第40話クナイ7
薪が尽きて死ぬ覚悟を決めていたあの日の朝まで、ハンナは毎日掃除をかかさず家は綺麗に保たれていた。それをずっと見ていたはずなのに、俺はまだ『あの男の奥様』をやっていたハンナのイメージばかりが先行してしまっているらしい。
「……そうか。じゃあ俺は買い出しに行ってくるから、掃除は任せていいか?」
「ええ、いってらっしゃい」
見送る言葉をかけられたが返事ができず結局黙ったまま家を出た。
何とも言えない気持ち悪さを覚えながら、日用品や食料を見繕うために商店が立ち並ぶ通りに向かう。
ここまで来てからようやくハンナがなにを必要としているのか訊いてこなかったと気付いた。買い物ならばいっしょに来ればよかったと思ったが仕方がない。今日は最低限のものを買い、明日またハンナとくればいい。
思いつくだけの生活用品と、保存のきく食料を適当に選び取ったが、最低限のつもりでも結構な量になってしまった。普通の人間がどの程度物が必要なのか、それすらも俺は分からないのだと気付いて、改めてハンナを連れてくればよかったと後悔した。
ひとまず購入した荷物を抱え、家に戻ると玄関先でハンナが誰かと立ち話をしている姿が目に入った。相手は若い男と少年で、ハンナは軽く笑みを浮かべて子どもになにか話しかけている。
速足で彼女に近づき、声をかけた。
「ハンナ!」
するとハンナは顔をあげ、笑顔の残ったままの表情でこちらを見た。一瞬どきりとして怯みかけるが、表情には出さず彼女の隣に立った。
「……こちらは?」
「お隣の方です……玄関を掃除していたら、ご挨拶してくださって……」
目の前に立つ男は隣の住民だった。
「ああ、すみません。隣に住むフォードと言います。こっちは息子のエイデン。外に出たら空き家だったこちらに誰かいらしたようなので、つい声をかけてしまいました。旦那さんですか? 綺麗な奥様ですねえ」
男が横目でハンナを見る。その目線になんとなく嫌なものを感じて、彼女を隠すように前に出る。
国を出てから使っている偽名を名乗り、仕事でしばらくこの町に滞在することになったので家を借りたのだという説明をすると、男は納得したようだった。
この集落は移民が多く住むため、数年でまた移住していくというのはよくあることだ。またすぐにいなくなるのだから、仲良く近所づきあいをする気はないという牽制を込めた発言だったが、相手にはちゃんと伝わったようだ。
「では、失礼」
未練がましそうにハンナに目線を送る男を振り切るように無礼ギリギリの態度で話を切り上げるが、ずっとこちらを見ている気配を感じ嫌な気分になった。俺ではなく、ハンナの姿をなめるように見ている。扉を閉めるとようやく男は息子を促して家に戻っていった。
家に入ったハンナが様子を窺うようにちらりと俺の顔を見た。
「必要以上に近所の人間と口をきくな」
ハンナはあまり認識がないようだが、祖国は呪詛を使う危険な国だと言われていたので、他国では忌避される存在だった。
戦禍から逃れようと多くの国民が周辺国に亡命を望んだが、そのほとんどが受け入れられなかった。
あの国の者は人を呪う危険な存在だと思う人々も少なくない。
見た目だけでは俺たちがあの国の出身だとは気付かれないだろうが、何も知らないハンナが出身を口にしてしまうかもしれないから、そもそもあまり他人と会話をさせたくないようにしていたが、もうひとつの理由として、見目の良い女は特に男の印象に残りやすいから余計に会話をさせたくなかった。
ハンナはあの国では死んだことになっている。遠く離れたこの地に彼女の顔見知りと会う可能性はほとんどないだろうが、噂になるような真似は避けたい。
何故、と問われれば説明するつもりだったが、口をきくなと言った俺の言葉にハンナは頷くだけで問い返してはこなかった。
家の中に入るよう促し、買ってきたものを机に並べていると、食料品を見たハンナが珍しく自分から話しかけてきた。
「食事……私が作りましょうか?」
「……は? お前がか?」
「あ、いえ、良ければの話で……」
まさかの提案に驚いて返答に詰まる。ハンナが自分から何かを言い出すのは初めてだったのでどうすべきか一瞬迷った。
「お前が、嫌でなければ頼む。俺は、料理は……上手くないからな」
毒の有無は感知できるが、味覚が壊れている俺ではまともなものを作る自信がない。俺がそう言うと、ハンナは少しためらったあと、でも、と言葉を続けた。
「……でも、以前作ってくれたスープは美味しかったわ。あ、いえ美味しかったです」
俺がスープを作って食べさせたのは、あの別荘でハンナが死にかけていた時だけだ。あの時のことを話題に出されるとは思っていなかった。
「……飢えていたから美味く感じただけだ。それより、その不自然な敬語はやめろ。必要ない」
「え? あ、うん……」
ハンナは俺との距離を掴みかねているかのようで、時々口を開くと不自然な喋り方をしていた。対外的には夫婦の設定でいるが、実際は賭けに勝った俺が彼女に服従を強いているようなものだ。逃げ出そうと思えばできるはずだが、今の彼女にはそうするだけの気力もないのか、諾々と俺に従っている。
敬語をやめろと言われ戸惑った様子を見せたが、話題を切り替え、ハンナがあるもので食事を作ると言って買ってきたものを確認し始めた。
見ると台所はすでに掃除が終わっていて、どこかから引っ張り出してきた古びた調理器具を磨き上げて使えるようにしてあった。
……貴族として暮らしていたのに、いつ掃除の仕方などを覚えたのだろう?
ふとそんな疑問が湧きあがる。
前の住民がひとつだけ置いていった古い鍋をどうするのかと思ったが、手際よく芋とソーセージを湯で、その後に簡単なスープを作って、軽く火で炙ったパンを添えて出してくれた。
「慣れているんだな」
軍幹部の奥方が台所に立つ機会などなかっただろう。どうしてこんな庶民の使う旧式の土間で調理ができるのか不思議に思った。
「子どもの頃は、食事の支度は私がしていたから……」
ハンナは官僚の娘で裕福な暮らしをしていたはずだが、と首をかしげていると、俺の疑問を感じ取ったのか、向かい合って食事をしているあいだにぽつりぽつりと語ってくれた。
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