10. ルール

 汗だくの美琴が商店街の入り口に辿り着いたのは、颯空から連絡を受けてから十五分後の事だった。久しく全力疾走というものをしてこなかった美琴が、そんなになるまで本気で走ってきたのはひとえに颯空のため……というわけではもちろんなく、一秒でも早く颯空に罵倒の言葉を浴びせたかったからだ。

 肩で呼吸しながら辺りを見回し、商店街のアーケードに寄りかかってる颯空を見つけると、鼻息を荒くしながらずんずんと大股で近づいていく。


「ちょ」

「遅かったな。さっさと行くぞ」


 颯空は美琴を一瞥すると、さっさと歩き始めた。あまりの扱いに言葉を失う美琴だったが、颯空がスタコラ歩いて行ってしまうので、やり場のない怒りを抑えながら仕方なくその後を追う。


「ま、待ちなさい! どうして急に呼び出したりしたのよ!?」

「お前に見せたいものがあってな」

「見せたいものって何!? 行き先ぐらいちゃんと教えなさいよ!」

「ついてくれば分かる」


 まるで答える気のない颯空に、美琴のイライラは最高潮に達していた。とはいえ、わざわざここまで来てしまった手前、怒りにあかせて家に帰るというのも面白くない。ここは見せたいものとやらを見て、どうせ下らないものだろうからその時ありったけの罵詈雑言をぶつけよう。そう心に決めた美琴は煮えくり返るはらわたを、いつでも戻せるように一旦端っこへと追いやった。

 しかし、颯空が自分に見せたいものとはいったい何なのだろうか。てっきり、商店街に関する事かと思いきや、商店街からはどんどん離れていっている。この先には無数の自動車が往来する大通りしかないはずだ。そんな場所に自分が見たいものなどあるわけもない。


「…………ねぇ? この先には道路しかないわよ? あるとしても通りに面したビルだけよ」

「あぁ、そうだな」


 適当に返事をした颯空が歩みを止める事はない。これ以上何かを問いかけても無駄だと悟った美琴はため息を吐きつつ、黙って颯空の後について行った。

 大通りに出てから、車道に沿ってしばらく歩いていた颯空だったが、おもむろに立ち止まる。下を向きながら歩いていた美琴は危うく颯空の背中にぶつかりそうであったが、寸でのところで止まった。


「ちょっと! いきなり止まらないでよ!」

「……ほれ」

「は?」


 美琴の苦情を完全に無視して颯空がある場所を指差す。反射的に目を向けると、そこでは大掛かりな道路の工事が行われていた。それを見た美琴が訝しげな表情を浮かべる。


「あれが何よ?」


 日中に比べて車通りが減る夜間に道路の工事をするのは別に珍しい事でもなんでもなかった。いや、言ってしまえば、ありふれた工事でも、珍しい工事でも興味などない。美琴には颯空が自分を呼び寄せた理由がまるで分らなかった。


「よく見てみろ」

「そんな事言われたって、ただの工事じゃない」

「……気づかないのか?」

「何がよ?」


 なにやらなぞなぞでからかわれているようで気分がよろしくない。かといって、素直に答えを聞くのも負けた気がしたので、不貞腐れながら、美琴は工事現場の様子をじっと観察する。そして、ある作業員に視線が向いたところで、その目を大きく見開いた。


「え?」


 思わず声が零れる。見間違いではないかと、美琴は目を凝らしてその作業員を見つめた。……どうやら間違いないようだ。


「どうにも俺は物覚えが悪くてよ。なんつったっけ?」

「…………佐藤さとう武夫たけお

「そうだそうだタケ夫だ! でも、たこ焼きのイメージが強いからタケ夫っていうより、タコ夫って感じだな」


 颯空の軽口には一切反応せず、美琴は武夫の事を凝視していた。学生がアルバイトをする理由は単純明快だ。遊ぶ金が欲しい、その一点に尽きる。だが、ただ遊びたいだけの人があんなにも汗みどろになってお金を稼ごうとするだろうか。


「それにしてもよく働くよなぁ、あいつ。ちょっと前まで商店街でたこ焼き焼いてたのによ」

「…………それだけ遊ぶお金が欲しいんでしょ」


 小骨が喉に引っかかるような自分の答えに、美琴は僅かに顔を歪める。


「なるほど、遊ぶ金が欲しいのか。……だから、明日の朝は日が出る前から新聞配達のバイトに勤しむってわけだ」

「っ!?」


 それまでじっと武夫を見ていた美琴が勢いよく顔を向けると、ガードレールに軽く腰かけた颯空が肩をすくめた。


出鱈目でたらめじゃねぇよ。本人から聞いたんだ」

「それって……!!」


 学校にいる時間以外の殆どの時間をバイトについやしているという事だ。だとすれば、そうまでして得た金を彼はいつ使うというのだろうか。わからない。だが、これだけは明白だった。佐藤武夫は遊ぶ金欲しさにバイトをしているわけではない。


「……あいつの家、五人兄弟なんだとよ」


 遠い目で武夫の事を見ながら颯空が言った。その言葉だけで美琴は全てを察する。名門と呼ばれる清新学園は当然他の高校に比べ学費が高い。法外というわけではないにしろ、特待生でもなければ、その負担は家計に重くのしかかってくる。自分の他に四人も兄弟がいればなおの事だ。


「……佐藤君について随分と詳しいのね。さっきまではクラスメートだって事すら知らなかったのに」

「あぁ。たこ焼き食いながら色々聞いたからな」

「買い食いは校則違反だって忠告したはずよ」


 そう力なく言うと、美琴はガードレールにもたれかかった。そして、感情の読めない顔で武夫の様子を眺めている颯空の方へ顔を向ける。


「どうして彼から話を聞いたの? 清新学園の生徒が遊ぶお金欲しさにバイトするわけがない、とでも思った?」

「まさか」

「じゃあ、どうして?」


 この男は自分と別れた後、わざわざもう一度あの場所に赴いて話を聞いた。その行動は何かしら理由がなければ説明がつかない。


「別に大した理由なんかねぇよ。たこ焼きを焼いてまあいつの手を見た時に疑問を感じただけだ」

「手?」

「あぁ。あいつの手、いくつかマメがあってな。前に工事現場でバイトしていたダチの手も似たようにマメができてたから聞いてみたんだよ。『工事現場のバイトもしてるのか』ってな」

「……なるほど。それでいくつもバイトを掛け持ちしている事を知り、その理由を尋ねたって事かしら?」

「まっ、そういう事だな」


 颯空から話を聞いた美琴は深々とため息を吐いた。呆れからではない。今、彼女の中では激しく葛藤かっとうが渦巻いていた。やっとの思いで校則違反をしている生徒を見つけたというのに、その行動に理由があったとは。本音を言えば、美琴にとってそれは知りたくもない真実であった。


「……けれど、彼が校則を破っているのは事実よ」


 美琴は地面を見つめながら心のモヤモヤを無理やりかき消すように硬質な声で言った。颯空がこちらに視線を向けたのは気配で察したが、顔を向けようとはしない。


「どんな理由があろうと、ルールを破る事は許されない。もし、それを許してしまえばルールはないもの同然となり、清新学園というコミュニティは崩壊するわ。ルールという枠組みがあってこそ、私達は安心して学園生活を送る事が出来るの」


 治安はルールによって保たれる。自分の言っている事に間違いはない自信があった。なのに、なぜだろうか。美琴は颯空の顔を見る事がどうしてもできなかった。


「……それがお前の答えか?」


 二人の間に流れた沈黙を破ったのは、颯空の平坦な声だった。思わず美琴は顔を上げ、颯空の方を見る。そんな彼女を見て、彼は苦笑いを浮かべた。


「そんな顔すんなよ。別に責めてるわけじゃねぇ」

「…………」

「元々、校則云々うんぬんルール云々うんぬんは俺の門外漢だからな。口出しなんて出来ねぇよ」


 美琴はゆっくりと颯空から顔を背け、再び地面に視線を落とす。彼女自身、自分の言った事に納得していないのだろう。でなければ、あんなにも泣きそうな顔をするわけがない。それがわかって颯空は内心ホッとしていた。


「けどよ……」


 だからこそ、彼はあえて自分の思いを彼女にぶつけてみることにする。ポケットに手を突っ込み、あるものを取り出した。


「ルールを破って家族のために頑張ってる奴を吊るし上げる事で学園の秩序を保つ、ってのは俺が入りたい生徒会じゃねぇよな?」


 颯空がポケットから取り出した紙きれを指で挟んで、見せびらかすようにひらひらさせる。一瞬、それが何なのかわからなかった美琴であったが、理解すると同時にはっと息を呑んだ。

 それは今日の放課後、美琴が颯空に渡したもの。神宮司しんぐうじまことから質問された時に備えて彼女が考えたカンニングペーパー。生徒一人一人に寄り添う存在こそが生徒会、という彼女の思いが込められた紙そのものだった。


「……簡単に言ってくれるわ」


 美琴は唇をグッと噛み締めた。そして、親の仇を見るような目で颯空を睨みつける。


「立派な理想を掲げてるだけじゃ何の意味もないのよ! その理想を形にする力がなければね! その力を手にするために私は……私は……!!」


 果たしてそれは颯空に向けて発した言葉だったのだろうか。最後の最後で言葉を切り、美琴の剣幕に若干圧されている颯空に背を向けた。


「……帰る」


 小さいながらも有無を言わさぬ口調でそう告げると、美琴はトボトボと歩き始める。その後ろ姿を見つめながら颯空は小さくため息を吐くと、持っていた紙を丸めて自分のポケットの中へとしまった。

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