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「山野さん、電話入ってるわよ」


 ある日の朝、始業のチャイムが鳴った直後に事務のおばさんが現場に来た。

 パーマをかけた昭和の母親みたいな、優しいおばさんだ。


「あ、はい。誰からですか?」

「君崎さんって方からよ。女の人」


 初めて聞く名前だった。

 私の知り合いに「君崎」と苗字がつく人物はいない。


「誰だろ。ちょっと出てみます」

「お願いね」


 増本課長に一言断り、おばさんと一緒に事務所へ走っていく。

 デスクに置かれた白い電話機を取って、赤く光るボタンを押した。


「お電話かわりました、山野です」


 すう、と息を吸う声が聴こえた。

 受話器を当てた耳が、何だか冷たかった。


『はじめまして。私、陽さんの恋人で君崎と申します』


 ひくっ、と息が詰まった。

 両肩に寒気が走って震える。可憐な声に恐怖を覚えた。

 頭が真っ白になって、どうしたらいいのか分からなくなった。


『会社の方には話していませんよ。安心して下さい』

「……ご用件は」

『今夜七時、書店前の歩道橋で』


 きれいな声はそれだけ言って通話を切った。

 呆然としながら受話器を置く。強い寒気と震え。

 それなのに、服の下にはべっとりと汗が浮かんでいた。


 ふらりと踵を返して事務所を後にする。

 おばさんの呼び止める声が聞こえたけど、何を言っているのか分からなかった。

 その日は全く仕事に集中できなかった。




 仕事が終わったらいつも通りロッカーで着替えてタイムカードを押した。

 噂好きの彼女とはあの日以来口を聞いていない。

 気のせいか、職場の人たちに避けられている気がしていた。

 社交辞令の「お疲れさまでした」を言いながら建物を出ると、

 西の空に忌々しい夕陽が輝いていた。


 陽が長くなった夕方六時は明るかった。

 国道沿いにある大きな書店の駐車場は混み合っていた。

 お店の入り口から一番遠い場所に車を停めて、

 車の窓から道路にかかる緑色の歩道橋を見上げた。

 ……黒髪の女性の後姿があった。


「陽の、恋人……」


 なぜだか、気持ちが逸る。

 車のドアを開けて外に出たら、湿った空気がまとわりついてきた。

 べとべとして不愉快だった。


 歩道橋を上がったら、黒髪の女性が私を見つけて振り向いた。

 歩く足はべたつく風に妨げられてものすごく重い。

 言葉を交わすにはやや遠い距離で、私の足は止まった。


「……君崎さんですか」

「ええ。はじめまして、山野さん」


 声は落ち着いていた。表情は、幽霊のように青くて怖かった。

 そして、ぶくぶくと泡を立ててわきおこる劣等感。

 直接バカにされたわけではないのに、

 対峙しているだけで見下され、敗北した気分になった。


「水島家の父親はバブル景気でたくさんいい思いをしたんですって。やがてバブルが弾け、遊んだツケが返ってくると、息子の名前で借金を作って凌いでいたとか」


 会社のあの子、噂が好きな子も借金の話をしていたっけ。

 でも、それは私に関係のない話だ。


「私には関係のない話でしょ。それに、お父さんが作った借金なら、お父さんが払えばいいじゃない」

「大変遺憾ですが同じ意見です。でも、伝えたいのはそこじゃないんです」

「彼に奢ってもらった私から金をせびろうとでもいうの?」

「いりません。私が全部払いましたから」

「な……」


 胸の鍋で泡を吹き続ける劣等感が沸騰していく。


「だったら、何。会社にまで電話して、何よ」

「気に入らないんですよ。彼を抱く覚悟もないくせに、彼から奪い続けたあなたが」


 笑わない目。哂う口。ぞくぞく、と背筋に水が走った。

 歩道橋に生ぬるい風が強く吹き抜けていく。

 風に舞い上がる長い黒髪は、私に両腕を伸ばして襲い掛かる怪物のようで。

 彼女は、全身全霊で私を拒絶していた。


「私は彼を抱きました。昨日も、今日も」

「…………」

「帰ったらまた彼を抱きます」

「……や、やめ」

「何をすれば、どこ触れば彼が悦ぶのかも――」

「やめて!!」


 耳を塞いでしゃがみこんだ。

 生ぬるい風に乗って運ばれる言葉は、私に張り付いてねばねばと首を絞めてくる。

 地面に引きずりそうなロングスカートが私に近づいた。

 ゆっくり見上げたら、白い顔が私を嘲り、見下していた。


「これが、覚悟の違いですよ」


 女として負けた瞬間だと思った。

 怖くて、悔しくて、涙がにじんだ。


「お宅の旦那さんには詳細を伝えてあります。あなたが『誘った』とね」

「いやあっ!」

「さようなら、山野さん。どうぞ死んでください」


 長い黒髪とスカートが遠ざかっていく。

 恐ろしい魔物が翼を広げて立ち去っていく。

 高笑いをしながら。





 長年付き合ってきた旦那と結婚したのは五年前。

 同じ屋根の下で暮らしていればケンカだってするし、不満だって溜まる。

 そんなとき、工場に入社してきたのが水島陽だった。

 優しくて明るい彼は、工場の中でもすぐに人気者になった。

 仕事でミスをすることもあるけど、

 素直に認めて次を頑張る、真面目な人だった。


 でも、彼は次第に笑わなくなった。

 若くて人当たりのいい彼を、上層部は酷使し続けた。

 毎日残業必須、休日返上の仕事量を任せ、更に他の部署への応援までさせた。


 定期的に開催される飲み会では自棄酒になり、

 彼が壊れてきているのは、薄々気がついていた。


 旦那に不満が溜まっていた私は彼に近づいた。

 今思えば、旦那との不仲は些細なケンカだった。

 それなのに私は気持ちが大きくなり、違う男を作ってやると思った。

 標的は、壊れかけた陽だった。


 君崎と名乗った女の言う通り、私には覚悟がなかった。

 些細なケンカくらいじゃ夫と別れるはずがないのに彼を誘った。

 壊れかけた彼を、いいカモだと思って――。

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