恋愛マスター?②


 転機は四月下旬。


 三年生になって一ヶ月も経たないその日、ありえないと叫びたくなるような事件が起こった。


「おーい、冬根ふゆね、お前のことよんでるぞ」


 たまに話すくらいのやたらと襟足の長い田中という男が、教室後方で読書にふける俺のもとに歩み寄りながら気安く話しかけてきた。

 ちなみに『冬根』というのが俺の苗字である。なんとも寒くて仄暗い青春を送りそうな苗字だよね。


「誰が?」

「さあ? ほら、あそこ」


 田中は呆け面のまま親指を立て、それをそのまま教室前方の入口に向けた。

 数十ページ前のしおりを引き抜きながら見ると、そこには見た事のない背の低い女子がモジモジしながら立っていた。


「誰?」

「俺が知るかよ。じゃあなー」


 田中はワイシャツを腕まくりして見える筋肉質な腕を乱雑に振って、そのまま後方から教室を後にした。

 もう一度目を凝らして廊下からこちらを覗く女生徒を見る。

 指定リボンの色からするに、一年生か?


 一年生の女子が俺を呼ぶ?

 ……いやいや絶対人違いだよな。


 しおりをどこに挟んだかよく分からないまま机に本を置き、前方のモジモジ女子目掛けて俺は歩く。ちょっぴり緊張してしまったのは仕方がないだろう。


 近づく程に尚更小さいその女子のもとに俺が着くなり、その子は小声で「ちょっと来てください」と呟いて小走りを始めた。

 俺もよくわからないままそれに続く。


 来たか? ついに来たか? 青春の入口に!


 中途半端な緊張感のまま辿り着いたのは廊下の突き当たり、視聴覚室と放送室のあるところだった。

 昼休み終盤の現在、人気ひとけはほぼ無かった。


 もしかして――なんて少し期待してしまった俺を誰が責められようか。てか誰も責めないでくれ。


「あの、そ、その…………」


 モジモジ女子は俯き加減で指遊びをしながらさらにモジモジして、俺も緊張のあまりモジモジしたい気分をグッとこらえているのに必死だった。

 そのまま十秒程の沈黙があり、俺が優しさを見せようと必死に絞り出した「どうしたのかな」を口にした瞬間のことだ。


「――冬根さんは、恋愛マスターさん、なんですよね?」


 モジモジ女子がキラキラ女子に変わり、目を潤ませながら俺の顔面をしっかと見つめてそう言った。

 頭痛が発生したのを覚えている。


「何だって?」

「恋愛マスターさんに、ご相談があるんです!」


 新手のいじめか、それとも罰ゲームの部類か、何にせよ俺はすぐに言葉は出てこなかった。

 お構いなしにキラキラ女子は言葉を継ぐ。


「私、気になっている男子が居るんですけど、声がかけられなくて……何か近づけるいい方法はないでしょうか?」

「待って待って待って」


 待って、本当に待って。

 なんで俺見知らぬ一年生から恋愛相談受けてるの?


「恋愛マスターって何? 俺、そんなの知らないんだけど」

「あ、あんまり大きな声で言っちゃダメでしたか? 内緒のことですもんね」

「そうじゃなくて! 何それ、誰が言ってたの?」

「誰……というよりは一年生は多分みんな知ってますよ? 三年の冬根先輩は恋愛マスターで、相談すれば驚く程的確なアドバイスで恋が叶うこと間違いなしって」

「はあ!?」


 先程までの緊張はどこぞ、俺は声を荒げてしまった。

 キラキラ女子は少し驚いたのか目を真ん丸にして一歩後退する。


「俺が、何? 恋愛マスター?」

「はい、そうなんですよね?」

「いやいやいやいやいやいや、んなわけあるか! マスターどころか恋愛なんてまともにしたこともないし、それにこんな冴えない顔(自分で言っちゃった)の奴が恋愛マスターなんてふざけた名前名乗るわけないだろ!」

「またまた、ご謙遜はいいんですよ、冬根先輩」

「謙遜とかじゃなくて、マジで何のことか分からないし……そんな噂になってるの? 一年生の間では」

「はい、多分全員知ってると思います」


 んなあほな。俺はもっとひっそりとした寂しい学校生活を送っておりましたよ? 望まずしてだけど。

 相変わらず目に星を宿らせているこの背の低い女子には申し訳ないが、そろそろ付き合いきれないなと思い始めたので、


「悪い冗談はよしてくれ。俺はそんなんじゃない」


 吐き捨てて踵を返し、乱雑に手を振って教室に戻ろうとすると、ガシリと後ろからベルトを掴まれた。


「待ってくださいマスター! まだアドバイスを聞いてません! 教えてください、どうすればいいですか?」

「離してくれないか? だから俺はそんな変な称号じゃ」

「アドバイスをくれるまで離しません! 声がかけられない男子に、どう近づけばいいですか?」


 信じられない力で俺は身動きが取れなかった。

 というかベルト掴まれるとマジで動けないんだな。


 暫くの情けない抵抗の後、昼休み終了の予鈴が鳴った。

 これはチャンスだ。


「ほら、予鈴鳴ってる。君も教室に戻らなきゃだよ?」

「嫌です! マスターからアドバイスをもらえるまで戻りませんし離しません!」


 滅茶苦茶である。てかそれだけの強引さがあるなら意中の男子に話しかけるくらい容易だろうに。


 こうなりゃ自棄やけだ、テキトーにそれっぽい助言してテキトーにこう。


「分かった、アドバイスするから離してくれ」

「ダメです、アドバイスを聞いてから離します!」


 もしかして、色恋に取りつかれた人間はこうも強引で身勝手になってしまうものなのだろうか。

 これが俗にいう恋は盲目ってやつか?(違う)

 だとするなら俺は恋愛なんかしなくても細々と高校生活を無事に終えてしまいたいな、などと密かに思ってしまった。


「分かった! じゃ言うぞ」


 テキトーに、な。


「その気になる男子が持ってきた食べ物……弁当でもお菓子でも飲み物でもいい、それを無断で、そいつの前で食べるか飲むかしてみろ。豪快に、な」

「……食べ物を奪うって事ですか?」

「そうだ。飲み物でもいい。とにかく、そいつの目の前で豪快に奪って食べてやれ。それがアドバイスだ」

「はあ」


 フッとベルトにかかる力が緩まり、俺は何とも言えない開放感に包まれた。

 振り向けばちょっぴり焦げた野菜でも食べているかのような顔の女子が聞こえない独り言をつぶやいている。


「もういいか?」


 は! 色恋にうつつを抜かす奴らは全員滅びてしまえ!

 気になる男子の貴重な食料を奪い、嫌われるがいい! ガッハッハ……。


「はい! ありがとうございました、恋愛マスター様! 頑張ってみます!」


 背の低い女子はおもちゃのように勢いよくお辞儀をしてから満足そうに笑み、走り去った。

 どこの誰だよ俺が恋愛マスターなんて吹聴した奴は。


 ちなみに俺が姉のプリンを奪って食べた時は半殺しにされたことがある。

 ……俺は知らんからな。責任は取らないぞ。リア充予備軍は破滅へ向かうべし。


 俺が自分への言い訳を心の中で繰り返していると昼休み終了の本鈴が鳴り、慌てて戻った俺は数学教師に怒られる羽目になった。


 ◆ ◆ ◆


 まあいい。

 一年生の間で『恋愛マスター』なる残念な称号で有名になったところで、三年生である俺と大した接点がある訳でもない。

 それにあの相談してきた女子の言葉が真実とも限らない。


 実はあの女子が残念な脳味噌の持ち主で、一人勝手な妄想のもと作り上げた設定という可能性もあるしな。


 翌日の教室も何ら変わりなく俺の周りは寂しい感じで、読書が捗る捗る。

 この静寂しじまこそ俺のアイデンティティ。


 昨日の珍事など忘れようと、字面の羅列と睨めっこをする。

 でも、あの女子ちょっと可愛かったな。


「おーい、冬根ふゆね、お前のことよんでるぞ」


 またしても、たまに話すくらいのやたらと襟足の長い田中という男が、教室後方で読書スタイルの俺のもとに歩み寄りながら気安く話しかけてきた。

 じんわりとした嫌な予感と共に敢えて俺は視線を本から外さずに口を開いた。


「誰が?」

「昨日と同じ子――」


 うわあ、とはらの中で漏らしながら目線だけを入口に向けるとそこには満面の笑みを浮かべる昨日の小さい女子――


「――と、もう一人」


 ――と腕を組む男がこちらを向いて立っていた。


 位置の変わっていないしおりを本の根に押し込み、口が開くのを必死で我慢しながら席を立った。


「恋愛マスター様、本当にありがとうございました! おかげで私、タッくんと付き合う事になりました!」


 廊下に出た途端、それなりの大声で一年女子は謝辞を述べてきた。

 腕を引かれている背の高いタッくんなる男子も顔を赤らめて小さく会釈してくる。


「ん……」

「恋愛マスターの噂は伊達じゃないですね! これからも恋に悩む生徒たちへの崇高なアドバイス、頑張ってください!」


 それだけ言うと、腕を組んだまま新生一年カップルはベタベタしながら去っていった。

 ……一体何を見せられているの、俺。


「なに、冬根、お前恋愛マスターなの?」


 後ろから田中が話しかけてきた。

 明らかな嘲笑を携えて。


「知らないよ、あの変な子が勝手にそう言ってるだけだろ」

「お前が恋愛マスターね、ブブッ、アッハッハ!!」


 田中は腕まくりしたワイシャツから伸びる手で思い切り俺の背中を叩いて、爆笑しながら歩き去った。

 はは、本当に笑えるよね。意味が分からないもん、笑うしかない。痛いし。


 それにしても疑問なのは、あれだけテキトーなアドバイスでどうやって一日という短期間で付き合うに至ったかだ。

 俺が言ったのは、相手の飲食物を強奪して食せ、これだけだ。


 まあ多感な時期の男女ならどんなきっかけでも発生し得るイベント、って事なのだろうか。

 ……俺のもとには全く発生しないけど。


 俺はのろのろと自席に着き、読書の姿勢に戻る。

 字面を眺めているフリをしながら、一つ思考する。


 一年生の間で俺が『恋愛マスター』として有名。

 ……あの変な一年女子の妄想の世界の話であると信じたいところだ。


 何にせよ、俺はヒト様にアドバイスをするほど経験もなければ余裕もない。俺がアドバイスを欲しいくらいなのだ。

 兎にも角にも、一つ、これだけは言える。


 ――妬ましい!! あと恋愛マスターって何だよ、マジで。




 …………。


 といった、俺だけ謎の淡い傷を負っただけの微妙な珍事件。


 これで終わりであれば本当に良かったのだが。


 良い意味でも悪い意味でも、こんなものでは終わらなかった。

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