第18話  対決


土門は、今、動かなければ何よりもかけがえのない大切なものを失ってしまうという自らの直感に従って、行動に出た。


いつの時も、自分の直感を信じてきた。

大学へ進学する時も、写真を専攻した時も、カメラマンを目指したにも拘わらず方向転換した時も、フリー雑誌の仕事を辞める時も。

そして、エディットTへの就職を決めた時も。

面接の時、遥子と初めて対面した時も、土門の直感の言葉は、「見つけた!」だった。

ひとめ惚れというのとは少し違う感覚だった。

この人と一緒に居るべきだと思った。

明確な理由は無かったが、この人の元で仕事をし、この人と共に歩きたいと、直感で感じたのだ。


「貴方が私を傷つけた!」

遥子の一言に、心をえぐられた。

誰に何を言われるより、衝撃だった。

傷つけた自覚が全く無かったからだ。

遥子の過去を聞いた夜から、激しい怒りに心が占領された。

彼女の当時のすべての感情が一気に流れ込んできた。

悲しみ、悔しさ、惨めさ、恨み、怒り………それら経験したことのない感情に巻き込まれ、溺れそうな感覚に陥った。

それなのに、遥子は許せないのは自分だと言った。

どんな復讐をしたのかはわからず仕舞いだったが、それを許されたのだと言った。

遥子の話は、悪いのはすべて私だと言っているように聞こえた。

有り得なかった。到底、理解に苦しんだ。

長い月日、江上を支え、救い、想ってきただけではないか?

その彼女を傷つけ、追いこみ、狂わせたのは彼らだ。

なぜ、許されなければならない?

彼らが床に這いつくばって許しを乞うことはあっても、なぜ遥子が許される側なのだ?

土門の思考は完全にそこで停止した。

この数日間、怒りの感情が収まらず、平然を装うのが精一杯だった。

そこにあの言葉を喰らったのだ。


考えに考え抜いた挙げ句、土門は江上に会いに行く決意をした。

会いに……というより、対峙して自分の目で本当の処を確かめようと決めたのだ。


以前、勤めていたタウン誌の名前を使って、取材を申し込んだ。

当然だが、いきなりの取材は断られた。

自宅兼事務所となっていたから、電話口で対応した快活な女性が……遥子が妹のように可愛がっていたという“ 美月ちゃん ”なのかもしれなかった。

週刊誌や全国区の雑誌ではなく、地元の良いところや人気者を紹介しているタウン誌だと喰い下がった。

地元の人達に主に作品を紹介させてほしいと頼み込んだ。

すると、今月末に引っ越すので多忙なのと、地元からは居なくなるという理由で断られた。

軽井沢に夫婦で引っ越す……それは長谷部が遥子に告げていたのを立ち聞きしたからわかっていた。

それならば、記念に“ さよなら特集 ”的な記事を書かせてほしいと申し出た。

するとそんな大事にしたくないからと、断られた。

そこで、最後の手段として……

自分は今年入った新人記者で、江上作品のファンとしても初めての記事をどうしても書かせてほしい!と泣きついた。

これには、さすがの美月も即座に断らなかった。

自分もかつては新人編集者として苦労していた記憶があったからだ。


そして、とうとう時間限定の簡単な取材が許された。

それも、記事や写真は事前にチェックして意に反すれば、掲載はしないという条件付きで。

それで十分だった。そもそも取材など存在しないのだから。


土門は、あらかじめ調べておいた住所と、電話口で教えて貰った住所を照らし合わせ、タウン誌の頃に使っていた取材用の鞄と小さめのカメラを用意すると、バイクで向かった。


世田谷通りから大きな記念公園を曲がり暫く行くと閑静な住宅街に江上邸はあった。

周囲の建物とは全く異質の大きな洋館が厳かに建っている。

ヨーロッパ建築を模したようなレンガ造りの屋敷と大きな門扉が目を引く。

バイクを駐車場に停め、正面の門扉に備え付けられたベルを押した。

ややあって、パタパタと小走りでこちらへやって来る足音が聞こえた。

門扉がゆっくりと開き、小さな女性が現れた。

「こんにちは!月刊アルゲートの、土門さんですか?」

前下がりのサラサラなボブヘアーを揺らしながら彼女はニッコリと満面の笑顔を見せた。

「……はい、初めまして、土門と言います。お電話の時は無理なお願いをしまして、申し訳ありませんでした。」

土門は、名刺を差し出しながら、頭を下げた。

前の会社の名刺はまだ持っていたので利用させて貰うことにした。

顔を隠すために伊達メガネをし、キャップを深めに被ってきた。

「江上は、取材の類が苦手なので、すんなりお受け出来なくてごめんなさいね。でも、アルゲートさんが地元に根付いたタウン情報誌さんだって理解しましたし、何より土門さんの初めての記事だと聞かされて……なんか他人事で無いような気になって……説得しちゃいました!」

美月は、フフッと笑った。

「私も、かつて新人の時はとても苦労したので!さ、どうぞ、ご案内します。」

良い人を絵に描いたような美月に、土門の心は微かな痛みを感じた。


玄関まで続く石畳を小さな背中について行く。

150センチ位だろうか?

歳は、自分より一つ二つ下のように見える。

この人が江上龍也の運命の人で、妻……。


屋敷に相応しい広い玄関に入ると、来客用のスリッパが並べてあり、美月がにこやかにどうぞと微笑んだ。

二階に続く大階段の横の廊下を真っ直ぐ進むと美月は手前の部屋をノックして扉を押し開けた。

「お客様をお連れしました!」

広々とした書斎とみられる部屋は、庭に面した壁が大きなガラスを何枚もはめ込まれた窓になっている。

そのガラス窓を背にチーク材の重厚な机が置かれていて、そこに江上は座っていた。

「ありがとう。」

低い印象的な声が響くと、その人物は動いた。

スッと立ち上がったシルエットは、想像以上に高く、178センチある土門より10センチは高い。

「土門さん、こちらのソファにどうぞ!お茶とコーヒー、どちらがお好みですか?」

しなやかな動きでソファに移動する江上に気を取られ、美月に声を掛けられて我に返った。

「あ、いえ、すみません。お気遣いないようにお願いします。」

土門が丁寧に美月に頭を下げると、

「で?お茶ですか?コーヒーですか?」

いたずらっぽく美月が笑った。

「え?あ、では……お茶をお願いします。」

そのやり取りに江上が声もなく笑っている。

「土門さん、でしたね?どうぞこちらへ…」


ソファに向かい合って座ると、土門は、名刺を差し出しあらためて挨拶をした。

「本日は、無理なお願いを受けて頂いてありがとうございます。宜しくお願い致します。」

「初めまして、江上龍也です。」

実際に見る江上は、客観的に見ても、やはり自分と似ていた。

もちろん、年齢差があるから瓜二つとはいかないにしても、遥子が最初の面接の時に、動揺したのも無理はないと思えた。

挨拶が終わる頃、美月がお茶を運んできてくれた。

「同席しましょうか?」

美月が江上に尋ねた。

だが、江上が答える前に土門が遮った。

「もし宜しければ!江上先生と一対一での取材は可能でしょうか?作品の事も個人的に色々お伺いしたいので……」

「……だそうだよ?」

江上が苦笑いしながら美月を見た。

「はい、宜しいですとも!では、御二人でごゆっくりどうぞー」

美月は大きく頷きながら、ニッコリ笑った。

自分が対峙したいのは、江上本人であって、彼女は巻き込むべきではない……この数分間で心にそう決めていた。


美月が部屋を出ていくと、土門は、心を決めて、ゆっくりと帽子を取り、眼鏡も外した。

まるで変装を解くかのような土門の様子と、真っ直ぐに自分を見つめるその顔を見て、江上の目が訝しげに細められた。

自分によく似た容貌の目の前の青年に、江上はハッと驚き、顔が強ばった。

「……君は……?」

土門は、鞄からもう一枚の本来の名刺と事務所紹介のPRパンフレットをテーブルの上に丁寧に並べると、立ち上がって深々と頭を下げた。

「まずは、謝罪します。自分はタウン誌の記者ではありません。従って、取材というのは嘘です。申し訳ありません!」

「……なんだって!?取材は嘘だと?……君は、誰だ!?」

江上は、咄嗟に警戒を強め、冷たく言い放った。

土門は、ゆっくり座り直すと

「お怒りはごもっともです。でも、僕は江上さんに、どうしてもお会いしたい理由があったんです。その名刺が今現在の本当の名刺です。そして、そのパンフレットを見て頂けますか?」

江上は、睨むように土門を見ながらテーブルの上の名刺とパンフレットを手に取った。

エディットTの事務所名の入った名刺から、エディットTのPRパンフレットを端から端まで眺め、裏表紙の事務所のアドレス、連絡先、そして代表者の名前を見つけた時に、江上の目は見開かれ、動きが止まった。


「………時田遥子……」

江上は、低く呟くように名前を読み上げた。

土門は、すぐには何も言わず、江上に推察する時間を与えた。

暫くパンフレットを眺め、内容も読み取ると、ようやく江上が静かに口を開いた。

「……彼女は……時田さんは、独立したんだね?」

「……はい。」

そこで、江上の厳しい表情が緩み、安堵らしきものが浮かんだ。

「時田さんは、元気にしているんだね?」

「……はい。」

「君がそれを伝えに来たのは、彼女に頼まれたから……ではなさそうだね?ならば、嘘までついて私に会いに来た理由とやらを聞こうか?」

江上の声に冷たさと不信感が戻った。

土門は、実はノープランでここへ乗り込んで来ていた。

とにかく遥子をどん底まで落とし入れた江上に会い、彼の口から本当の事を聞こうと思ったのだ。


「全てでは無いですが……江上さんと遥子さんの間に起こったことを、彼女から聞きました。」

土門は、時田遥子のことを敢えて“ 遥子さん ”と呼んだ。

「彼女が、貴方と仕事上のパートナーであったこと。実はこの世界に引き込んだのが彼女だったこと。貴方を成功に導いたのも彼女だったこと。そして、長年貴方を想っていた彼女を切り捨てたのは……江上さん、貴方だったということ」

腕を組み、眉を潜めながら、厳しい表情で土門の話を聞いていた江上だったが、最後の「切り捨てた」という言葉に目を細めた。

「……そして、あなた方に追い詰められた遥子さんは、我を失い、復讐をしてしまったということも。」

今度は江上の顔に、苦痛らしきものが浮かんだ。

そうだ!苦しむのは、彼女ではなく、貴方だ!

土門は、心の中で燻り続けていた怒りと共に、そう呟く。

「……君は、彼女のなんなんだ?何の目的があってこんなところまで乗り込んで来た?」

「僕は……」

土門は、慎重に言葉を選ぶ。

「僕は、遥子さんを誰よりも幸せにしたいと思っている、一人の男です。彼女を心の底から愛している一人の男です。」

真っ直ぐな眼差しで、遥子を愛している男だと名乗った彼の真剣な表情に、江上の表情は少し緩んだ。

「ならば……そうすればいい。彼女を大切に愛せばいい……違うかい?」

土門は、小さなため息を付くと、少しうつむき加減で話し始めた。

「エディットTの面接を受けた時に全ては始まりました。遥子さんは、僕を見てひどく驚いていた。募集の条件は全てクリアしていたというのに……まともに面接すらして貰えずに、まさかのこの顔のせいで僕は落ちたんです。」

その時の思いを思い出し、土門の表情は沈んだ。

「でも、僕は初めて彼女を見た瞬間からどうしても彼女と共に仕事がしたい、共に歩きたいと……不思議な感覚に捕らわれてしまい、諦めきれずに、半ば強引に、まるで押し掛け女房かのように雇って貰ったんです。」

江上は何も言わず、姿勢も崩さず、黙って聞いていた。

「最初は、元カレか何かに少し似ているから、僕を見たくない、微妙に僕を避けているんだと思っていました。なので、僕は僕なんだと、その似ている誰かではなく、土門駿平なんだと、仕事でもプライベートでも必死にアピールしました。ですが……」

土門は、顔を上げて厳しい顔つきのままの江上を見た。

「彼女が僕を通して思い出していたのは、江上さんではなく、自分の犯した罪なのだと、告白されました。おそらくは……自分はいまだに自分を許せていないんだと……」

「彼女は……罪など犯してはいないよ。」

ようやく江上が口を開いた。

「なのに!彼女はそれを認めようとしない!……いったい、何があったんですか?あんな辛い顔をする程、彼女はいったい何をしたんですか?」

「それが、ここへ来た理由かい?」

江上が静かに尋ねた。

土門もなるべく冷静に端的に話そうと決める。

「遥子さんから、この話を聞いてからというもの、僕の中に当時の彼女のあらゆる感情が入り込んで来たような感覚になり……正直、怒りが収まらず、収められず、どう対処していいかわからず……」

話しているうちに、また例の痛みのような感情に襲われる。

「どうして彼女がそこまで自身を責めるのか?そこまで許せないのか?悪いのは、彼女ではないはずなのに、彼女はただ追い詰められて我を失っただけなのに……」

土門が感情に呑まれ言葉が途切れると……

「いまだに罪の意識に苦しんでいる彼女に比べて、追い詰めた当人はのうのうと幸せに暮らしていることが、どうしても許せない、かい?」

江上が淡々と土門の言葉を継いだ。

「………はい。」

「仮に、私が当時の話をしたとして、君にとって何が変わるんだい?」

よく似た顔を持つ江上が、同じような眼差しで自分を見た。

「おそらく、この怒りを処理出来るんではないかと。きっと、この怒りは、遥子さんをいずれ傷つけてしまう気がして……」

「それを、感情の同化という。大切に思うが故、その人の痛みや感情が自分のことのような感覚に陥る。」

江上が、何かの書を読むように語った。その語り口調が余りに他人事のようで、土門をムッとさせた。

「……心理学ですか?詳しいんですね?」

ぶっきらぼうに土門が尋ねると、江上は自嘲気味に笑みらしきものを浮かべた。

「かつて、私も同じ過ちを犯したからね。」

そう告げたあと、江上は何かを考え込むように押し黙った。

腕組みをしたまま、テーブルの上のパンフレットをじっと黙視している。

そして、何かを決意したように江上は顔を上げた。

「彼女が……時田さんが、今も間違った罪の意識を抱いていて、そこから救いたいと言うのなら……話すべきなんだろうね。ただし、君を信用するという大前提でなければ話せない。なぜなら、私の葬りさった過去の話をしなければならないからだ。」

その真剣さを含んだ声は恐ろしく静かで低かった。

「宜しくお願いします!ここでお聞きしたことは、絶対公言しないとお約束します!墓場まで持っていきます!」

土門は、背筋を正し、深々と頭を下げた。


「……そもそも私と時田さんが出会ったきっかけは、とあるBARで毎晩アル中のように酔い潰れていた私を彼女が見つけたことから始まった……」

まず江上は、遥子と出会った頃の自分の状態を説明した。

そして、なぜそうなったのかも。

つまりは、かつてバスケットボールの実業団所属だったこと、全日本候補までいって卑劣な罠に掛けられドーピング事件に巻き込まれたこと、挙げ句の果てにその世界を追放されどん底まで堕ちたこと。

そして、遥子が復讐と言った出来事が、そのドーピング違反に使用された薬を美月を利用して自分に服用させたこと。

土門は、まばたきすることも忘れ、呼吸も忘れる程の衝撃を受けながら江上の告白に聞き入った。


「ただただ、哀しい出来事だったんだ。誰が悪いんでもない、誰のせいでもない……一つの気持ちの歯車がズレたが故のすれ違いになり、悲劇を生んだ。」

江上の沈んだ低い声を聞きながら、土門は自分の抱えていた怒りがいかにちっぽけな感情だったかを思い知った。

誰が誰を許すとか、許されるという単純な話ではなかったのだ。

そして、何故遥子が最後まで自分が何をしたかを言わなかった理由がわかった。

最後まで、江上の過去を守るためだった。

その遥子の覚悟の強さ。

そして遥子を救う為に、見ず知らずの自分に葬り去った過去を話してくれた江上の潔さ。

土門はあらためて膝の間に埋めるように頭を深く下げた。

「僕の……僕の抱いた怒りがどれほどちっぽけで自己本意だったのか……思い知りました……」

「だが、その怒りは彼女を想うが故のものだろう?」

江上は静かにそう尋ねる。

「君にこの話をした理由は二つ。

君が時田さんを心の底から愛していると言った事を信じようと思ったから。もう一つは……私と同じ過ちを犯しては欲しくないから。」

「……過ち、ですか?」

土門が顔を上げて江上を見ると、彼の表情はなんとも複雑に歪んだ。

「私も君と同じように怒りの収め方を間違えて、一番大切で守らないといけない人をとても傷つけたんだよ…」

おそらくは……それは美月のことなのだと、土門は悟った。

「当時、時田さんが始めたことに巻き込まれた美月は、一切の事を私にも誰にも言わなかった。彼女は、誰のせいにもしたくなかったからだ。全てを自分の行った事だと決めて、どんなに問い詰めても口を開かない美月に、私の怒りは彼女に向いてしまったんだよ。」

土門は、ハッとなる。

江上は小さく頷く。

「そう。君が今、同化している感情は、彼女を傷つけまい、守りたい、と強く思うからだよ。でもその思いが伝わらず、一方的になると……最終的にその怒りが彼女自身に向いてしまうことになる。」

土門は、江上の的確な言葉に震えた。

遥子に投げられた言葉、「貴方が私を傷つけた!」の意味が今、わかった。

哀しい過去を打ち明けてくれたのに、自分が自分を許せないんだと打ち明けてくれたのに……

自分勝手な怒りに捕らわれて、肝心の彼女を放ったらかしにしたのかもしれない。

土門は、思わず頭を抱え込んだ。

もう遅いかもしれない。

「大丈夫だよ。」

江上が土門の様子を見て、励ますように声を掛けた。

「もう一つアドバイスするならば……我々男なんかよりも女性の器はずっと大きいのさ。男どもには敵わないよ。覚悟も度胸もいざとなったら遥か上をいくから。」

最後は厳しかった江上の表情にも、優しげな笑みが浮かんでいた。


土門は、あらためて心からの御礼を伝え、そしてここで聞いたことは記憶の奥底に閉じ込める事を誓った。

最後の江上の言葉……

「どうか時田さんと幸せになって欲しい。そして、いつか皆が笑って再会出来る日が来ることを待っている。」

それを胸に土門は、江上邸を後にした。


「あら?土門さんは?取材終わったの?」

土門が去った後、様子を伺いに来た美月が書斎のドアから顔を覗かせた。

独りで感慨深げに窓から見える庭を眺めていた江上は、美月に微笑みかける。

「……こっちにおいで。」

キョロキョロと土門の姿を探しながら、江上の側まで来た美月は背の高い夫を見上げた。

「……土門さん、帰っちゃったの?」

「うん、彼は帰ったよ。美月に宜しくと言っていたよ。」

少し不満げに美月が口をすぼめた。

「ちゃんとお見送りしたかったのに……残念。それに、記事のチェックは?写真は?龍也さん一人で済ませたの?」

江上は、一寸間思案してから、美月に打ち明けた。

「……実はね、取材ではなかったんだ。彼は、僕の本がきっかけでこの業界に入って本作りの仕事をしている若者で……どうしても僕に相談をしたかったらしい。」

美月は、目を丸くして驚いた。

「えぇ!?取材は嘘だったの!?……あんなに一生懸命にお願いされたのに……」

江上は、美月の肩を優しく抱き寄せた。

「許してあげよう?悪い青年ではなかったよ。彼なりに必死に知恵を絞ったんだろうよ、いきなり相談に乗って下さいと訪ねられても確かに門前払いだろうしね。」

美月は、まだ不満の残る顔で江上を恨めしそうに見上げた。

「なんか…私だけ仲間外れみたいだわ。それで?ちゃんと相談に乗ってあげたの?彼の悩みは解決出来たの?」

江上は美月の膨れっ面に笑いながら、彼女の肩を慰めるようにポンポンと叩いた。

「解決したかどうかは、彼次第だけどね。でも、きっと大丈夫なんじゃないかな?吹っ切れた良い顔をして帰っていったから。」

江上の返事を聞いて、美月はニッコリと笑った。

「なら良かった!来た甲斐があったのね?流石、江上先生!」

「いつか……ひょっこり遊びに来るかもしれないよ……」


江上は、遥子が再び編集者として独立したこと、そして、心から愛してくれる人に巡り会えたこと……いつか美月に今日の事全てを話してあげられる日が来ることを願わずにはいられなかった。


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