第2話 優しい人
事務所を後にした遥子は、梅雨明け前の蒸し暑さにうんざりしながらも、待ち合わせ場所のカフェへと足早に歩いた。
170センチあるモデル体型と日本人離れした美しさを持つ遥子が颯爽と歩くと、街中でも人目を惹く。
目鼻立ちがハッキリとして、俗にいう美人である。
肩を過ぎるセミロングの明るめの栗色の髪は緩かなウェーブで艶やかに揺れる。
彼に会うのは半年振りだろうか。
かつて編集者としてバリバリに働いていた頃、彼も他の出版社で編集部チーフとして働いていて、作家の家に原稿を取りに行くとよくハチ合わせをし、言葉を交わすようになった。
非常に仕事の出来る先輩であり、当時教えられることも多く、尊敬している編集者でもあった。
そして、彼もかつての自分を赦した優しい人のひとりだった。
「すみません!お待たせしてしまいました。」
珈琲専門店の奥まった席で座っていると、相変わらずスマートで男前のその人が急ぎ足でテーブルの前に立った。
彼の名前は、
光永出版社の書籍編集部チーフだ。
遥子は慌てて立ち上がる。
「……長谷部さん、御無沙汰しておりました。お忙しいところをお呼び立てして申し訳ありません」
遥子は丁寧にお辞儀をした。
揃って席に着くと、長谷部はニッコリ笑う。
「いえいえ、連絡を頂いて本当に嬉しかったんですよ。前回、偶然にでしたが再会を果たせましたが……あれから長い時間経っていたのでまさか連絡を貰えるとは思っていませんでした」
彼の正直な感想に、遥子は苦笑いで答える。
「すみません。図々しいとは思いました。連絡を差し上げていいものかと、かなり迷いもしたんですけど……」
そこで遥子はバッグから名刺入れを出し、薄いクリーム色の真新しい名刺を差し出した。
そこには、〈 編集プロダクション エディットT 〉という事務所名と〈 代表 時田遥子 〉の文字が印刷されていた。
受け取った長谷部の表情がぱぁっと輝いた。
「……いやぁ!そうでしたか!なんとも、こんな喜ばしいニュースが聞けるとは!」
驚きと喜びの表情を浮かべる長谷部を見つめながら、この人にだけは知らせたかったのだと、遥子はあらためて思った。
今から半年前の、正月明けて間もない寒い日に、まさかの再会は訪れた。
出版社を退社した後は、自己に向く酷い嫌悪感や罪悪感に苛まれ、働くでもなく、何をするでもなく数ヶ月を引きこもって過ごしていた遥子だった。
だが、失業保険もそろそろ底をつく頃、少しずつ冷静さも取り戻しつつある中で、遥子は生活の為、仕方なくアルバイトを始めた。
自宅近くの小さな本屋のアルバイト募集の張り紙を見て、何も考えずに飛び込んだ。
本の匂いが好きで、本を手に取っていると落ち着いた。
いつの間にかそんな体質になっていたのだ。
きっとこれも職業病のひとつなのだと、自嘲しながら店頭に本を並べたりレジ打ちをする日々を送っていた。
「………時田……さん?」
レジ前の新刊の入れ替えをしている時、背後からあきらかな驚きを含んだ声が掛かった。
それが長谷部だった。
手にしていた本こそ落としはしなかったが、振り向きながら、はっ!と吸い込んだ息が止まった。すぐには声が出ない。
グリーンのエプロンにジーンズ、以前より伸びた髪を無造作に縛っている遥子の姿は、長谷部の記憶に残るかつての凛とした美しい彼女とは余りにも違い過ぎていた。
「こんなところで……何をされているんですか?」
“ こんなところ ”という言葉に、遥子の呼吸は苦笑いと共に戻った。
「長谷部さん、……ご無沙汰しております。」
遥子はぎこちない笑みらしきものを浮かべ、頭を下げる。そして三冊ほど手にしていた本を持ち上げながら
「ここで働いています。さしずめ、今は新刊の入れ替えです」
彼も、会いたくはなかった人の一人だった。
自分が犯したかつての醜い過ちを知る人だからだ。
だが、あの当時全てを飲み込んで赦してくれたこの人の前から逃げ出すことも出来ない遥子だった。
店長に頼み込み、仕事を上がらせてもらい近くの昔ながらの喫茶店で向かい合う。
「お元気でしたか?いや、まさか、こんな形の再会が待っていようとは……」
咄嗟に声をかけ誘ったものの、遥子との思いがけない再会に戸惑いを隠せない長谷部だった。
そりゃぁそうよね。あの当時、彼の大切な部下を陥れ傷つけた張本人を前にしてるんだもの。
遥子は卑屈な思いを隠しきれずに、顔を上げその感情を言葉にした。
「……あの時の事をお聞きになりたくて私に声を掛けたんですか?それとも……私に苦言を呈するために、私を探していたんでしょうか?」
そのストレートな問いかけに、長谷部は少しばかり顔をしかめて口元をぐっと結んだ。
温かな香りを漂わせるコーヒーを一口すするとあらためて遥子を真っ直ぐ見る。
「苦言……ですか。確かにあの時は、貴女に聞きたいことも言いたいこともありましたよ。ましてや、彼女……砂原は、私の直属の部下で編集者のタマゴとして育てていた事は貴女にも周知して頂けてたはずだと思っていたので。」
砂原……
かつて、自分を編集者の先輩として純粋に慕い、教えを乞い、無邪気になつき、最後は泣きながら自分の頬を引っ叩いて悪夢から目覚めさせてくれた娘。
だが、同時に、自分から何もかも奪った娘。
……あぁ!私はまだこんなことを思っているの!?
遥子は頭の中に浮かんだ言葉にうんざりと嘆いた。
あの子は何も奪ったりしてはいない。むしろ、あの当時の彼女の環境をぶち壊し奪ったのは私の方だ。
遥子のなんとも言い難いような苦痛に歪む表情に、長谷部はそれを断ち切るように声を掛ける。
「時田さん、でもそうではないんですよ!貴女を責めたくて声を掛けたんではないんです。こんな風な再会も、本当に偶然です。打ち合わせの帰りにふと市場調査の真似事で立ち寄った店で、奇跡的に貴女を見つけたまでです」
虚ろな目で唇を噛む遥子に長谷部は微笑みかける。
「一年です。当時は色々な感情がもつれはしましたが、もう一年です。皆、それぞれに歩みを進めてきた月日ですよ。」
長谷部の優しい言葉に、遥子は異常に冷え切った指先を温めるためにコーヒーカップを包むように持ち上げてわざとらしい笑みを浮かべた。
「……歩みを止めているのは私だけかもしれませんね」
「それでも、本屋で仕事をしていてくれていて、なんだかホッとしました」
長谷部は笑いながら続ける。
「貴女には、本が似合う。本を作るという天性の才を捨てないで下さいね」
遥子は自嘲気味に微笑む。
「そんな才……ないです。そもそも私には本を作る資格もないですから…」
長谷部は、遥子が言わんとする意味を汲み取りながらゆっくり言葉を選んだ。
「もう、いいんじゃないですか?そこまで貴女が自分を追い込んだとしても、誰も喜びませんよ。むしろ…悲しむ人達がいる」
「悲しむ……?」
「えぇ。1番悲しむのは、砂原でしょうね。彼女は貴女を本当に慕って尊敬していましたから。それに、当然、貴女を自分の恩人だと思い続けている江上先生も。」
遥子は、虚ろな瞳で辛そうに長谷部を見た。
「……それが辛いんです。そうやって私を赦す人がいるから、私は追い込まれるんです…」
「赦す……」
長谷部はため息をついた。
「貴女が大きく勘違いをしているのはそこじゃないかな?誰も、貴女を赦したりしていないでしょうから」
遥子は長谷部の言葉の意味を読み取れずに眉をひそめた。
「どういう……意味ですか?赦してはないけど、悲しむんですか?」
長谷部は、微笑みながら小さく首を振った。
「誰も、貴女を恨んだり責めたりしていないということです。あの時の事は、おそらく、それぞれが自らに責があると思っているんです。だから、誰も貴女を赦しようがないんですよ」
長谷部の言葉の意味を噛み砕くような穏やかでゆっくりとした口調に、遥子は目を固く閉じた。
そういうのが辛いんだってば……
声にならない言葉を心の中で呟いた。
「辛いですか?」
長谷部は遥子の心の言葉を見透かしたかのように言った。
「誰かに……例えば砂原に、江上先生に、とことん責められた方が楽ですか?その方が自分を赦す理由が出来ますか?」
核心を突いたその言葉に遥子はハッと目を見開いた。
「貴女は、貴女自身を赦せないでいる。あの時の貴女を赦せないでいる。なぜなら、誰も貴女を責めなかったから。違いますか?」
遥子は鳩尾辺りに鈍い痛みと衝撃を受けたような錯覚に陥った。
長谷部は、遥子の様子を伺いながら、何かを決心したように口を開く。
「私は、あの当時、第三者でしたから、第三者の目線であらためて言わせてもらいます。よろしいですか?」
遥子は、弱々しくコクンと頷いた。
「確かに、あの時起こった事は悲劇だったかもしれませんが、その切っ掛けとなった原因は、各々が各々にあると考えていたと思いますよ。江上先生は、あそこまで貴女を追い込んだのは自らのせいだと思い、砂原も貴女にあんな事をさせたのは自分の存在のせいだと思っていた。だから、誰も貴女を責めようがなかった。」
長谷部の意見は、言葉の上では理解出来た。
「あの後、砂原は1度はこの業界を辞めようとしたが、なんとか自力で踏ん張って編集者に戻ったんですよ。江上先生も、貴方との約束を果たすために、うちとの連載も、貴女とタッグを組んでいた連載も、きちんと終わらせましたよ。」
「……ですか……」
そうですか、と言ったつもりが声がかすれて言葉にならない。
「時田さんも、そろそろ御自分を赦してあげてはどうですか?もう充分でしょう?貴女を赦せるのは、貴女だけだと思いますよ」
長谷部の語り掛けるような優しい声に、遥子は零れそうになる涙を瞬きで抑え込んだ。
自分が傷つけてしまった大切な人達が、それぞれに歩みを進めていることは知っていた。
一旦はその関係を自分が無理やり壊した美月と江上も、長い時間をかけて共に歩むことを選択したことも知っていた。
ある意味、2人が結婚したことは遥子を安堵させた。
もうそこには、恨みも悲しみも復讐心もなかった。
「独立……頑張ってみてはどうですか?」
長谷部が励ますようにそう言った。
「……独立…?」
「一年前、時田さんが冬影社をお辞めになった時は、きっと独立されるんだろうと業界裏での噂を聞きました」
「あの時は……ただただ、全てから逃げ出したかっただけです。」
「では、今度は逆にその時の皆の噂に乗っかるというのは、どうですか?」
長谷部の気軽さを感じさせる言葉に、遥子は思わず苦笑した。
「……乗っかるだなんて、独立の理由には安易過ぎます」
「切っ掛けなんて、そこらじゅうに落ちてますよ。何かを始める理由なんて、なんでもいいじゃないですか。始める理由が要るのなら道端に転がってる石だって構わないんじゃないかなぁ」
冗談なのか本気なのかわからないような呑気な言葉だったが、なぜか遥子はクスッと笑った。
笑いながらも、その眼からは涙が零れ落ちた。
遥子は泣き笑いしながら、側に置いてあった紙ナプキンで涙を押さえた。
「すみません……泣いたりして……」
長谷部は優しく微笑む。
「大丈夫ですよ、誰にも言ったりしませんから。」
そして遥子の涙が落ち着くのを待って、上着の内ポケットから名刺を出すと、そっと遥子の前に滑らせた。
「すみません、独立したらどうかなど、軽はずみな事を言いました。でも、本心でもあります。もし、私がお手伝い出来ることがあればいつでも連絡して下さい」
遥子が名刺を手に取り眺めていると、長谷部が続けた。
「私は、あのバイタリティー溢れる編集者としての時田さんを尊敬していました。経験年数では私の方がずっと上のはずなのに、貴女に脱帽していたんですよ。叶うことなら、あの頃の貴女にもう一度会いたいと思っています」
遥子は、もう一度という言葉に固く目を閉じ、口元を引き締めるとキチンと顔をあげて長谷部を見た。
そして深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。そんな風に以前の私のことを覚えていて下さって……そして、今のこんな私に声を掛けて下さって……」
遥子は顔を上げると、控え目に微笑んだ。
「もう少し自分と向き合って答えが出たら、道端の石ころを拾ってみるかもしれません」
長谷部は、黙って微笑んだ。
私だけの時間が止まっている。
私を赦せるのは私だけだと言う。
あんなにも醜く苦しかった自分と、私は向き合えるのだろうか……
ずっと思い出すことすら拒否してきた“ あの頃 ”に。
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