分かり合えない二人

「お疲れ様ー」


 小さな居酒屋のテーブル席で向かい合い、私達はとりあえずビールで乾杯した。


「いつもフォローしてくれて、本当にありがとう。津川君が居なかったら、まともな仕事は出来ていないわ」

「そんな、僕の力じゃないですよ。友里さんがそれだけ優秀なんです。だいたい僕は、ここの仕事を一から十まで友里さんに教わったんです。友里さんに教わった通り、今の友里さんに説明しただけですから」

「またまた、謙遜してえ」


 謙虚だし真面目だし、津川君は良い青年だ。就職した当初の裕君もこんな感じだったな。どんどん仕事を覚えて、それが楽しそうだった。そんな一生懸命な裕君を見ているのが私は好きだった。自分も頑張ろうと思えた。


 料理も順次運ばれてきて、私達はそれを肴に仕事や世間話など、話し込んだ。


「記憶を失って、家庭の方は困っていませんか?」


 まだビールが二杯目だけど、少し酔って来たのか、自分から積極的にコミュニケーションを取るタイプでない津川君が、珍しく私に聞いてきた。ただ、素直には答えにくい質問だった。


「うん、そりゃあ、記憶を失った事でいろいろ不便な事はあるけど、なんとかやっているわ」

「そうですか、旦那さんとも……」

「あっ……うん、仲良くしているよ」


 質問の意味がよく分からなかったが、深入りされたくないので聞き返さずに誤魔化した。


「それは良かった……」


 津川君はほっとしたように少し笑顔になった。


「そう言えば、津川君の奥さんの事は何も知らないわね。奥さんは年上? 年下?」


 自分の事を聞かれないように、私は逆に質問する事にした。


「同級生です。小学校からの……」

「そうなんだ! 幼馴染で結婚って、ステキね」

「そうですかね……幼馴染って言っても、ずっと一方的に僕の方が片思いしてて……お情けで結婚してもらったようなものです」


 少し寂しそうに話す表情から、謙遜や照れ隠しじゃなく、本当にそう思っているようだ。


「そんな事無いと思うよ。結婚って生涯でも一大イベントなんだから、好きでもない相手とはしないよ。奥さんも津川君の事を好きなのよ」


 私がそう言うと、津川君は寂しげな表情のままクスっと笑った。


「すみません。実はこの話を友里さんに話したのは二回目で、一度目と全く同じ事を言われたので……」

「あっ、そうか……逆にごめんね」

「あっ、いえ、全然大丈夫ですよ……ただ、友里さんは記憶を失っても変わらないなって」

「まあ、私は私だからね」


 私がそう言うと、津川君はまた少し笑った。


「妻には付き合っていた男がいたんですよ。そいつにこっ酷く振られたんです。僕はその隙を突いて、失恋の傷を慰め、結婚までたどり着けたんです。きっと僕を好きって気持ちは無かったんです。だからお情けなんですよ」

「いや、それは悲観しすぎでしょ。今も結婚生活続けているんだから、好きなんだと思うよ」


 私がそう言うと、津川君は口をギュッと閉じてこちらを見つめる。私が何か言おうと考えているうちに、彼の瞳からボロボロ涙がこぼれてきた。


「津川君……」

「妻は今、その振られた男の家に行ったまま帰って来ないんですよ」

「ええっ……それは……」

「妻は三年間の記憶を失ったと言って、そいつの家に行ったまま帰って来ないんです」

「帰って来ないって、迎えに行っても帰らないの?」

「そうです。やっぱり今でも、そいつの事が好きなんですよ。あんなに愛して尽くしていた僕より、あいつのところに行くなんて……」


 泣いて悲しむ津川君の事を、情けないとか恥ずかしいとか感じなかった。純粋に一人の女性を愛している彼に応援したい気持ちすら感じる。


「それだけ好きなら諦めちゃ駄目よ。何度でも迎えに行かなきゃ」

「友里さん、ありがとうございます」


 津川君はテーブルに着きそうなくらい頭を下げて泣き続けた。


 津川君が落ち着くのを待って店を出た。約束通り店の支払いは私が済ませ、駅で別れる。少し酔いが回り、自分の心配事もしばし忘れ、津川君の気持ちを思いながら家路に着いた。


 マンションに帰り着いたのはまだ九時前だったが、部屋の明かりが点いている。裕君はもっと遅くなると思っていたので驚いた。


 私は急いで部屋に帰り、玄関で「ただいま」と奥に向かって呼び掛ける。返事が無いので奥へと進むと、裕君はリビングでソファに座り、テレビを観ていた。


「ただいま」

「お帰り」


 返事をする裕君は、こちらを見向きもしない。


「早かったのね。ご飯は食べた? 今から作ろうか?」

「いや、いいよ。食べてきたから」


 裕君はテレビから私に視線を向ける。


「飲んできたのか?」

「うん……裕君がご飯いらないって言ってたから、外食にしたの」


 私の顔に酔った感じが残っていたのだろう。裕君の言葉に咎めるような響きを感じて、私は狼狽えた。


「一人でか?」

「いや、会社の人と……」

「大勢でか?」

「あの、二人で行ったけど、そんな関係じゃないの。記憶を失って、仕事で助けてもらっているから、そのお礼でって……」

「自分の立場が分かっているのか?」

「自分の立場って?」


 裕君はゆっくりと立ち上がり、私の前に立つ。


「お前は浮気したんだぞ」

「それって、私が今でも浮気していると思っているの? そう疑っているの?」


 私は悔しくて、思わず言い返した。


「そうじゃない」

「じゃあ、どうして責めるの?」

「状況を考えろって事だ」

「状況って何の状況なの? 私に家と会社の往復だけしてろって事? 自分だって飲んで帰って来ることがあるじゃない! 私には仕事の付き合いも許されないの? 浮気が許せないなら、そう言ってよ! 出て行って欲しいならそう言ってよ!」


 冷静に考える余裕も無く、声を荒げてしまった。


 私は自分が考えていた以上に、限界だったのだ。酔いも手伝って、気持ちがあふれ出て止める事が出来ない。


「もういいよ」


 裕君は悲し気な表情で私の横を通り過ぎて、自分の寝室に入ってしまった。残された私はその場で座り込み、大きな声を上げて泣いた。


 次の日、私は朝早く起きて朝食を作ったが、裕君は食べずに出て行った。スーツ姿だったので、仕事だったみたいだが、何も聞いていない。夕方ごろには、夕食は必要ないとラインが入ったが、理由は書かれていなかった。次の日は私服だったが結果は同じ。結局、私達は会話が無いまま、土日の二日間を過ごしてしまった。


 それからも必要最低限の会話しか交わさず、私達は以前よりも更に酷い冷戦状態となった。もう、ここから変化があるとすれば、私の記憶が戻る事以外は考えられなかった。

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