第38話Side:クナイ5
このまま心臓をえぐればすぐにコイツの息の根は止まるだろう。
だが、この男がハンナに守られて助かった事実は変わらない。それがひたすらに腹立たしかった。
ここであっさり殺したら、この男は戦争を終わらせた英雄として扱われ、ハンナはその妻として夫を誇りに思い、生涯夫を想いながら生きていくだろう。
――――そんな結末はつまらない。
もう一度、虫の息の男をじっくりと観察する。
呪いが途中まで進んだ状態の体は、醜く膨れ上がり、精悍な軍人の面影はどこにも残っていない。
さながら化け物のような姿になっていた。
……この姿になった夫を見て、ハンナは『生きて帰ってきてよかった』と言えるだろうか?
男を見下ろしながら考える。
呪いは途切れてしまったから、この男が死ぬことはない。だが侵食した呪いが消えるわけでもないから、魔術師がいない敵国では体に侵食した呪詛を消し去ることはできない。この男は死ぬまで醜い化け物の姿で生きることになるのだ。
恵まれた環境で持て囃されて生きてきたこの男が、化け物のような姿になってまともな精神状態を保って行けるとは思えない。
そして、妻であるハンナも、夫がこんな姿になってしまうくらいなら、いっそ軍人らしく戦死して英雄になってくれたほうがよっぽどよかったと思うんじゃないか?
人の心など移ろいやすいものだ。化け物のような見た目になった夫を以前と変わらない気持ちで愛し続けるなど不可能だ。
挫折を知らなそうなあの男が呪いを受けた体でいつまで正気を保っていられるのか。汚い感情を丸出しにして、身も心も醜く堕ちてしまったら、ハンナはどんな顔を夫に向けるのだろうか。
あれほど幸せそうに寄り添って笑いあっていた二人が、罵りあうほどに壊れてしまったら、さぞかし愉快だろう。
汚物を見るような目を夫に向け、早く死ねと罵るハンナの姿を見てみたい。
愛した男を見限り、死を望むようになったハンナは、どんな醜い顔を見せるのだろうか。
汚い呼吸音を吐き出す男の利用価値ができて、俺は心の底から笑えてきて全身が震えた。
抜いた剣を鞘にしまいながら、気を失っている男に言葉をかけてやる。
「是非とも長生きしてくれよ。呪いに侵された体では死にたくなるだろうがな」
遠くから援軍がこちらに向かってきている気配を感じて、俺は姿を消す前にひとつ男に術をかけておいた。呪いを帯びた体には複雑な術はかけられないので、『簡単な』術だが、きっとこの男には上手く作用してくれるだろう。
援軍の足音が迫ってきたので、素早く影に潜み、少し様子を窺う。
駆けつけた援軍は、肉片が飛び散る異様な光景に絶句して立ちすくんでいた。
聖職者を連れてきて、場を清めようとやっきになっていたが、完全に浄化するのは難しいだろう。生存者を探して回る仲間たちも、その行為を後悔することになる。
やがて血の海の中から、虫の息の男を見つけたが、その化け物のような見た目に誰もが触れるのをためらっていた。まあ当然の反応だ。
まさか見捨ててくれるなよと思いながら眺めていると、鎧の紋章から身元が分かったようで、周囲に人がたくさん集まってきた。
さすがに捨て置くこともできなかったのか、救護班が怯えながら男を連れて出て行った。
無事に男が仲間に救出されたのを見届けたので、ようやく俺もこの場を脱出できる。
さて、これから忙しくなる。
やるべきことを頭に思い浮かべていると、腹の虫が鳴いた。空腹を覚えるなんていつぶりだろうか。人間らしい反応がまだ自分に残っていたのかと、少しだけ愉快な気分になった。
***
眠るハンナの顔をそっと盗み見るのが、自分の日課になってしまっていることに気が付いて嫌気が差した。
諜報員だった頃の習慣で、睡眠は横にならず目を瞑って数分深く入眠するだけというのが身についてしまっている。
眠っている時は目くらましの術が解けてしまうので、自分が丸裸になっているような気分になるから、ベッドに横になって一晩ぐっすり眠るなんて、もうどうやってもできそうになかった。
くうくうと規則的な寝息をたてるハンナを、複雑な気持ちで眺める。彼女が寝ている時にしか、こんな風に顔を見つめることができない。
ハンナは小さい頃から相手の嘘を見抜くことができた。
その能力があるから、俺は彼女が起きている時は常に気を張っていた。
内面を探られないように俺も嘘の言葉を発する時は魔力を込めているから、彼女がそれを見破れるわけはないのだが、それでもふと気が緩んだ時にほころびが出るかもしれない。
ハンナは『心眼』の能力を持っている。
どうやら父親は娘には心眼の意味を正しく教えてはいなかったようで、ハンナは自分の力を軽くみていた。
心眼は稀有な能力で、相手の言葉に含まれる嘘を見抜くことができる。そして、相手がうその裏に隠している真実までも見通してしまうと言われている。
能力者と分かるとただちに保護の名目で国へ服従する術式を埋め込むことが義務付けられているほど重要視されていた。父親が国内の財産を全て捨てて亡命したのは、娘を守るためだったのだろう。
事実、亡命先でも娘の能力は誰にも明かしていない。ハンナも口外しないよう言い聞かされているのか、夫にも自分が嘘を見抜く力を持っていることは秘密にしていた。
ハンナは能力者としてその力を研鑽してこなかったせいか、嘘があると分かるだけでそれ以上相手から読み取る能力はないようだった。
それでも警戒を怠るわけにはいかない。心眼は生まれ持った能力であって魔術ではないため、使っているか見抜くことができない。だからハンナと話すときは常に言葉に魔力を込めて真偽を見分けられないようにしている。
「ん……」
わずかに身動ぎしたハンナが小さく声をあげる。毛布を掛けなおそうとしていた俺の気配を察したのかと思い、延びかけていた手をひっこめる。
ハンナは少しだけ寝返りを打って再びくうくうと規則的な寝息を立て始めた。その邪気のない姿を見ていると、自分と彼女の距離がどれほどあるのか思い知らされる。
空が白み始めたのを感じた俺は、音を立てないようにそっと自分のベッドにもぐりこんだ。
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