ヨアケノクニ~失踪した王子の英雄譚~

緋の蒼丸

プロローグ1

 ここは剣と魔法の世界、とある大陸の北に位置するは伝統ある大国、その名もロクレイゼ王国。緑豊かな大地、澄んだ河川、雄大な大樹の森林、深く険しい峡谷、広大な領土には大小ある様々な都市と様々な種族が点在している。その国の中心も中心、王都ロールプレイズにある王族が日々の生活を営むウェルブ宮殿での一幕。


 “コンコンコン”


 深く濃い茶色で全身を塗られた大きなドアをノックする音。四角い両開きのそのドアは上等な木が素材として使われているからだろうか、心地の良い音色が三度。

 

 「ティラ王子、おはようございます、朝食の準備が整いました」


 この宮殿の使用人であるレマはいつもと同じように、このロクレイゼ王国の王子であるティラ王子に朝食の準備が整っていることを知らせるために王子の部屋の前に来ていた。


 「」


 ――返事がない。


 “コンコンコン”

 

 レマはもう一度ノックをしてみる。


 「ティラ王子、朝食の準備が整いましたよ」


 もう一度、呼びかけてみる。


「」


 ——返事がない。


 ティラ王子の返事がないことに少し違和感を覚えたレマだったが、まだ王子は夢の世界の住人なのかもしれないと思い、三度目の声掛けはさすがにやめておいた。

 あまりしつこいとあの優しい王子もきっといい気はしないだろう。

 念のため、レマはティラ王子が今朝は起きてこず朝食も口にしなかったことを、この宮殿の一切を取り仕切っているクレー執事長に宮殿の回廊ですれ違った際に口頭で軽く伝えておいた。

 クレー執事長も少し不思議に思ったようだが、昼には起きてくるだろうという見たてのもと、ひとまずはそっとしておくことにした。


 あれやこれやと宮殿での仕事をこなしているうちにあっという間に時は流れる。太陽が宮殿の真上で燦然と輝く頃。


 “コンコンコン”


 レマは今朝と同じように扉をノックする。


「ティラ王子、昼食の準備が整いましたよ」


 今朝と同じようにドア越しに聞いてみるがまたしても返事はない。レマの中に違和感が芽生える。


(これはおかしい)


 そもそも普段から規則正しい生活をしているティラ王子が朝食の時間まで寝ていること自体が奇妙な出来事なのだ。

 毎朝、快調な様子で朝食を食べている姿からは想像することができない。

 そんなティラ王子が昼食の時間まで寝ているのはさすがにおかしいのではないか。 

 ティラ王子が今何をしているのか分からず、レマは王子の部屋のドアの前で右往左往しながら、悶々としていた。

 考えれば考えるほど不安が募っていく。


(ティラ王子は何をしているのだろうか)


 ティラ王子の様子が気になったレマはそっと扉に耳を当ててみた。王子の部屋の様子を音だけとは言え、探ろうとすることに多少の背徳感があったが、探らずにはいられない。

 しかし、部屋からは全くといっていいほど物音がしない。王子がいるのであれば、多少の物音くらいはするはずなのだが。あまりに静寂という言葉が似合い過ぎている。


 ふと一抹の可能性がレマの頭をよぎる。

 

 しかし、そんなことがあるはずはないとレマの理性が即座に主張する。普通に考えればそうだ。思い当たる節がない。

 ティラ王子がこの部屋にいない、なんてことはあり得ない。

 部屋のドアは内側から鍵が掛けられている。もし、部屋から出ているのであれば、鍵は掛けられないはずだ。その事実はティラ王子がまだ部屋にいる根拠となり得るのだ。


 本当にそうなのか?


 ティラ王子のドアの前に立つレマの感覚は理性の主張を否定する。ドアの向こうからは全く人の気配を感じない。声も物音も足音も吐息も寝息も何もかも、音の主が失われた部屋の寂しそうな佇まいだけを感じる。


 (とりあえずティラ王子の安否を確認しなくては)


 意識を失っているという可能性も否定できない。いずれにせよ、この部屋で良くないことが起きているのは確かだろう。そう思うと、レマに自然と焦りが生まれてきた。馬鹿な事を考えているのだと分かっていてもその可能性が否定できない。


 ゴン!ゴン!ゴン!


 レマは腕に力を込め、いつもより強めにドアを叩く。


 「ティラ王子!大丈夫ですか?!ティラ王子!」


 何一つ返ってこない王子の部屋によりいっそうの焦燥感を覚える。

 王子の部屋のドアはかなり頑丈に作られている。見た様子からしても力尽くで開けることはレマには到底できる芸当ではないだろう。ドアの前から立ち去ったレマはクレー執事長の部屋へと急いだ。


 “ゴンゴンゴン”


 焦りからか、いつにも増して荒いノック。


 「クレー執事長、よろしいでしょうか?」


 執事長室のドア越しにクレー執事長へと伺いを立てる。


 「入っていいぞ」


 「失礼します」


 レマはドアを開け執事長室に入る。


 「どうしたのかね、随分と切羽詰まった様子だが」


 レマが執事長室に入ると、ノックの勢いから察したのか、クレー執事長の方から尋ねてきた。白髪と白髭を蓄え、黒を基調とした礼装を纏った男はどうやら座り仕事の最中だったらしい。ペンを片手に足元の見えない木製の角ばった机に向かっていた。


 「執事長、ティラ王子がまだ部屋から出ていらっしゃらないご様子です。さすがにこの時間まで返事もせずに部屋にいらっしゃるというのは少しばかり変ではないでしょうか?」


 「なるほど、——それで私に部屋を開けて王子の様子を確認して欲しいということだな?」


 「おっしゃる通りです」


 優秀なクレー執事長はレマの言葉の続きを察したようだ。1を聞いて10を知るというのはまさにこのこと。王子の部屋の合鍵をクレー執事長が管理している事実を踏まえた上での推測だろう。そして少しの間、悩ましげな顔をしていたが、


 「確かにティラ王子がこの時間まで起きていらっしゃらないのを変に思うのは私も同感だ。何かあったのかもしれんな」


 「はい、私もそれが心配で…」


 「分かった、部屋の外で待っておれ」


 「かしこまりました」


 クレー執事長は合鍵でティラ王子の部屋の鍵を開けることを決断し、レマを先に執事長室の外に出した。王子の部屋の合鍵の在りかは執事長が秘密裏に管理しているために、取り出す方法を見られるわけにはいかないからだ。

 その後、合鍵を持ったクレーとレマは足早にティラ王子の部屋へと向かった。


 部屋の前へ着くやいなや、クレー執事長は大声を張り上げながらドアを叩く。


 「ティラ王子!!大丈夫ですか⁈ティラ王子!!」


 やはり何の返事もない。二人は意を決して、鍵を開けて部屋の中の様子を確認することにした。ティラ王子の一大事かもしれないのだ。無礼になるかもしれないと躊躇はしていられない。


 「ティラ王子、失礼します!!」


 そう言ってクレーは合鍵を使って解錠する。そして金色のドアノブを回しドアを開けた。そして。


 そこにはきれいに整えられた王子の部屋。

 

 床には臙脂色、白、薄い茶色のおおよそ三色で構成され、動物の毛で綺麗に編まれたであろう絨毯が床の大部分に敷き詰められている。部屋には一人で寝るには大きすぎるくらいの分厚い純白のベッドと貫禄のある木製の机がまず目に入ってくる。そして、高級感漂うソファーとその間に陣取る膝上くらいの高さのガラスの机も負けじとその存在を主張している。

 そんな豪勢な部屋の中、眼前に広がる光景によって立ち竦むクレーとレマ。

 不自然なくらいに整えられた部屋の主はもういない。

 驚きのあまり言葉を無くした二人を、大きく開け放たれていた窓から迷い込んだ風が優しくなでる。

 ふとした瞬間、レマはクレーの横顔を覗き込んだ。何か理由があったわけではない。ただ風に導かれるままに。


 (笑っている)


 レマにはクレーの横顔は笑みを浮かべているようにしか見えなかった。

 なぜ、こんな状況で。

 しかし、その真意を問いただすことは危険だとどういうわけか本能が警告している。レマはその理由も分からぬ警告に従って、クレーの不気味な笑顔を心の内にしまっておくことにしたのであった。

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