言語学ノオト
伊藤 終
コトバとその意味
(言語学における意味論のアプローチとは)人間生活における言語の役割を生物学的に機能的に理解し、また言語の様々の用途を理解するということである、すなわち説得し行動を制御する言語の働き、情報を伝達する言語の働き、社会の結びつきを作りそれを表現する言語の働き、そして詩と想像の言語の働きなどである。テレビのコマーシャルを見てもわかることだが、何の情報も伝えないコトバさえ、大量のヒゲソリ石鹸やケーキ・ミックスを動かす力を発揮している。コトバは人々を駆り立てて街を行進させるし――他の人々にその行進者たちをめがけて投石させもする。散文としては意味をなさないコトバが詩としては大きな意味を持ったりもする。ある人には簡単で明瞭なコトバが他の人々には不明瞭で不可解なこともある。われわれはきたない動機やよからぬ行動をコトバの糖衣で包んだりするが、一方、高い理想や抱負を説くのもコトバによってである。
―― サミュエル・イチエ・ハヤカワ(S・I・ハヤカワ、Samuel Ichiye Hayakawa, 1906-1992、文中丸カッコ内は筆者補記)
コトバは、コトバが言い表そうとしているそのものではない。
私を乗せた車があなたの家の前に着いたとき、車から降りるのは紛れもない私そのものだ。しかし私が「いやあ、長旅で腰が痛いよ」と言ったとき、コトバによってあなたの中に降り立つものは、あなたの中のイメージであり、私の長旅と腰の痛みではない。コトバは人を乗せる車やプレゼントの包装紙とは異なり、コトバが意味するものそのものを運ぶわけではないのだ。
私がある日、山の中で今まで一度も見たことのないケモノを見たとしよう。そいつが「ガー、ガー」と聞こえる鳴き声を発していたので、私は山を下りると、あなたに「ガー、ガーというやつを見た」と告げる。
またあなたは別の日に、私が行ったものと同じ山の中に行き、やはり見たことのないケモノを見る。そいつが「ふう、ふう」と聞こえる鳴き声を発していたので、あなたは私に「ふう、ふうというやつを見た」と告げる。
私とあなたは話し合う。
「四本足だった? 尻尾はあった? 色は全体的に黒かった?」
「そのとおりだった。四本足で、尻尾があって、色は全体的に黒かった」
私とあなたはこの会話から、自分たちがそれぞれに見たケモノについて、「個体」として同一にものかどうかはわからないけれど、どうやら同じ種類のものじゃないのかな、と目星をつけていく。
私はまたある日、山の中で、「ガー、ガー」のやつを見かける。そいつは突然、ガブッと私の足に噛みついた。ブーツを履いていたのでケガは無かったが、痛かった。私はあなたに告げる。
「ガーガーのやつに、足を噛まれた。ブーツを履いていれば助かるが、ガーガーのやつは危険かもしれない」
聞いているあなたは「ふう、ふう」というやつの姿を思い出しながら、そいつが自分の足を噛もうとする姿を想像する。
そしてまた別の日、私はあなたと一緒に山の中を散策する。しばらく歩いて行った後、私たちが岩に腰かけて休憩しながらお喋りをしていると、あなたの後ろに「ガー、ガー」のやつが現れる。
危ない!
咄嗟にそう思った私は、思わず叫ぶ。
「ガーガー!」
あなたはハッとして、自分に危険が迫っていることを察して瞬時に立ち上がる。体には緊張がはしり、その鼓動は高鳴る。慌てて辺りを見渡して、以前あなたが同じ山の中で見た、「ふう、ふう」というケモノの姿を記憶を頼りに見つけようとする。
この例で最後に私が発した「ガーガー!」は、ただの音でもある。
だがそこには私たちの間に通じる意味があり、ついでに言えば私が青ざめて立ち上がったこともメッセージとなって、あなたの体を一瞬で動かした。
◇
拙い例え話で恐縮だが、コトバと意味とメッセージの関係を考えるという筆者の習慣を少しは紹介することが出来ていれば幸いだ。
小説などの物語においては、上記の例で私があなたに「ガーガー!」と叫んだようなポイントが一種のクライマックス、カタルシスになっていると思う。前段階の物語によるコミュニケーションを前提に、ただ一言、「ガーガー!」と叫んだ私の意図をあなたが察してくれた時、私とあなたの間には一体感のような充実した感覚が生まれたのではないだろうか。もちろん本当には、同一の感覚そのものを共有したわけではないのだが、またそこがいい。
この一体感を求めることは、人の根本的な欲求のひとつなのだろう。私もこの短い話のどこかで、あなたの思考が刺激を受けることを期待する。
【出典】
"Language in Thought and Action"(Forth Edition) by S.I.Hayakawa, New York, Harcourt Brace Jovanovich, Inc.
「思考と行動における言語」(原書第四版 S.I.ハヤカワ著、大久保忠利訳、1985、岩波書店)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます