強い酒でも悪い夢でも逃れられない過去があるのさ

 嗚咽と断末魔を交えた粘り気のある水音が空調の軋みを掻き消す。今日になってから何度聞いたか分からないそれに最早顔をしかめる気力すら失くして、工藤は音の発生源へと視線を向ける。


 事務所の隅、長椅子と傷の多い大机の置かれた一角。年季の入った長椅子に絞られた雑巾のようにぐったりと横になりながら、オトは抱えていた横腹が盛大にへこんだ金バケツを床にごとりと置いた。


「兄貴まだ吐けるんすね。いい加減空になるもんじゃないんですかこんだけ吐いたら」


 朝からずっとじゃないですかとエンがバケツの中身とオトとを交互に見てから、珍しく芯から呆れた顔をした。

 どこから出してきたのかも分からない、角房が盛大にほつれた座布団を抱えながら、手酷く枯れた声でオトが呻いた。


「ああきっついなこの年で二日酔い……そうだエンお前ね、兄貴分を躊躇なく殴るんじゃねえよ痛えだろ。痣んなってたぞさっき風呂場で鏡見たら」

「すんません。けどカシラの指示でしたし」


 だって兄貴より偉いでしょうカシラと平然と答えるエンに、オトは顔を覆ってから長椅子に転がったまま溜息とも呻きとも判然としない声を上げた。

 瀕死の魚のように長椅子の上でのたうつオトを横目に、エンはバケツを手にしてさっさと立ち去ってしまう。エンが存外にきちんと弟分らしく面倒を見ていることに驚きながら、工藤も大机にヤカンと湯呑を置いて、その正面に座る。


「注ぎますか。お茶ですけど、ぬるいやつです」

「頼むわ新人さん。もう暑いんだか寒いんだか分かんねえのよ悪寒で」


 オトは長椅子の背もたれにずり上がるようにして身を起こして、淀んで充血した目をこちらに向けて力なく笑う。その口元からまた何かが這い出しては来ないかと一瞬身構えてから、工藤は恐る恐る茶を注いだ。

 礼を言って茶を受け取ってから一口啜り、まだ怯えた視線を向ける工藤に対してオトは頭を片腕で支えながら苦笑してみせた。


「ビビんなくてももう何も出ねえよ。あのあと親父に取り上げられたからな、虫」

「取られたんですか」

「だってそもそも俺んじゃねえもの。親父の食堂のツケなんだからさ……俺の仕事は取り立てて持ち帰るまでであって、最初ハナから所有権なんざねえの」


 そうじゃなきゃこんなザマにならねえよというオトの物言いに、工藤は昨夜のハチロウの言葉を思い出す。水に入れば美酒を成し、人の腹に入れば酔いを喰らって大酒を干させるという奇虫。その肉塊に張りついていた濡れた眼のつぶらさを思い出して、うっすらと覚えた吐き気を誤魔化そうと工藤は質問を探す。


「今回はその……最初からあれが目当てだったんですか」

「まあねえ。結果的によっちゃん様様ではあるわな。骨と指折った甲斐があったよ」


 おまけに血まみれにもなったしなと得意げな表情のオトに、工藤は辛うじて口の端だけを吊り上げて笑顔のようなものを作った。


「自力で積年のなんかみたいなことを言ってたけどね、よっちゃんももう年だから。そういう意地張る前によそに溜めたツケ始末してくれたら指折んなくても済んだのにさ、向こうだって血まで用意してただの骨折り損じゃんか。俺はアロハやられて二日酔いだし」


 うわ言のようなお喋りを突然に中断して、オトは俯いたきり黙り込む。喉が不自然に上下するのを見て、バケツを始末しに行ったまま戻らないエンを呼ぼうかと工藤が息を吸い込んだ矢先、無言のままオトが湯呑を手に取る。

 そのまま一息に干してから盛大に息をついて、倒れるように背もたれにめり込んだ。


「あー……まあ、あれだな。よっちゃんの名前に反応してくれたから手間が省けたよ」

「知らないって突っぱねられたらどうする気だったんですか」

「だとしたらまあ……あらこれは不幸な偶然、でもさすがにこれ酒虫アリで勝負ってのは成立しませんね今回はなかったことに、って最低でも損だけはしないようにはするつもりだったがね」


 案山子呼べたから生きて帰れるなとは思ってたよいうオトの言葉に、工藤は嫌な可能性に思い至る。あの一触の乱闘とその後にあったカシラの長広舌。どちらか及びどこかで少しでもやり口を誤っていたのならば、自分たちはもしかしたら口封じのために諸共殺されていたのかもしれないという想像が背筋を撫でて、クーラーの効いた室内だというのに嫌な汗がじっとりと工藤の肌に滲んだ。


「それもあるから我々も見物と歓迎会を兼ねて同席したんだけどね。オトさん一人だったら本当に埋められて終わってしまうから……」


 いつものように涼しい顔でデスクで書類を眺めながらモニター越しにカシラがこちらを見た。工藤の記憶が確かならばこの人も随分な量を飲んでいたはずなのだが、真っ白い肌も感情の読めない微笑が張りついた顔も普段と全く同じだ。あまりにも変わらない様子に、この人も腹の中に何か飼っているんじゃないかと不穏なことを工藤は考えた。


「腹芸でどうこうやれるのなんて、余裕と余力があるときだけだからね。取れる手段は大いに越したことはないんだ」


 暴力沙汰でも人数が多い方が何だかんだで有利だからねというカシラの言葉に工藤は表情を作れないまま黙って頷いた。


「兄貴まだ吐きます? 一応洗って持ってきましたけど、もう吐かないってんなら日干しにすんですけどバケツ」

「吐くよ。置いとけ。そんでお前元気だねエン……」

「ちゃんとメシ食ったんで元気です。酒飲むときは飲む分食えって教わったんで」


 空のバケツが床に叩きつけるように置かれ、響く金属音にオトが思い切り眉を顰める。エンは兄貴分の苦悶を気にする様子もなく、そのまま工藤の隣にどっかりと座り込んでから力強く片手を挙げた。


「カシラ、質問いいすか」

「いいよ。無茶を聞くとまたカガにお社に放り込んでもらうけど」

「そういやカガさんはどうしたんですか」


 いつも窓際で煙草を燻らすチンピラが見当たらないことに幾ばくかの落着かなさを覚えて、工藤は不安げにカシラに視線を向けた。


「別に心配することはないよ。そこで潰れてるオトさんの代わりに集金行ってもらったからね」


 ちゃんと埋め合わせはしてくださいよというカシラの言葉にオトが呻き声で応えた。


「で、エン。質問は何」

「あのアマ相手に赤組がどうとか言ってたじゃないですか。あれなんですか」


 カシラの滑らかな眉間に微かな皺が寄った。


「お前今更それを聞くの」


 前も教えたはずだけどというカシラの言葉にも怯まずに、エンは目を逸らすことなく答えを待っている。カシラは一瞬だけ長椅子に倒れ込んだまま視線を頑なに天井に向けたままのオトを睨んでから、あからさまにため息をついた。


「まあ、どうせ工藤君にも軽く教えてはおこうと思ったけどもさ……ついでで悪いけどね、ざっくりした説明だけするよ。聞いてくれるかい」


 カシラの言葉に工藤とエンは素直に頷いた。


「とりあえず赤組っていうのは略称でね。正式名称でいうと赤丸地域自治協同組合、字のまんまの組織だよ。この辺りアカマルの総合的な生活維持と向上のために協力しましょう、みたいな理念でやってる組合だ」

「自治」


 エンが辛うじて繰り返した単語にカシラは苦笑して続けた。


「そうだね、自治のためっていうので最低限かつ最大限だ。この辺がぐちゃぐちゃしてるっていうのは何となく分かるだろ、治安とかそういうのがさ、ほら」


 曖昧なカシラの言葉に思い当たることが多々あって、工藤は力強く頷いた。幽霊マンションで金属バットを振り回したり夜遊びに出て首を落として帰ってきたり血まみれで事務所に顔を出すような連中が真っ当であるものかと思ってから、そんな連中が一番身近な存在でありそれに縋るしかないという自分の状況に気づいて、黙って唇を噛んだ。


「まあ昔――レティクル座干渉とか大戦とかその辺りなんかはもっと酷かったらしくてね。お上が足元の立て直しに必死になっている間のその場しのぎが慣例になった、みたいなものだと思ってくれていいんだ」


 慈善団体よりかは商売っ気のある連中だよと言ってカシラは黒手袋の両手を擦り合わせた。


「所属しとけば一応便宜やサービスなんかも利用できるんだけどね、その分貢献や割り当てなんかも増えるから……」

「生徒会とか町内会とか、そういうのの規模が大きいやつ、みたいな理解でいいですか。俺あんまりそういうの知らなくって、その――」


 恐る恐る尋ねた工藤の言葉にカシラは一瞬だけ不意を突かれたような顔をしてから、嬉し気な声で答えた。


「意外と近いなそれ。面倒ごとも回ってくるけど、ちゃんとこなせば内申点メリットもあるってあたりは同じだね。うん、狭い世界で一目置かれるってのもおよそ合ってる」


 とりあえずその理解でいいよと投げやりにすら聞こえる太鼓判を押されて、工藤は一応自分の理解が致命的に間違っていたのではないことに安堵しつつ頭を下げる。

 要するにこの混然雑多として凶暴な土地において、自治という名目に尽力するだけの余裕と能力がある連中の集団のようなものなのだろう。だとすれば酒席でのカシラの迂遠な脅迫は全くのでたらめというわけでもなかったのだなと、今更ながら工藤は感心と恐怖が細やかに入り混じった気分になる。

 カシラは相変わらずの平坦なのに感情だけは滲んで聞こえる妙な口調で続けた。


「つまり虎の威を借りたわけだよ。私に何かあれば上の連中が……みたいなやつだ。中々使う機会がないやつだから楽しかったよ」


 カシラは成就したいたずらを自慢する子供のような表情で笑った。


「実際そういうやつあるんですか。カシラっつうか組合員に手ぇ出したら、みたいなやつ」

「お偉いさんのどうこうでならたまにあるけどね、そういうのはもっと暴力向きの連中に回されるやつだからやったことないな」

「ないんですか」

「うちにまで動員がかかるとしたら、余程の大ごとかしょうもないかのどっちかだろうね」


 それはそれで楽しそうじゃないかと目を細めるカシラの顔を見てから、そろそろと視線を逸らすのを誤魔化すように、工藤はゆっくりと頷いた。


「そういや兄貴にも聞きてえんすけどいいすか」

「あー……いいよ、難しいこと聞くなよ。俺も中卒だからよ」

「なんであの女にかましたんすか」


 エンの無遠慮な聞きように工藤がうろたえてヤカンの柄を握り締める。オトはそれを眺めて短い笑声を漏らしてから掠れ声で答えた。


「そりゃお前、動機もなしにやらかしたらただの色魔だろ。口実ってのが大事なんだよ、よっちゃんも同じ手でやられたって言ってたしな」

「よくその――キスだけで取り出せましたね。胃に棲んでるものを」

「ん、だからあんなにだらだら喋ってたんだよ俺。時間稼ぎ」

「時間稼ぎでどうにかなるんですか」

「なるんだよ。なったろ」


 蒼白な顔のまま自信に満ちた口調で断言するオトをしばらく見つめてから、工藤はくるりとカシラの方を向く。カシラは見越していたようにモニターから目を離し、工藤の目を真直ぐに見てから口を開いた。


「まずね、そもそも人体って酒虫にとって住み易いってわけでもないんだよ。あいつらはこう……どっちかというと涼しい方が好みでね。水場が好きなんだ、たまに山の滝なんかにわらわら湧いて酒の滝なんてのが話題になったりする」


 孝も徳もあんまり関係がないねというカシラの言葉にどう返すべきか分からず、工藤はとりあえず黙って頷いた。


「人間って体温があるでしょう、あれが嫌なんだね。熱くなると這い出ようとするから、抑えにまた冷えた酒を飲む。すると落ち着く」

「じゃあずっと飲み続けてなきゃいけないじゃないですか」

「そうだね。だから常に腹に入れておく人はいないんじゃないかな。水槽とかで飼っておいて、必要になったら飲むんじゃないかな」


 まめな水換えが必要だねと笑うカシラの言葉に、酒虫の外見を思い出したのだろう。工藤はきつく眉根を寄せて、黙ったまま目だけを伏せた。


「水槽の水も酒になるからいい小遣い稼ぎになりそうだけどね。普通はそっちの需要があるんだけどね」

「あんとき案山子の兄ちゃんも言ってたけどよ、珍しいけどもう素晴らしく貴重とかこれを巡って殺し合いがとかそういうやつじゃねえのよ。見てくれも悪いし。できることったら酒飲むくらいだし」


 それこそ飲み比べでしか活きないだろというオトの言葉に、だからこそ水鳥戦はぴったりの舞台だったのだなと工藤は納得した。イカサマの有無を考えたときに、腹の中に何かを仕込んでいるなんて可能性まで想定する必要があるだなんて恐ろしいにもほどがある。差し向かいで飲んでいた相手の口元からあんな肉塊が覗くような情景を想像したくなくて、工藤は幾度か頭を振った。


「ま、だから酒虫入りでやられたら勝てるわけがないってんで引きずり出す手段が必要だったわけよ……本式でじっくりやんなら、縛りつけて蒸し風呂にでも放り込んでおけばいいんだけどな。さすがにそれはあれだろ、やり口がむごいだろ」


 酒の席で無理矢理に女性の唇を奪う方と熱責めのどちらがひどいのだろうかと考えて、どちらも分類が違うだけの暴行なのではないだろうかと工藤は思った。だがそれを口に出すのは諦めて、とりあえず次の話題へと話を進めようと試みる。


「じゃあ――じゃあ他の水鳥にもいるんじゃないですか、酒虫とかそういうイカサマを仕掛けてる人」

「いても不思議じゃないだろうね」

「いるだろな。ただ見抜けねえやつが間抜けだし、尻尾を出したやつがドジなだけだろ、クドー」


 ハチロウさんも言ってたじゃんと軽い調子のエンの言葉に、工藤は咄嗟に黒スーツの怪人の顔を思い出そうとして何も浮かばないことに気づいた。

 天井をぼんやりと眺めたまま、オトがぐうと喉を鳴らして口を開いた。


「でもな、あー……水鳥酒飲みもよ、趣味が高じてなったようなやつにはそういうのいねえんじゃねえかな。いや分かんねえけどさ。道理がねえから」

「道理」

「道理よ。そ――」


 怪訝そうに工藤が聞き返せば、意気揚々と答えようとしたオトが素早くバケツを手に取りそのまま顔を突っ込む。ばしゃばしゃと水を吐き戻す音が聞こえて、工藤は悲惨な顔をした。


「畜生もう何も入ってねえのに……お茶注いでくれるか新人さん、飲む」

「飲めるんですか」

「飲んどかねえと吐けねえんだよ。胃液だけ吐くのが一番しんどい」


 吐くために飲むんだよと余りにも救いの余地がないことを言いながらオトは湯呑を突き出す。工藤は最早質問をしようという気力すら失って、黙ったままヤカンを持ち並々と注ぎ返した。

 一口啜ってバケツに吐き出してから、オトは両手で頭を抱えたまま背もたれにめり込む。二三度要領を得ない音を吐き出してから、地を這うような声が続いた。


「まあ……何のために飲むのかって言ったらさ、そりゃ個々人皆違うわけよ。浮かれてえとか死にてえとか泣きてえとか暇潰しとか、まあ本当に色々だ。そんで大体の要求に酒は応えてくれる」


 工藤は黙って頷く。オトは時折天井の光を払うように掌をひらひらとさせながら、呟くような声音で続けた。


「味だの喉越しだの香りだの、そういうのもまああるかもしんねえ。けどな、すげえ簡単なことじゃねえかなって俺は思ってる。メシと一緒だよ」

「一緒ですか」

「メシも色んなことをいうやつがいるだろ。幸福感とか満足感とかなんかこう、なんかそういうやつ。けどそういう個人の主張とか趣味はさておいてよ、食うだろ」

「……そうですね。人間食べないと死にますね」

「そういうことだよ。色んな御託をそぎ落として残ったもんが基本だろ。で、酒のそれが何かっていったらさ、」


 僅かに躊躇うような沈黙を挟んでからオトは言った。


「酔いてえからだよ。だったら――酔えねえ酒なんぞ飲む意味がどこにあるんだ」


 そんなもん寂しいばっかりじゃねえかと絞り出すような声で続けてオトはずるずると背もたれを滑り落ち、そのまま俯せて動かなくなった。

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