生まれきたる者 ~要らない赤ちゃん引き取ります~
京衛武百十
もえぎ園
乾池初美
そう、彼女は妊娠しているのだ。だが、その腹の子の父親の筈の男は彼女の前から姿を消して、行方すら知れない。
『ふざけるなふざけるなふざけるな…!』
ガジガジと齧られた彼女の親指の爪はボロボロになり、その爪と同じく彼女の精神もボロボロだった。碌なことのなかった人生でようやく幸せを掴めそうだと思った矢先のこれに、気も狂わんばかりに懊悩した。
男は優しかった。冴えない自分に『素敵だよ』と微笑みかけてくれた。『愛してる』とも言ってくれた。経済的には裕福じゃなかったからデートはいつも自分の部屋だったし、たまに外に出掛けてもデート代は殆ど自分持ちだった。それでも彼は優しかった。
優しかったのに……
初美が妊娠したと分かった彼は、
「そうか! じゃあ結婚しよう! その為には俺も仕事がんばらなくちゃいけないな!」
と言って、たまにしか会いに来なくなった。そのうちに、
「仕事が忙しくなってきたんだ。でも、その分、金も稼げてるよ」
と言ってますます会いに来なくなった。やがて電話にも出なくなり、ある時、
『この番号は現在使われておりません』
と自動アナウンスが流れるようになった。それでも初美は、『仕事が忙しくて連絡を忘れてるだけなんだ』と思って待った。待って、待って、やがて自分の腹の中で何かが動くのを感じてようやく思った。
『もしかして、私、捨てられたの……?』
その通りだった。彼女は捨てられたのだ。男の言っていたことは全て嘘だった。仕事などせずに他の女にタカって遊び暮らしていただけだった。そして携帯も買い替え、完全に初美との縁を切った。
彼女に残されたのは、携帯の中で微笑む自分と彼の写真数十枚と、お腹の子だけだった。
そして彼女は、自分が捨てられたことに気付いた瞬間、彼の、いや、<あの男>の子であるお腹の子に対するある感情が芽生えたことを自覚した。
殺意だった。子供に対する愛情も母性も微塵も芽生えることなく、あの男が残していったそれがただの汚物のようにさえ彼女には感じられてしまった。だから初美は、その子を<殺す>べく、酒をあおり不健康な生活をし、何度もわざと転んでみせた。
職場では『この忙しい時に妊娠とか』と嫌味を言われ疎まれ、冷たい視線を浴びせられた。
それなのに彼女の
遂には臨月に達し、彼女は会社に育児休業を申請、しかし休業明けに彼女の席はないだろうと思われつつも半年の休業に入った。
とは言え、これまで検診すら受けてこなかった彼女は出産の準備など何一つしておらず、産院の当てすらなかった。
それどころか彼女はもう、精神的におかしくなっていたのだろう。ネットで見付けたあるHPに記されていた電話番号に電話を掛けていた。
そのHPには、
『要らない赤ちゃん引き取ります』
の文字が、毒々しい飾りつけをされて書かれていた。
普通ならそんなもの、歯牙にもかけないだろう。ただの悪趣味な悪戯だと思うに違いない。けれどこの時の初美は、もうそれしか頼るところはないという視野狭窄に陥っていたのだった。
「お電話、ありがとうございます」
想像していたのとは違う、とても穏やかで優しい印象すらある、若い女性の声だった。
繋がるかどうかすら怪しかった電話番号に繋がったことで、彼女はいよいよ思考停止してしまった。
「お願い! 赤ちゃんを引き取ってほしいの!!」
普通ならまともとは言えないそんな言葉にも、電話の相手は落ち着いて対応してくれた。
「はい、分かりました。赤ちゃんはもうお生まれですか?」
「いえ、これからです」
「ああ、それは良かった。出産予定は分かりますでしょうか?」
「分からないですけど、もうすぐ生まれるかも……」
「ではお住いの地域を教えていただけますか?」
「○○県○○市です」
「そうですか、幸い、ちょうど空きがありますから、今から申し上げる産院に連絡を取っていただけますでしょうか。こちらからも連絡しておきますので、すぐにでも入院していただけます」
言われるままに産院に電話をすると、
「こちらでタクシー代は負担しますので、タクシーで来ていただけますか。印鑑と保険証と着替えだけは用意していただけると助かります」
と、年配女性らしい声の受付の人物に指示され、初美は、着替えと財布と保険証と携帯だけを持ってそれに従った。
タクシーで三十分ほど走って、人家もまばらな山の中にその産院はあった。しかし、タクシーに乗っている間に、初美の体に異変が生じていた。腹が、ぎゅーっと締め付けられるように痛むのだ。
到着前に電話してもらえると助かると言われていたのでその通りにすると、産院の前には七十代くらいと思しき女性が立っていて、タクシー運転手に代金を払い、腹の痛みを訴える初美を支えるようにして院内へと導いた。
そこは、まるで昭和初期の頃からあるのかという古びた産院だった。そして初美を迎えた女性こそが、この産院の院長だった。
「陣痛が始まってるね。このまま入院してもらうよ。明後日までには多分産まれるわ」
見た目の割には張りのある声で、その女性は淡々と言った。有無を言わせぬ雰囲気だった。そして初美はそのまま入院し、翌日の昼に、赤ん坊を産んだ。女の子だった。
しかし初美は、その赤ん坊の姿さえ見ることができなかった。乳をやる時には何故か目隠しされ、赤ん坊の姿を見ることなく乳を含ませた。
生まれる前にそう指示されてたのだ。
「最後に確認するけど、赤ん坊は要らないんだね?」
「はい、要りません」
「分かった。じゃあ、あなたはもう、この子の母親じゃない。ここにいる間だけ乳をやってくれればいい。その間、赤ん坊の姿も見ずに済むように目隠しをしてもらうわね」
そうして一週間、初美は古びたベッドの上で目隠しをしたまま赤ん坊に乳をやった。赤ん坊は別室で寝かされていて、時々、泣き声が聞こえたが、彼女は特に何も感じなかった。目隠しをしていてもその重みや体温は感じるのに、それに対しても何の感情も湧いてこなかった。ただそう言われたからそうしただけだった。
むしろ、彼女に出された、大根の煮付けや味噌汁といった食事が何故かとても美味しく感じられて、そのことがすごく印象に残った。
退院の日、初美は一枚の紙を渡された。赤ん坊の死産届のコピーだった。赤ん坊は死産だったということにされたのだ。
一瞬、その赤ん坊がどうなるのだろうというのが頭をよぎったが、もう自分には関係ないことだとすぐに忘れた。
帰りは、最寄りのバス停までの地図を貰って一時間歩いて、バスに乗って帰った。
「う……うう……」
そのバスの中で何故か分からないが涙が込み上げてきて、初美は唇を噛み締めて嗚咽したのだった。
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