第31話 孤独の記憶

 ここは何もない空間だった。天地も生き物もない無音の空間だが、不思議と閉塞感はない。ほんのりと光が差し込むため、暗闇でもなかった。そこで、私は四つ足だった。体を動かすことは出来るが、上下左右の分からない場所で動いても認識できない。


「寂しい」


 表現するとしたら、この一言だけ。誰か声を聞かせて、姿を見せて、私に触れて。


 恐ろしいほどの孤独が押し寄せる。蹲って目を閉じた。何もしなければいい。誰も私に気づかないのなら、私は死んでいるのと同じね。名前すら思い出せない自分を探す人なんていないもの。


 ――変だわ、私は誰かの記憶を追体験しているのかしら。はそう感じていた。自分の名前も思いだせるし、自我はある。なのに誰かの肉体に閉じ込められた感覚に襲われていた。自由にならない夢の中のよう。


 時々身じろぎして、音や刺激のない世界に自分で揺らぎを起こす。目を開いたら薄暗い空間、目を閉じれば暗闇。どちらも大差なかった。音があるだけ夢の方がいい。ゆっくり呼吸を落ち着けて眠った。


 かつて走り回った草原の触感、踏みしめた草の匂い、どこまでも続く青い空、この身を呼ぶ誰かの声。もう一度呼んで欲しい。その名を聞きたい、あなたの声で。願うのに、どうしても聞き取れなかった。


 肺を空にする勢いで吐き出す。ゆっくり身を起こして見回し、いつもの何もない空間にがっかりした。あれは夢だった。過去の記憶かも知れない。思いだせないあの人の手は、優しく撫でてくれた。もう一度だけ、そう願って目を閉じる。あの人に会えるのは夢の中だけ。


 幸せな暗闇と、孤独な現実の間を行き来し……ふと視線の先に出来た切れ目に気づく。あれは何? 風が入ってくる、草の匂いがして音が聞こえた。水だろうか、ゆらゆらと揺れる景色に目を奪われる。重い体をのそりと動かし、恐る恐る近づいた。触れたら消えてしまうのではないか。そう思うと怖い。


 ――ああ、もうこんな空間は嫌よ。何でもするから出して。の意識が悲鳴を上げる。


 駆ける足は徐々に軽くなり、近づくたびに体から重い鎧が落ちてく気がした。切れ目に体当たりをする。だが広がらないし通り抜けられない。もっと大きくしなくては!


 足掻いて、爪を立て牙を剥いた。徐々に切れ目を大きくすることに夢中になる。ここにきて初めてかも知れない。こんなに必死になったのは……。


 ぐっと鼻を突っ込んだ。切れ目から漂う花の香り、清らかな水の匂いを吸う。このまま切れ目が閉じたら出られなくなる。必死で顔で切れ目を押した。どのくらい足掻いたか、ふと切れ目が広がる。何をしても攻撃を受け付けなかった切れ目が、倍以上の幅になった。今しかない。


 無理やり頭をくぐらせ、肩をすぼめて片方ずつ通った。最後に尻尾まで抜けて、切れ目の向こう側が水の中だと知る。美しく透き通った水を押しのけ、明るい水面を目指した。






『リン! 起きて!! 取り込まれちゃうよ』


 頬を叩くココの前足に、重い目蓋を持ち上げた。私、戻って来られたのね。怠くて動けないから小さな声でココを呼ぶ。泣かないで。ぽつりと頬に落ちた涙は、とても温かかった。

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