8
「山野さん、電話入ってるわよ」
ある日の朝、始業のチャイムが鳴った直後に事務のおばさんが現場に来た。
パーマをかけた昭和の母親みたいな、優しいおばさんだ。
「あ、はい。誰からですか?」
「君崎さんって方からよ。女の人」
初めて聞く名前だった。
私の知り合いに「君崎」と苗字がつく人物はいない。
「誰だろ。ちょっと出てみます」
「お願いね」
増本課長に一言断り、おばさんと一緒に事務所へ走っていく。
デスクに置かれた白い電話機を取って、赤く光るボタンを押した。
「お電話かわりました、山野です」
すう、と息を吸う声が聴こえた。
受話器を当てた耳が、何だか冷たかった。
『はじめまして。私、陽さんの恋人で君崎と申します』
ひくっ、と息が詰まった。
両肩に寒気が走って震える。可憐な声に恐怖を覚えた。
頭が真っ白になって、どうしたらいいのか分からなくなった。
『会社の方には話していませんよ。安心して下さい』
「……ご用件は」
『今夜七時、書店前の歩道橋で』
きれいな声はそれだけ言って通話を切った。
呆然としながら受話器を置く。強い寒気と震え。
それなのに、服の下にはべっとりと汗が浮かんでいた。
ふらりと踵を返して事務所を後にする。
おばさんの呼び止める声が聞こえたけど、何を言っているのか分からなかった。
その日は全く仕事に集中できなかった。
仕事が終わったらいつも通りロッカーで着替えてタイムカードを押した。
噂好きの彼女とはあの日以来口を聞いていない。
気のせいか、職場の人たちに避けられている気がしていた。
社交辞令の「お疲れさまでした」を言いながら建物を出ると、
西の空に忌々しい夕陽が輝いていた。
陽が長くなった夕方六時は明るかった。
国道沿いにある大きな書店の駐車場は混み合っていた。
お店の入り口から一番遠い場所に車を停めて、
車の窓から道路にかかる緑色の歩道橋を見上げた。
……黒髪の女性の後姿があった。
「陽の、恋人……」
なぜだか、気持ちが逸る。
車のドアを開けて外に出たら、湿った空気がまとわりついてきた。
べとべとして不愉快だった。
歩道橋を上がったら、黒髪の女性が私を見つけて振り向いた。
歩く足はべたつく風に妨げられてものすごく重い。
言葉を交わすにはやや遠い距離で、私の足は止まった。
「……君崎さんですか」
「ええ。はじめまして、山野さん」
声は落ち着いていた。表情は、幽霊のように青くて怖かった。
そして、ぶくぶくと泡を立ててわきおこる劣等感。
直接バカにされたわけではないのに、
対峙しているだけで見下され、敗北した気分になった。
「水島家の父親はバブル景気でたくさんいい思いをしたんですって。やがてバブルが弾け、遊んだツケが返ってくると、息子の名前で借金を作って凌いでいたとか」
会社のあの子、噂が好きな子も借金の話をしていたっけ。
でも、それは私に関係のない話だ。
「私には関係のない話でしょ。それに、お父さんが作った借金なら、お父さんが払えばいいじゃない」
「大変遺憾ですが同じ意見です。でも、伝えたいのはそこじゃないんです」
「彼に奢ってもらった私から金をせびろうとでもいうの?」
「いりません。私が全部払いましたから」
「な……」
胸の鍋で泡を吹き続ける劣等感が沸騰していく。
「だったら、何。会社にまで電話して、何よ」
「気に入らないんですよ。彼を抱く覚悟もないくせに、彼から奪い続けたあなたが」
笑わない目。哂う口。ぞくぞく、と背筋に水が走った。
歩道橋に生ぬるい風が強く吹き抜けていく。
風に舞い上がる長い黒髪は、私に両腕を伸ばして襲い掛かる怪物のようで。
彼女は、全身全霊で私を拒絶していた。
「私は彼を抱きました。昨日も、今日も」
「…………」
「帰ったらまた彼を抱きます」
「……や、やめ」
「何をすれば、どこ触れば彼が悦ぶのかも――」
「やめて!!」
耳を塞いでしゃがみこんだ。
生ぬるい風に乗って運ばれる言葉は、私に張り付いてねばねばと首を絞めてくる。
地面に引きずりそうなロングスカートが私に近づいた。
ゆっくり見上げたら、白い顔が私を嘲り、見下していた。
「これが、覚悟の違いですよ」
女として負けた瞬間だと思った。
怖くて、悔しくて、涙がにじんだ。
「お宅の旦那さんには詳細を伝えてあります。あなたが『誘った』とね」
「いやあっ!」
「さようなら、山野さん。どうぞ死んでください」
長い黒髪とスカートが遠ざかっていく。
恐ろしい魔物が翼を広げて立ち去っていく。
高笑いをしながら。
長年付き合ってきた旦那と結婚したのは五年前。
同じ屋根の下で暮らしていればケンカだってするし、不満だって溜まる。
そんなとき、工場に入社してきたのが水島陽だった。
優しくて明るい彼は、工場の中でもすぐに人気者になった。
仕事でミスをすることもあるけど、
素直に認めて次を頑張る、真面目な人だった。
でも、彼は次第に笑わなくなった。
若くて人当たりのいい彼を、上層部は酷使し続けた。
毎日残業必須、休日返上の仕事量を任せ、更に他の部署への応援までさせた。
定期的に開催される飲み会では自棄酒になり、
彼が壊れてきているのは、薄々気がついていた。
旦那に不満が溜まっていた私は彼に近づいた。
今思えば、旦那との不仲は些細なケンカだった。
それなのに私は気持ちが大きくなり、違う男を作ってやると思った。
標的は、壊れかけた陽だった。
君崎と名乗った女の言う通り、私には覚悟がなかった。
些細なケンカくらいじゃ夫と別れるはずがないのに彼を誘った。
壊れかけた彼を、いいカモだと思って――。
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