シタマチ・インシデント

亀井 圭

プロローグ

 東京の東側、都心のビル群から少し離れたベッドタウン。IT化の進んだ昨今、未だに古き良き人情味が溢れる場所『下町』に存在する、とあるBAR。駅の北口ロータリーを抜けて真っ直ぐ、チェーンの中華屋、煙草屋、パチンコ店、ラーメン屋、スーパー、時計屋などの並びを越えて、交差点を左へ進む。さらに1本目の裏路地を入ると見えるのがBAR Kuだ。仕事帰りのサラリーマンや飲み会帰りの酔っ払いが一杯やりに来る穴場スポット。日頃の疲れもストレスも忘れて朝まで楽しめる、そんな憩いの場である。


 「いやあ、今日はえらく暇だな」


 Kuのオーナーである有瀬 光多は10席あるカウンターの一番奥でレモンサワーを飲みながらそう呟く。残念ながらこの席以外は空席だった。オーナーなのにほぼ毎日自分の店で飲んでいるせいか、他の客からはただの常連客と思われている男。飲んだ分の料金は自腹払っている。


 「まだ開けたばかりじゃない、それに世間は給料日前よ」


 有瀬の向かい側でコップを拭いていた店長の沙良は呆れ顔。有瀬の前に置かれた灰皿に吸い殻がたまっている事に気が付くと、手際よく新しい物で蓋をするようにして回収する。そして洗ったばかりの黒いガラス製灰皿を代わりに置く。


 「ちょっと本数減らしたら?吸いすぎよ」


 「心配してくれんのか?優しいねえ」

 全く気にも留めない様子の有瀬は、にやけ顔で沙良を茶化す。


 「もう、からかわないの」


 「悪かったよ、でもそう簡単に辞められるものでもないんだ」

 「それに、酒を飲みながら煙草を楽しみたいからこの店を作ったんだ。辞める時が来るなら、この店を畳む時だな」


 受動喫煙防止の観点から禁煙化が進む近年、飲食店の喫煙席は殆ど無くなった。あったとしても喫煙ブースという見世物小屋のような狭い箱だけ。ヘビースモーカーの有瀬にはこれ以上なく生きづらい世の中になってしまったので、自ら楽園を作ったのだった。

 そこそこの酒とツマミを出し、煙草が吸えてカラオケまで楽しめる。従業員は女性のみで、スナックとガールズバーの丁度中間くらいの業態。それが彼の作った城である。


 「沙良、おかわり」


 「はいはい、もちろん私も飲んで良いのよね?」


 「ああ、好きにしろ」


 「ちゃんと伝票にも付けとくからね」


 「しっかりしてんなあ」


 従業員と一緒に飲みたい場合は客が奢るシステム。女の子は奢ってもらった杯数×料金の半分がボーナスとなる。その為、気前よく飲ませてくれる客は非常に有難い上客なのだ。有瀬の立場などなかったかのように、これらも余すことなく会計に加算される。普段からしっかり者の沙良に店の殆どを任せている分、小遣いをやるくらいの気持ちであった。


 カウンターの中央付近にあるパントリーで器用にレモンサワーと自分で飲む紅茶ハイを作りながら、背中越しに沙良が訪ねた。


 「今日はこの後どうするの?」


 「ああ、ちょっと人と会ってくる」


戻ってきた沙良からグラスを受け取る。


 「乾杯」


 「いただきます」


 果肉など一切入っていない、安いが安定したレモンサワーの味。


 「女の子?」


 「いや、残念ながら男。というかいつもの後輩だよ」

 

 「本当に残念そうね、子犬みたいな顔して」


 「年上のおっさん捕まえて子犬とか言うな」

「アイツと会っても碌な話にならないからな」


 すると見計らったかのようなタイミングで有瀬のスマホにメッセージが届いた。


 「げっ、もうすぐ駅に着くってよ。アイツ暇だったのかな、今日は」


 「よかったじゃない、この辺りも平和って事ね」


 「まあ、そうだな」

 「閉店間際には帰ってくるよ、何かあったら連絡しろ」


 「うん、いってらっしゃい」


 残りのレモンサワーを飲み干す頃にはきっちり計算された伝票を沙良から渡された。現金で支払いを済ませ、黒いセットアップの上着を着て立ち上がったその時、この日初めての来店を告げるドアのベルが鳴った。


 カランラカン


「いらっしゃいませ」

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