休息を命じた。将兵も否やはなく、互いに慰労し、そしてそのまま自然に宴へと場の空気は流れていった。


 しかし尼子軍の方は、惨憺たるものである。

 主将である牛尾幸清の突出した突撃が、物の見事に反撃を食らったことにより、尼子直属兵の大半が死傷してしまった。そして、その尼子直属兵――第一陣に肉迫していた第二陣、すなわち、平賀、宍戸、三吉、宮といった安芸の国人らも相当な被害を蒙り、無傷なのは第三陣の毛利、吉川、小早川、熊谷、香川、三須ら諸将だけであった。

 しかもその第三陣が、「坂の上」からの奇襲を事前に察知し、第一陣、第二陣の危機を救ったとあっては、牛尾幸清も亀井秀綱も、そして第二陣の国人たちも、もはや何も言わずに第三陣の中心人物、毛利元就が軍議の席に座るのを待つのみであった。


「お待たせし申した」


 元就が甲冑を脱いで平服で参上すると、一同は驚きの表情を見せた。だが元就は「他ならぬ大内家御曹司の初陣。これ以上の無益な戦いは無い」と断言した。


「消した消し炭で、火傷してはかなわんだろう」


 それゆえの平服であると元就は言い、それにしても暑うてかなわんと、ぱたぱたと襟を開閉すると、他の諸将も、特に第三陣の面々は、その場で甲冑を抜き出すのだった。


「…………」


 苦虫を噛み潰したような表情の牛尾幸清であったが、隣の亀井秀綱に肘で小突かれて、ようやく発言した。


「あいや、こたびのこと、まことに毛利どの、第三陣の方々、天晴である」


 きっと尼子経久さまも、よみしたもうと幸清は阿諛あゆした。隣の秀綱の視線の圧が強くなり、幸清は、おほんと咳払いしてから話をつづけた。


「……で、不運にも、われらは負けた」


 不運というところを強調する幸清であるが、場の一同は白けた顔で聞き流していた。

 かまわず、幸清は言う。


「であるから、われら尼子は、出雲へ帰ろうと思う」


 白けた空気が一変し、安芸国人の中には、立ち上がる者も出た。


「な、なにゆえ」


「尼子は、われらを見捨てる気か」


「このまま捨て置かれては、われら、大内に」


 口々に不満を叫ぶ国人たち。

 だが幸清からしたら、自力で自衛できぬ、尼子という狼の威を借りる狐たちの鳴き声である。


「…………」


 亀井秀綱は頭を抱えた。

 尼子軍が逃げること自体は、間違っていない。

 これ以上、このまま安芸に居て、大内軍に鴨打ちにされるのはいただけない。

 先ほどの敗戦で、将兵たちの望郷の念が高まっている。

 しょせん、ここは安芸。

 出雲ではない。故郷ではない。

 命を張って、戦うことはない。

 ……そういう思いが、尼子直属兵の厭戦気分を盛り立てていた。


「しかし」


 秀綱はひとりごちる。

 ここで尼子軍が出雲に帰ったとしたら、安芸はもう、二度と尼子の手には戻らないだろう。

 見捨てた。

 そう思われ、安芸の国人は、二度と尼子に従わないだろう。否、従うかもしれないが、それは消極的な協力姿勢のみであり、少なくとも、今日のような手勢を率いての参戦は望めないだろう。


「だが」


 二度目の逆接の接続詞。

 秀綱の心中でも、せめぎ合いが起きている証である。

 撤退と死守。

 その二つのせめぎ合い――相剋が。

 思い悩む秀綱は、己をじっと見つめる視線に気がついた。

 視線の主は――。


「……毛利どの、何か」


「……ああ、いや」


 気がついたら、他の安芸国人たちは、牛尾幸清の前に来て、というか詰め寄っている。先の元就の暑いという発言からの甲冑脱ぎがなければ、合戦さながらという雰囲気となっていただろう。

 ただ元就のみが、ひとり扇子を扇いでいた。

 その様子に、秀綱は、元就に何か策があることを察した。


「……毛利どの」


「何か」


 秀綱は、藁にも縋る思いで、元就の隣に座って話しかける。


「……これから、如何すべきかと思う?」


「これはしたり」


 元就は、扇子をたたんだ。


「さようなことは、出雲におられる尼子経久どのに聞けばよろしかろう」


 他意の無い、無難な回答であったが、それでも秀綱からすると、拒絶の反応と捉えられた。

 だが希代の謀臣である彼には、元就の欺瞞が感じ取られた。


韜晦とうかいは止したがいい、毛利どの。何ぞ策があるのなら、ご教示いただこうか」


 それこそ、それを経久に注進する、と秀綱は脅した。

 だが元就は涼しい顔をしていた。


「それが」


 人にものを聞く態度か、と元就は秀綱の腕をねじ上げた。


「痛ッ!」


「亀井どの」


「は、離せ、離しあれ」


 元就は腕を巧みに動かして、秀綱の耳を己の口の前に持ってくる。


「……元綱は、もっと痛かったはず」


「…………」


 秀綱は黙りこくった。

 牛尾幸清は、そして安芸国人は、今や「帰る」「帰るな」の押し問答に夢中で、秀綱と元就の「やり取り」に気づこうともしない。


「……かような相剋の策に淫してきた報いぞ。もはや……進退窮まれり、といったところか」


「……ぐっ」


 元就の膂力りょりょくは意外にも強く、秀綱は拘束から逃れられずにいた。


「……何か策は無いかと聞いたな」


 今や元就は、秀綱と同格あるいは格上のように振舞っていた。秀綱は従順にそれに従うことが、自然だと思えるくらい、元就は秀綱を圧倒していた。


「無いこともないが」


「……まことか?」


「まことだ」


 元就は手を離した。

 秀綱はうのていで転ぶように、その場に腰を落とした。

 床几しょうぎの上の元就。

 地に座す秀綱。

 これではまるで、主従のようだ。

 秀綱が抗うかのように立とうとすると、元就が口を開いた。


「策なら有る。だが……それには秀綱どのの協力が必要だが……如何いかん?」


 何が協力だ、何が如何だ。

 秀綱としては、もはや命令にも等しい言い様だと思った。

 だが。

 この場を打開する策を、戦を仕掛けることができる将帥は、毛利元就ただ一人だけであろう。

 尼子経久か久幸がこの場に来ればまた違った話になるが、来ぬ。それはない。


「大体、来られたら、そも、牛尾ごときが……」


「何か言ったか?」


 秀綱の呟きを酷くつまらなそうに聞き流す元就。

 その目に、早くしろという圧力を感じ、秀綱は覚悟を決めた。


「うけたまわった……」


かな


 元就は手を打った。

 場にいた他の国人たち、そして牛尾幸清もまたこちらを向く。

 秀綱は慌てて立ち上がる。

 このような、元就を相手にひざまずいたなどと、主君・尼子経久に知られたら、たまったものではない。


方々かたがた、そして牛尾どの」


 元就はいつの間にか立ち上がっていた。

 それは秀綱への配慮でもあるが、これから話そうということに注目を集めるためでもあった。


「こたびの戦、まことに残念至極。牛尾どのを始め、雲州の将兵の方々、ならびに第二陣の平賀どのを始めとする芸州の諸将たちの力戦敢闘むなしく、負け申したな」


 場の一同、水を打ったように静かになった。

 幸清としては憤懣やるかたないが、元就のおかげで全滅を免れたので、その辺は文句を言えない。平賀ら第二陣も同様である。


「そして」


 元就は手にした扇子を、掌に打ち付ける。

 その様は、さながら大軍を統べる将のごとき威風があった。


「今ここで、牛尾どのは出雲へ帰られるとの由……しかし」


 元就が、ぱちんぱちんと扇子を掌に打ち付けるたびに、並みいる諸将もぴくんと体を動かす。

 何回目かの扇子と掌の衝突音がしたとき。

 元就は言葉をつづけた。


「このまま帰られては、いかに尼子の功臣である牛尾どのとて、さしもの亀井どのの口添えがあったとしても……」


 閉じた扇子をわざとらしく首に打ち付ける元就。

 打ち首か、と第三陣の香川あたりは暗い笑みを浮かべた。


「そ、それは」


 困る、とまでは言わないところが、幸清の最後の意地だったかもしれない。

 彼はすがるような目つきをして、元就を見た。


「ど、どうすれば」


 それを口にした幸清を、堕ちたな、という目で秀綱が見ていた。

 いかに船岡山なり何なりで激戦を潜り抜けたとしても、それは尼子経久という巨大な才能の下にあってこそ。しかも、負けを知らぬ。大敗を。国や城を失うくらいの、絶望的な状況を。

 だがもはやこの場は毛利元就という、今さらながら認めるしかないのだが、不世出の名将に頼るしかない。

 城を失い、兄たる主君を失い、それでもなお生き抜いて、五倍もの敵を退けた、この、目の前の男に。


「さればでござる」


 今や、場にいる誰もが、牛尾幸清が、亀井秀綱が、安芸の国人たちが、元就の言葉を待ち望んでいた。

 大内軍別動隊、一万五千。

 この男ならもしや……その一万五千を退けることが、できるやもしれぬ。

 

 ぱん。

 元就が扇子で掌を打つ。


「では申し上げある」


 そして次の言葉に、一同は唖然とするのであった。


「お逃げ下され、牛尾どの」

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