二人の前に現れた愛佳

 まだ十時か、寝るには早過ぎるな。俺は布団の上で寝転びながら、スマホでだらだらネットを見ていたが、集中できずに起き上がった。俺はダイニングに行って、煙草と灰皿を取ってきた。布団の上では吸わない約束をしていたが、どうせそれも憶えていないんだ。少し投げやりな気持ちで煙草に火を点けた。


 俺の頭に「ごめん……」と言った瑠美の顔が浮かぶ。


「あの時とおんなじだ……」


 忘れかけていた、古い傷が心の奥底でうずく。中学時代の辛い思い出。幸せだった最近は思い出す事も無かった思い出だ。


 お風呂から上がった瑠美がリビングに戻ってきた気配がした。よく見れば、スキンケア関係の物など、寝る前の用意はすでにリビングへ移動させている。


 なんだか、他人に戻った気がして、急に寂しくなった。別に今日瑠美を抱きたかった訳じゃない。ただ、一緒に居てつながりを感じていたかっただけだ。それなのに、距離を置かれ、拒絶されたようで寂しかったし、苛ついた。


 俺は我慢できず、煙草を乱暴に灰皿に押し付けると、寝室を出てすぐ隣のリビングに顔を出した。


「瑠美!」

「どうしたの? 急にビックリするよ」


 俺が少し大きな声で声を掛けたので、瑠美は驚いたようだ。


「やっぱり、一緒に寝ようぜ」


 瑠美は俺には応えず、また困ったような顔で黙り込んだ。


「別に一緒の布団で寝たからって、襲ったりしないよ。瑠美の嫌がる事は絶対しないし」

「ごめん、まだ気持ちの整理がつかないの……」


 そう言われて、俺はカチンと頭にきた。今日一日、あれだけ頑張ったのに、まだ信用してくれないのか。この三年間の事もあれだけ説明したのに全然分かってもらえてない。


「信用ないんだな」

「いや、信用とかじゃなくて。義人と結婚したとか、頭では分かったけど、気持ちが付いて行かないの」

「気持ちって、俺と一緒に寝るのにそんな気持ちが必要なのかよ! 俺といるのが嫌なのかよ!」


 俺は自分が否定されたように感じて、言葉のトーンが上がっていく。


「だから、嫌とかそんなんじゃないって」

「昨日まではあんなに仲良くしてたのに……記憶を失くしたのは俺が悪いんじゃないだろ? なんで、俺がこんな扱いされなきゃいけないんだよ……」


 瑠美は興奮を鎮めようと思ったのか、深く呼吸した。


「ごめん……」


 瑠美は悲しそうな顔で俺を見つめる。

 そのしぐさがまた俺のトラウマを蘇らせる。


「あの時と同じだな」

「えっ……」

「もう良いよ。勝手にしろよ」


 俺は寝室に戻り、乱暴にふすまを閉めた。


 しばらく待ったが瑠美がこちらに来る気配はない。俺はまた煙草に火を点けた。

 気を紛らせる為に、スマホを手に取りラインをチェックする。


「あっ、ユミからだ」


 タイミング良く、書き込みはまだ三分前。ユミは今日ファミレスのシフトに入っていたから、休憩時間だろう。


(今日はめちゃくちゃ忙しいよ! どうして副店長は休んでいるんですか? もう!)


 メッセージの後に怒ったネコのスタンプが押してある。


(たまには週末も休ませろよ。ユミは優秀だから余裕だろ?)


 俺がそう送ると、すぐに既読になる。


(どうせ奥さんといちゃ付いているんでしょ!)


 と、また怒った別のネコのスタンプ。


(前から言ってるだろ。うちの夫婦は冷え切ってるって)

(えー信じられないな。それじゃあ、またカラオケ連れてってくださいね!)


 今度はウインクしているネコのスタンプ。いろいろあるもんだな。


(了解)

(もう休憩終わりです)


 それっきりメッセージは無かった。


 ユミも彼氏がいるのによくやるよ。やる気で行けば簡単に落とせるだろうけどな。出来る女も落とさずに我慢してきたのに、一緒に寝るのすら嫌だなんて。


 俺はまた瑠美の態度に対する不満が甦ってきた。記憶を失くしたから仕方がないと分かっているのに、瑠美に拒絶されたと感じ、小さな子供のように俺は気持ちの整理が付かない。俺はいろいろ考え過ぎてなかなか寝付けなかった。



 翌朝、目が覚めて寝室から出ると、すでに瑠美は起きていて朝食の用意をしている。


「おはよう!」


 昨日の事は忘れたように、瑠美は俺の顔を見ると笑顔で挨拶してきた。


「おはよう」


 俺はぎこちない挨拶を返した。


「今日はどうする? 日曜はどこかに遊びに行こうって言ってたんだけど」

「そうなんだ……悪いけど、今はそんな気分になれないな……」

「逆に気分転換した方が良くないか?」


 瑠美は言葉を返さず、曖昧な笑顔で応えてきた。


「記憶が戻るまでは仕方ないな。今日は家でゆっくりするか」

「ありがとう……」

「良いよ、朝ご飯食べよう」


 俺たちは一緒に朝食を食べ始めたが、あまり会話も弾まず、沈んだ雰囲気のままだった。


 食後に食器を片付けようとしたら、自分がやるからいいと瑠美が洗いだしてしまった。食事を作って貰った方が片づけを担当するように決めていたと言っても、瑠美は譲らない。瑠美なりに微妙な空気の責任を感じているのかも知れない。


「じゃあ、悪いけど俺はもう少し寝るよ」


 昨晩はなかなか寝付けなかった所為で、食後に眠気が襲ってきた。俺はまた布団に潜り込んで眠りについた。



 どれぐらい昼寝をしたんだろうか。俺は瑠美の話声で目が覚めた。寝ぼけた頭で瑠美の声を聞いていると、誰かと話をしているようだ。電話かと思ったが、話し相手の声も聞こえる。女のようだ。


「義人君は居るんでしょ? 合わせてよ」

「どうしてあなたがここに来るの? 別れたって聞いてるよ」

「別れる筈ないでしょ。だって私と義人君はこの部屋で一緒に暮らしているのに」


 なんの話をしているんだ?


 徐々に目覚めてきて、二人のやりとりを理解出来始めた。誰か女がここに来て、ダイニングで瑠美と話をしているようだった。


「どうしたんだ? 誰か来ているのか?」


 俺は部屋着のままで、寝室から出て二人の前に姿を見せた。


「義人君!」

「ええっ、愛佳、どうしてここに?」


 ダイニングで瑠美と話をしていたのは、愛佳だった。彼女はトレードマークのポニーテールで可愛らしいワンピース。別れた二年半前から歳を取っていないようだった。


「寂しかったよー」

「えっ?」


 愛佳が瑠美を気にする事無く、俺に抱き着いてきた。

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