■■■が見えた昼休み:エンの話

 どうしてこの事務所の長椅子には毎日のように誰かしらが転がっているのだろう。事務机の上に積まれたレシート類の山――今日は線が縒れた赤文字でくれびぬと書き殴られた焼肉屋の割引チケットが出てきた――から工藤は顔を上げて、長椅子を占領しひっくり返った虫のような格好で天井を見上げているエンをまじまじと見た。


「今回は仕方ないからね、見逃してやってくれよ工藤君」


 いつものように黒手袋の手元だけを忙しく動かしながら、モニターを見つめたままでカシラが言った。


「見逃すというか……どうしたんですかエンさん」

「徹夜で出てたんだよ。帰ってきたのが君たちが来るちょっと前だ」


 財布の中身だけちゃんと提出してからずっとあの様だよというカシラの言葉に、エンが力なく持ち上げられた手を振る。肘掛に投げ出された安いスニーカーの底越しに声が聞こえた。


「頑張ったんすよ俺。楽しく飯食って狭ぁい風呂入ってよし寝るかって途端にいきなり呼び出されて現場ですもん。ちゃんと今朝出てきただけ偉いっすよ結構」


 いつもの鴉声から気力がごっそりと抜け落ちているのが聞いただけで分かる。

 別件で首がもげても――本当に生首と胴体に別れていた――元気に買い出しをしていたような人間でも疲労するのがどうにも意外で、工藤は分類前のレシートを手にしたまま様子を伺う。


「別に午後から出てくれて良かったんだよ、エン。最悪夜さえ動けるようにしといてくれれば今日はどうにかなったからさ」


 カシラの言葉に挙げたままの手がまたひらひらと振られた。


「やー、これで部屋帰ってちゃんと寝たら明日の朝まで起きねえっすよ俺」

「そこで寝てたって同じなんじゃないのか」

「ここ寝心地悪いから目ぇすぐ覚めるんすよ。クーラー効いてるし」


 言いながらエンは肘掛に投げ出した脚に力を込めて、勢いよく起き上がる。反動でふらふらと揺れながら背もたれを掴み、がくりと前方に落ちた頭をおもむろに持ち上げた。

 そのまま事務所内をぐるりと見回してから、


「カガさんとオトの兄貴どうしたんすか。クドーしかいねえじゃねえですか」

「お前が寝てる間に出たよ。午後になるまで戻らない……もうすぐ昼だけどね。午前中ずっと寝てたんだよお前」

「マジすか。全然気づかなかった」


 工藤は出て行く直前の二人オトとカガのやりとりを思い出して目を伏せる。いつものようにくだらない言い争い――所長の前で煙草を吸うなと吠えたオトに対して朝から子供ガキのお守りとはお疲れさまですとカガが煽ったという、いい大人が朝から何をしているんだと言いたくなるような内容だったが、どちらも堂に入ったチンピラなのがどうしようもない。無駄にドスの効かせたくだらない応酬を事務机で聞かされる一般人工藤としては、それだけでそれなりに胃の痛むような状況だったのだ。それだけの騒ぎの中でもエンは長椅子の上で悠々と眠っていたのが、工藤としては信じがたいことだった。

 工藤の畏怖とも呆れともつかない視線に気づく気配もなく、エンはがりがりと頭を掻いてから壁に掛かった時計を見上げる。そうしてから欠伸交じりに言った。


「カシラ、ちょっと早いけど昼飯外で食ってきていいっすか。ついでに公園行ってきますんで」

「いいけど何でだい。猛暑日だけど」

「クーラー効いた部屋にいたら多分二度寝します。辛い目眠気辛い目熱気で塗り潰さねーと俺は午後も寝ます」


 真剣なエンの言いようにカシラが口元だけで笑った。


「連絡だけ取れるようにしておいてね。公園行くんなら一時までに戻ってきてくれればいいよ」

「分かりました。じゃあ行くぞクドー」

「は」


 完全に不意を討たれた工藤は間抜けな声を上げた。

 エンは奇声を気に留める様子もなく、カシラの方を向いていつもの荒れ声を張り上げる。


「いいですよねカシラ。大事っすよ同僚間の交流」


 カシラはちらりと画面からうろたえて目玉をきょろきょろとさせている工藤の方へと視線を向けてから、エンを眺めて、


「いいよ。怪我させないようにちゃんと面倒を見なさい」


 新人くらいは大事に扱いなさいと言ってから、カシラはもう一度視線だけを工藤へと向けて詫びるような笑みを浮かべてみせた。


***


 弁当のトマチと角の丸い文字で大書きされた看板の下、暇そうな店主が年季の入ったカウンターに肘をついて通りを眺めている。毛艶はいいくせに目つきの悪い猫がその傍らに丸くなっていて、エンを見た途端にくわっと口を開いて赤い舌と尖った牙を見せた。


「おっちゃん紅串弁当二つ。あとサイダーとオジキダラも二つ」


 店主は工藤を見て片目だけを驚いたように瞠ったが、何も言わずに品を詰めた袋を突き出す。エンが置いた代金をのろりとトレーごと引き取って、小銭と紙片を返してきた。


「新人かよ後ろの」

「カシラが拾ってきた。俺の後輩だよ」


 エンの返事に、店主がじろりと工藤に目を向ける。工藤が慌てて深々と一礼すれば、頷くような会釈と市場に向かう家畜を見るような憐憫じみた視線が返ってきた。

 エンは財布に乱暴な手つきで諸々をねじ込んでから、軽い調子の挨拶を告げてからすたすたと歩きだす。工藤はもう一度店主に向かって頭を下げてから、その後を慌てて追った。

 まばらな通行人と、開いているのかどうかも一見しただけでは分からない商店たち。所々に広げられた路上販売らしい得体のしれない商品の傍らには、ぼんやりとした表情で売り子が座り込んでいる。雑然としているのに妙に静かな歩道をするするとエンは歩く。工藤はその背中の蛇尾を生やした虎を見失わないように必死で後を追う。


「公園って遠いんですか」

「いや、こっからちょっと横道入るくらいだから近えよ。すぐ」


 言われた通りにエンの後を追う。オトやカガと比べれば小柄だが、単純に脚が早いのだろう。油断するとすぐに広がる距離に四苦八苦しながら、工藤は小走りになる。途中で擦れ違った人間にガンを飛ばしつつも真っ直ぐ歩くエンに続いていくつか角を曲がりながら歩を進めるうちに、緑色のフェンスで囲われた区画が見えてきた。


「あ、フェンス」

「よしじゃあ競走な!」

「は?」


 言うが早いかエンは駆け出す。そのまま恐らく出入り口であろうフェンスの途切れた一画まで辿り着いてから、呆然としている工藤の方を振り向いた。


「俺一番乗りな。しゃんとしろよクドー」


 いつ仕掛けられても対応できねえと危ねえぞともっともらしいことを言って、屈託なく白い歯を剥いて笑った。


***


 断末魔に似て獰猛な蝉の声が真昼の公園に響いている。

 日射しに照らされた遊具はまだらに塗料が剥げていて、明るい陽の下ではそれが一目見ただけで分かる。傷だらけのジャングルジムに色の褪せたブランコと血痕のように錆が滲む滑り台。時計は白い文字盤に長針の影が傷のように伸びている。

 設備や雰囲気などまとめてどこかしら陰気なのに、敷地自体はそれなりに広く妙な解放感がある。場違いに青々とした葉を茂らせる公園樹の傍らにはベンチが置かれており、淡い木の影が伸びている。

 その公園のベンチに突っ込むようにエンが駆け寄り、どっかりと音を立てて座る。工藤もその横に恐る恐る座れば、すぐさま取り分らしい品がひとまとめに傍らに置かれた。

 弁当は非常に簡素な内容だった。パックの半分ほどに肉串が詰められ、そ片側には握り飯が二つみっしりと詰まっている。エンは串を横咥えにしてから一気に肉片を頬張って、ぎりぎりと噛み潰してから嚥下し短く息を吐いた。


「塩っぱいのってさあ、しんどくても寝ぼけてても一発で沁みるよな。味がするもん。あと脂に米」

「この串その――噛み切るのに気合がいるので」

「いけるいける。頑張って食え」


 ひどく噛み切りにくい肉に手こずりながらも、工藤はどうにか飲み下す。甘辛いタレの味や塩の風味はさして抵抗もなく食べられたが、いやに甘ったるい匂いのする串にだけは慣れることができず、ちびちびと一口ずつ片付けることにした。


「おいしいんですけど材料とか聞いて大丈夫なやつですか」

「あそこ肉屋じゃん。じゃあ肉だよ。トリだったと思うけどね」

「鳥っていうのはあれですよね、飛ぶやつ」

「伸びるやつだよ」


 串を咥えたまま工藤が固まる。瞬く間に一串を齧り終えたエンは容器から次の串を取った。気持ちいいほどの速度で片付いていくエンの弁当と平然とした横顔を工藤は放心したように眺める。

 突然にエンが振り向き視線が正面からかち合った。


「何か聞きたいこととかある?」

「何か――あの、何でですか」


 唐突な話の展開についていけず、噛み切れない肉片を口の中でぎりぎりと持て余しながら、口元を抑えて工藤は聞いた。


「一応さあ親睦? とかそういうのを大事にしておきたいわけよ。俺先輩だし」

「それは大変ありがたいんですけど……うん、ありがとうございますって言いますけど、」

「クドーはミツヒメカミさんの拾いもんなわけだからさ、まあざっくり俺と一緒なわけよ。おもしれえじゃんそういうの」


 どうにも噛み合わないエンの言葉に愛想笑いを返しながら、工藤はいつか聞いたはずの身の上話を思い出す。

 エンは元々はアカマルの出身ではない。肝試しでしくじって住まいも家族も失って、たまたま縁あったカシラのもとに転がり込んで、アカマルで各務実業社の社員として働いているのだと言っていた。肝試しでなにか恐ろしいものの逆鱗に触れて命を落としかけた人間に親近感を抱かれているのは喜んでいいのかと自問して、何か決定的な相違点があるのだがそれをわざわざ口にする必要もないと気づいて、工藤は慌てて思考を逸らす。


 カガからこの辺りの土地のあれこれについては初日にざっくりと教えてもらった。その少ない情報でもアカマルがろくでもない土地だというのはよく分かったのと、実際過ごしてみた経験を合わせてもその通りだと思っている。

 そう考えるとエンは生まれた土地はマシなところなはずなのに、本人の意思による行為の結果、アカマルここに流れ着いている。聞いた内容をを信じるならば随分と凄まじいこと得体のしれない怪異に殴り掛かるをしたのだからどうしようもない。おまけに首まで取れている。もうその時点で工藤の理解を超えているのだ――普通の人間は首が取れたら潔く死ぬものだろう。

 それなのに妙に面倒見がいいというか、こうして昼食に後輩を誘ったり自業自得のあれこれで寝込んだ兄貴分オトの看病をしていたりとあるので、工藤はどうにも理解と判断に困るのだ。

 それでもこうして質問を要求するということは少なくとも歩み寄ろうとしてくれているのではないかと精一杯好意的に解釈してから、その善意に答えようと工藤は懸命に無難な質問を考える。

 肉片をどうにか飲み込んでから一呼吸おいて、ようやく口を開いた。


「一個聞きたいことはあります。いいですか」

「いいよ。つうか聞けっつってんだからいいに決まってんだろ」

「どうやってその、怖いものを殴ってるんですか」


 工藤の問いにエンは一瞬だけ怪訝そうな顔をしてから、


「気合」


 それだけ答えてまた串を齧り、ぐむぐむと咀嚼してから飲み込む。工藤はゆっくりと頷いてから、やはり噛み切れない串との格闘に戻った。


「あ、クドー。これ」


 最早最後の一つとなったおにぎりを齧りながら、エンが先程の米菓子が詰まった袋を押しつけてきて、工藤は慌てて空いていた片手で受け取る。やたらと大きい袋にはぎっしりと中身が詰められていて、存外に重い。


「何ですかこれ。駄菓子とかですか」

「オジキダラ。食うなよ。面倒なことにあるから」


 と工藤の足元を指さす。工藤は怪訝そうな顔で視線を下へと向けた。


 子犬ほどの大きさの白い塊がもぞもぞと身を擦り寄せてきているのを見て工藤は革が擦れたような短い悲鳴を上げた。


「ほら手に持ったままでいっから。撒かないで手に持っていると寄ってくんだよな」


 無造作にエンが米菓子を一掴み撒き散らせば、塊は地面に落ちた粒の方へと這っていった。


「何ですかあれ、真っ白――」

「知らねえ。オトの兄貴に聞いたら嫌ぁな顔して教えてくれねえし、カシラは何か難しいことしか言わねえから分かんなかったんだよな。ミズニヒルがどうとかさ」


 クドーそっち行ったぞとの言葉に工藤は血相を変えて振り向く。足元を見ればまた別の個体らしい塊が緩慢に身を捩りながら近づいてきている。慌ててエンを真似るように米菓子を撒けば、のったりと体全体を捻じ曲げながら離れていった。


「おかげで空いてていいんだよなここ」

「空いてるってことは皆知ってるんですかこれ」

「夏の今っ頃になるといっつもこうだよ。苦情とかもあるらしいけど、ちゃんとどうこうしようとしたら結構かかるらしいから苦情どまり」


 金がないなら仕方がないよなとエンは菓子を撒く。地面をのたうちながら様々な色に彩られた米粒に覆いかぶさる白い塊から目を逸らすこともできず、工藤は引き攣る喉から無理矢理に声を絞り出した。


「なんで……なんでここで食べようとしたんですか」

「言ったじゃん空いてるって」


 ひと気のない公園は日射しばかり明るく、地面に散らばった色とりどりの米菓子オジキダラと這い回る白い塊は影も見せずに猛烈な日光に照らされている。


「あとは苦情が出てるからっていうので、解決まではしねえけどやってますよーみてえな格好だけはつけてえわけよ偉い連中。だからこうやって手空きとか暇あるやつがオジキダラ撒くの」

「撒くとどうにかなるんですか」

「夜泣かないって聞いた。餌あれば犬だって吠えねえもんな」


 夜に泣き声が聞こえるだけでも嫌なのに、その主がこれ白い塊だとしたら苦情も出るだろうなと工藤は心底から納得する。


「オジキダラ分のレシート出して報告しとけばカシラも昼飯代出してくれるしさ、鳩に餌やって飯代浮くなら万歳じゃん」


 呆然とする工藤の足元に肉塊が這い寄る。歪な魚に似たそれは妙に生白く、日差しに照らされてのろのろと身を捩る。晴れ渡った空を必死で眺めながら、工藤は袋に機械的に手を突っ込んでは一掴み分をなるべく遠くへと撒く。白い地面に極彩色の粒がばらばらと散らばり、うぞうぞと肉塊がそちらに向かって這っていく。

 エンは手慣れた手つきで盛大に菓子を撒きながら、もう片方の手で器用にサイダー瓶の口を開けた。


「クドーも炭酸開けろよ。撒き終わったら帰るしさ」

「終わるまで帰れないんですね」

「だってまだ全然出てきてねえもん」


 工藤の顔から血の気が引く。見開かれた目が呆然とエンを見た。


「もっといるんですか」

「いるから苦情が出るんだよ。二三匹だったら知れてっけど、まあ群が一斉に泣けばうるせえんだよな本当に」


 夏の風物詩みたいなもんだよと言ってエンは笑顔を向ける。工藤は視線を逸らしてから、ぐったりと項垂れるように頷いた。

 エンは日射しに眩し気に目を瞬きながら、また盛大に菓子を撒く。もぞりと蠢く塊は緩やかな動きで右往左往しながら、懸命に地面をのたうっていた。


「チキンレースやっても楽しいんだけどな。ギリギリまで引きつけてから撒くの。たまに膝まで来られてすげえ気色悪いけど」


 一際日射しは強くなり、熱風が吹き抜けてから蝉が一斉に鳴き出す。サイダー瓶を片手に、エンは朗らかに笑った。

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