第6話 菩薩

 菩薩には男女の別がないという……

 観音様の化身のようだ……


 仙千代は矢合やわせ観音菩薩に参ったばかりで、

微笑しているかに見えた今朝の観音様を思い浮かべた。

 

 その人は仙千代の横に腰を下ろすと、


 「空気が澄んで、冬は三河の山までくっきりと……

四方の山々が尾張を飾る屏風のようじゃ」


 と、風流なことを言った。

 ただ、今の自分はギンナン臭をまき散らしていると思い出し、


 「臭いませぬか?」


 と、横顔に確かめた。


 「うむ。臭わぬことはない」


 前を向いたままおそらくちょっと困った顔をしていた。


 「御不快でしょう」


 「ギンナン坊主が唐土もろこしの天空図を知っているのが興しろい」


 こちらを見るとにっこり笑った。

 笑顔は雰囲気の優しさを際立たせ、絵草紙で見る天女を思わせた。


 「星が好きなのだな」


 「星も空も雲も」


 「遠くを眺めると心が休まる……」


 初めて会ったはずなのに前から知っていたように、

今までの誰より親しく、懐かしく感じられた。

 仙千代の匂いも気にせず、その人が堤で隣に座った時、

兄弟の居ない仙千代は、


 兄とはこういうものなのだろうか……

 それともいつか何処かで既に逢っていたのだろうか……


 と有り得ない夢を胸に描いた。


 「何故、ギンナン坊主になったのだ?」


 「落ち葉に滑り、転びました」


 「確かに着物の背が汚れておる」


 「転んだついで仰向けで空を見ておりました」


 嘘や誤魔化しが嫌で、正直に話した。

冗談にせよ、馬鹿にされ、笑われると思った。

 観音菩薩の「化身」は嘲笑う真似をしなかった。


 「紫微垣が見えたのだな。朝の空でも」


 この人は面白い言い方をされる……

 並んで座って、一緒に居てくれる……


 新鮮な驚きを覚える。

紫微垣、つまり星達が、

朝には姿を消しても存在がなくなったのではないという感覚を共有し、

仙千代の幼稚な失敗を茶化すことなく、

砂に水が染み入るように、すんなり受け止めてくれる。


 仙千代は、万見家に養子として入り、唯一の男子として育った。

 生家の神子田みこだ家は兄が何人も居り、

仙千代は生まれついて既に、養子、寺小姓、実家の部屋住み、

それらどれかに人生が決められていた。

 万見家は、鯏浦うぐいうらの神子田家正室方の縁戚だった。

仙千代は字を覚えるか覚えないかの年齢で姓が変わった。

 実父母は既に他界し、記憶に薄い。

 

 期待の跡継ぎということで、父からは、

刀術、槍術、兵法、論語、書を学び、

母や四人の姉達は礼法、茶道、歌道を教えてくれる。

 仙千代には妹も一人居て、御世辞にも豊かな家とは言えないが、

そんな家計状況でも、馬術は師範に付いていて、

それらのどれも不器用な質だと知っていればこそ熱心に取り組んだ。

父母はじめ、皆から非常に大切にされているという認識があって、

その恩を返さねばならないという思いは強い。


 ただ、仙千代は、傍から見れば奇矯と映る

行動を取ってしまうことが度々あって、長じるにつれ、

そんな自分とどう付き合えば良いか、困惑することが間々あった。

 例えば今日も今日とて、観音様に参ったは良いが、

転んだついでとはいえ、空を眺め、落ち葉と遊び、鳥の囀りに耳を傾け、

そんなことをしているうちに早朝から家を出た本来の目的を忘れ、

あろうことか盛大に遅刻してしまい、

しかもギンナン臭で使い物にならず、年長の彦七郎に叱られる始末で、

自分でも何故このような性格なのかと落ち込みもする。

 そして、そんな自分でも家族、仲間達は良くしてくれる。

だからこそ、妙な失敗を繰り返す学習能力の無さに辟易し、

その都度、後悔し、皆に申し訳なく思うのだった。

 

 「どちらからいらしたのです?」


 つっと口に出た。

 身体をひねって、二人の右後ろを指した。

そちらは木曽川上流域、尚も西なら岐阜だった。


 「坊主は?」


 「海辺から」

 

 名を尋ねても何にもならないことは知っていた。

しかし、年長者に対し無礼だと分かっていながら訊いた。


 「御名前は?」


 「奇妙な名じゃ」


 「奇妙な?」


 その時、こちらへ向かって幾人かやってくるのが見え、

「化身」は立ち上がると、


 「もう転ばぬようにな。

打ちどころが悪ければ、それこそ天に召される羽目に」


 「有り難う存じます!」


 脈絡のない大声で、

まったく気の利かない返事をするのが精一杯だった。

突然の別れで、動転していた。

 が、そもそも、「別れ」といっても互いに通りすがりで、

二度と会うことはない。


 仙千代は敢えて振り切るように視線を三宅川へ遣った。

「化身」を目で追うことはしなかった。


 楽しかった、なれど今朝が最初で最後……


 優しい羽衣で包まれているかのようなひと時だった。

けれど、それはたちまち霧散して、

後はもう、幻だったのだと言い聞かせるしかなかった。




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