31. 脳筋の仕事

 小学校の頃、うじうじした奴だと馬鹿にされた。

 中学校の頃、暗い奴だとさげすまれた。

 だから、高校生になったら変わってやろうと決心した。

 だから、なんとか友達を作ろうと無理をした。

 だけど、ダメだった。

 クラスメートの話を真剣に聞いたのにダメだった。

 冗談を冗談だとわからず、それでも必死についていこうとしては空回りばかり。

 挙句の果ては。


 藤代さんって変わってるね。


 引き攣った笑み。奇異な物を見るような目。腫れ物を扱うような振舞い。


 その時、私の心には決して壊すことのできない鋼鉄の鎖が雁字搦めに絡みついたのだった。


 *


 チャイムの音で目を覚ます。寝ぼけ眼のまま真っ暗な部屋の中に手を伸ばした。暗闇だからといって物を探すのに不自由することはない。なぜなら自分は一日の殆どをこの光の一切差さない部屋で過ごしているのだから。

 お目当ての時計を手に取り時間を確認する。午前六時半。来客するには余りにも早い時間帯。だが、自分には関係のない事だ。こんな時間に自分を訪ねてくる者などいない。以前だったら『こんな時間に』などという余計な言葉は要らなかった。だが、今は部屋から出ることもできない臆病者の自分に会いに来てくれる人達がいる。いや、。せっかく会いに来てくれているというのに、あんなにも明確に拒絶をしてしまえば、もうここに来ることはないだろう。つまり、自分に会いに来るものなどいない、という結論は何も変わりはしない。

 なのになぜだろうか。どうしてこんなにも胸騒ぎがするのだろうか。

 母親が階段を上がってくる音がする。朝食が出来たという連絡には時間が早すぎる。……いや、ちょっと待て。階段を上る音が一人分ではない。その事実を知り、自分の心臓が跳ね上がった。

 震える手で部屋の前に設置しているカメラの起動ボタンを押す。そして、すぐにカメラの映像を受信するモニターへ視線を向けた。


「うそ…………なん……で……?」


 そこに映っていたのは、毎日のように見ていた二人の同級生の姿だった。一瞬のうちに頭の中が真っ白になる。


「…………環さん」


 ビクッ。信じられないという思いのままゆっくりとモニターから扉の方へ視線を移す。


「おはよう、環さん」


 このビロードのように透き通る声。間違いない。渚美琴のものだ。モニターは録画の映像ではなく、今現在起きていることを如実に映し出している。


「ごめんね、こんな朝早くに。今日はね、お話をしに来たのよ」


 ごくりとつばを飲み込んだ。この状況を理解するにはもう少し時間が必要だ。


「そういえばこうやってゆっくり話をする事なんて今までなかったわね。ここに来ればすぐに群戦を始めていたから」


 美琴の声はとても優しい。いつだってこの声に包まれていた。彼女の声を聞いているだけで、自分は安らぎを得ることができた。


「別にそれが悪いって事じゃないのよ? 最初はたかがゲームに、って思っていたけど、やればやるほどハマっていったし、久我山君とあなたと三人で夢中になって敵を倒している時は本当に楽しかったわ。……でも、もう少し他の話も出来ていればな、って今になって思うの」


 そこで言葉を切った美琴は覚悟を決めるように小さく深呼吸をする。


「……私はね、環さん。生徒会長の命を受けてあなたを学校に来るよう説得するためにここへ来ていたのよ」


 胸の奥がズキッと痛んだ。……何を傷ついているんだ? その可能性は最初から頭にあったじゃないか。


「生徒会役員として、会長からの直々の依頼はとても名誉なもの……だから、私はその期待に応えようとあなたの所に訪れたの」


 自分と一緒にいることが楽しいから来てくれているとでも思ったか? 自惚れるのも大概にしろ。自分にそんな価値がない事は自分が一番わかっているじゃないか。価値がない事を知られないために、こうやってこそこそと隠れているんだろう?


「はっきり言ってしまえば打算的な行動ね。引きこもりの女子生徒を家から連れ出してポイント稼ぎをするのが目的だったのよ」


 やはり自分はこの牢獄にいるべきだ。誰の目にも触れることなく、人知れず朽ち果てるのがお似合いなのだ。


「……ここに初めて来たときはね、そう思っていたのよ。でも、今はそんな事より大事な事を見つけたわ」


 反射的に顔が上がった。目の前には部屋の扉しかないというのに。


「知ってる? 四月中に一度も学校に来なければあなたは清新学園から離れなければならないのよ?」

「…………え?」


 耳を疑う発言に思わず声が出た。清新学園を離れなければならない? それはつまり……。


「登校する意思のない生徒は清新学園にいる必要はない……心底気に入らないけど、それが学園の方針みたいね」


 美琴の声音に僅かな怒りが混じる。そうか……自分は学校に見放されたのか。だが、それは致し方ない事だ。半年以上も学校に顔を出さない生徒を優遇する必要などない。そう頭では理解しているし、碌に行ってもない学校に何の未練もない。ないはずなのに……。


 どうしてこんなにも胸が苦しいのだろうか。


「……昨日ね、誰かさんに言われたの。『お前は誰のためにそんな必死になってるのか』って。その時は答えられなかったけど、今ならはっきり言えるわ。……モニターを見なさい」


 息苦しさに襲われながら、美琴の言う通りモニターの方を見る。すると、鬼気迫る表情で美琴が自分を睨みつけていた。


「私はねっ!! 私のために必死になっているのよ!! それ以上でもそれ以下でもないわっ!!」


 扉越しにでもわかる怒声。思わず体が強張った。


「会長のためでも、あなたのためでも、あなたのお母さんのためでもないっ!! 私がっ!! 私の友達と楽しい学園生活を過ごすために必死になっているのよっ!!」


 私の友達……? え……今なんて……?


「顔も合わせずに一緒にゲームをやって楽しい!? 冗談じゃないわ!! 環っ!! あなたが知らないだけでねぇ!! もっともっと楽しい事がたっくさんあるのよっ!!」


 カメラを睨みつける美琴の目から涙が流れ出る。なぜだかモニターの映像がぼやけて上手く見ることができない。


「だから出てきなさい環っ!! 私のっ、私のために!! 長い間部屋の中に閉じこもっていた事を後悔するくらい、いっぱい、いっぱい、いーっぱい楽しい思いをさせてやるんだからぁ!!」


 自分の手の甲に温かい雫が大量に滴り落ちる。その手が自分の意志とは関係なく、部屋のドアノブにゆっくりとゆっくりと伸びていった。


 ──藤代さんって変わってるね。


 ピタッ。ドアノブに触れる直前でその手が止まる。勢いよく引き戻すと、自分を守る様に胸の前に持っていき、もう片方の手で包み込んだ。


「何とか言いなさいよっ!! 私は全部さらけ出したのよっ!?」


 美琴の声が自分の鼓膜を刺激する。もう嫌だ。これ以上は聞きたくない。


「あなたが出てくるまで私はここで怒鳴り続けるわっ!! 迷惑だって思われたって構わないっ!!」


 彼女は自分とは違う。彼女は……彼女は……!!


「環っ!! 私は」

「美琴は強いからっ!!」


 いきり立つようにその場で立ち上がり、扉に向かって吠えた。ぷつりと美琴の声が聞こえなくなる。


「美琴は強いからそんな事が言えるんだっ!! でも、私には無理なの!! 私は臆病者だからっ!!」


 決壊した『感情』という名のダムはどうする事もできない。ただ全てを呑み込むため暴力的に溢れ出てしまう。


「私が学校に行くことができないのは人と向き合うのが怖いからっ!! その理由もくだらないっ!! 空気の読めない私が空気を壊してしまった時のクラスメートの顔が忘れられないからなのっ!!  ただそれだけっ!!」


 本当にくだらない。そんな事は自分が一番わかってる。だからこそ、自分を苦しめる。いじめられたから学校にいけない、って理由であればどれだけ楽だったことか。


「強いあなたなら鼻で笑っちゃうような理由だよねっ!? でも、臆病者な私はダメなのっ!! 眠るたびに悪夢に襲われるっ!! 思い出すだけで体が震えて動かなくなるっ!! 呼吸も上手くできなくなっちゃうのよっ!!」


 夜中に目を覚まして何度涙を流したことか。別に可哀想だなんて思ってもらいたくない。弱い自分がすべて悪いのだ。


「私だって……私だって美琴や颯空君と楽しい学生生活を送りたいっ!! 初めてそんな風に思える友達ができたと思ったっ!! 美琴が私を友達だって言ってくれた時、心の底から嬉しかったっ!! でも、ダメだった!! この部屋の扉を開けて外に出る勇気がないっ!! 本当は一緒に学校に行きたいのにっ!! 私の体がこの扉を開けることを全力で拒絶するのっ!!」


 何度この部屋を出ようと思ったか。特に、この二人が来てくれるようになってからは。厚さ五センチほどの木で出来た板が、どんなに頑丈な鉄の扉よりも分厚く立ちはだかってしまう。


「足が竦んで部屋から出る事も出来ない私は本当にダメな臆病者なの……!! あなた達のようにはなれない……!!」

「環……」


 涙で顔をくしゃくしゃにしながらその場で崩れ落ちる。全てを吐き出してしまった。初めて友達と呼べる人達が自分のためにここまで来てくれているというのに。不甲斐ない。情けない。嘆かわしい。

 自分の周りが静寂に包まれる。外に出ることができる唯一の道しるべを失ってしまった。いや、差し出された手を自ら払いのけたのだ。最早こんな自分を拾い上げようとする者など、誰一人としていない。


「おーい、環。聞こえるか?」


 絶望に染め上げられていた自分の耳に、場違いな声が聞こえた。この声も知っている。自分にはない力強さを持った声だ。


「いいか? 出来るだけドアから離れてろ」

「え?」


 言葉の意図を理解することができなかった。そもそも今は脳みそが回らず、考えることができない。だから、言われるがまま体が勝手に扉から距離を取った。


「ちょ、ちょっと!! あんた何しようとしてんのよ!?」

「うるせぇな。黙って見てろ」

「手を引くんじゃなかったの!?」

「環が学校に行きたいって思ってんなら別だ」


 なにやら美琴が慌てている。一体颯空は何をしようとしているというのだろうか?


「おばちゃん。ちゃんと弁償すっから勘弁な」

「……言ったでしょ? 信じてるから思いのままにやって、って」

「はは。そうだったな」


 母の言葉を受け、颯空が楽しげに笑った。わからない。彼が何をしようとしているのかまったく……。


「よっしゃ! じゃあ、一発かますぜぇぇぇ!!」


 ドゴォ!!


 颯空の気合のこもった声の後に間髪いれずに響いた凄まじい破壊音。同時に弾け飛ぶ部屋の扉。そして、差し込む光。その光景を自分は茫然と見つめていた。


「た、環! 大丈夫!? 怪我してない!? ……って、あんた血が出てるじゃない!?」

「あぁ? ……久々に殴ったから鈍ってんな」


 血が滴る自分の右手を見て颯空が舌打ちをする。頭がまったく動かない。思考する機能が完全に失われたようだ。だから自分は、目つきの鋭い強面の男の子をボーっと見つめる事しか出来ない。


「……なぁ、環。俺は脳筋だからよ、こういうやり方しか知らねぇんだわ」


 そんな自分を、開け放たれた扉の先から颯空が真っ直ぐに見据えながら言った。


「邪魔な壁をぶっ壊すのは脳筋である俺の仕事。そっから先は大将であるお前の仕事だ」

「っ!?」


 いつぞやの城攻めの時の言葉。颯空が自分の前に立ちはだかる壁を見事に打ち壊してくれた。だったら、この後自分がやるべき事は……?

 ゆっくりとその場で立ち上がる。冗談みたいに足が震えていた。だからどうした? 敵の懐に入り込むチャンスをみすみす不意にする者が群戦プレイヤーと言えるだろうか?

 物が散乱している部屋の中を光に向かって一直線に進んでいく。あと少し……あと数歩足を進めるだけで、この牢獄から出ることができる。

 呼吸が荒い。眩暈もする。それでも、自分を見守ってくれる二人の方へ行く。行きたい。


 そして――。


 扉の先に足を踏み出した時、力強く引っ張り出された。


「バカ環っ!! 出てくるのが遅いのよっ!! 遅刻しちゃうでしょっ!?」


 自分の事を強く、強く抱きしめながら美琴が言った。自分もその体を強く、強く抱きしめ返す。


「ちゃんと自分の足で出てこられたじゃねぇか。大将さん」

「うん……うん……!! ありがとう……!! 本当にありがとう……!!」


 涙が止まらない。でも、これは怯えた涙じゃない。自分がこんなにも温かい涙を流せるなんて思わなかった。


 私は今日、大切な友人の力を借りて、自分を縛り付けていた鎖を粉々に引きちぎる事ができたのだ。

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